第41話(最終話) そして南へ

皆さん、こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
昨年9月から綴ってきた本ブログも、いよいよ今日が最終回となりました。

挨拶は後にして、それでは最終話の解説に参りましょう。

この最終話について、ひとつお知らせ。まだドラマを観ていない方は、
楽しみを損なう可能性があります。ご覧になってからお読みになることを勧めます。




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河北にはすでに怖いものがいなくなった曹操は、南征の準備を進めていました。
南へ逃げた劉備の討伐および、その劉備をかくまう荊州の劉表を討伐を
めざしていたのですが、そこへ病身をおして、軍師の郭嘉がたずねてきました。

郭嘉は、北方の幽州へ逃げた袁尚、袁煕が、遼東の公孫康や異民族と
手を組んで挙兵してしまったら一大事であるというのです。
そのため、まずは北方を完全に平定してから南へ行くべきと主張します。

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曹洪に留守を預けて出陣する曹操。頭痛に苦しみながらも、
郭嘉の進言を受け入れ、自ら軽装騎兵を率いて北へと進軍を開始しました。

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郭嘉はかねてより作っていた地図を手渡し、丁寧に見送りをします。
病弱の郭嘉は死期が近いのでしょうか。いつになく深刻な表情に、曹操の顔も曇ります。
曹操はまた会えることを信じ、彼に別れは告げずに進軍していきました。

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曹操軍は砂漠地帯に到着しました。
水に飢えた彼らは郭嘉が記した地図を頼りに、泉のある場所へ向かいますが、
これが一向に見つかりません。

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それから7日が経ち、ついに曹操軍は力尽き、渇きによって倒れてしまいました。
郭嘉に渡された地図は、まったくのデタラメだったのです。

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そして、馬の飼葉はすべて塩辛く加工されており、馬たちは水を余計に消費していました。
郭嘉に嵌められたことを知った曹操は、ここで野垂れ死にの覚悟を決めます。
夏侯淵は、馬を殺してその血を飲もうと提案しますが、
馬がなくては7日で鄴へ引き返すことはできず、結局同じことになります。
曹操は馬を道連れにしては哀れだと、馬の荷を下ろして解き放ってしまうよう命令を出しました。

曹操は、「漢にとって代わる気があったのか」との問いかけに対し、
「わからない」と答えます。今があるのも、一歩ずつ進んできた結果であると。

しかし、その命も風前の灯。
まさか・・・こんな砂漠が、我々と精鋭たちの墓場になるとは。
夏侯淵が嘆いていると、にわかに湿った空気があたりに漂い始めます。
天の恵み、雨が降ってきたのです。

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曹操軍の将兵はよみがえりました。

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一方、留守を預かる郭嘉と程昱がいる鄴(ぎょう)にも、雨が降ってきました。
実際には遠く離れているので、天候までが同じとは思えないのですが、
ともあれ、天運は曹操に味方しました。

曹操を北の果てに追いやり、渇きによって葬り去ろうという郭嘉の策は敗れたわけです。
しかし、天が曹操に味方したのなら、それに従うほかはありません。
郭嘉は静かに「天命」を受け入れるのでした。

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息を吹き返した曹操軍は烏桓の陣営に攻め入り、守備していた異民族の首領、
蹋頓(とうとん)を討ったのを皮切りに、10万の兵を打ち破って降伏させました。
苦難を乗り越えた曹操は勝利の叫びをあげます。

逃亡した袁尚、袁煕はしぶとく逃げ、公孫康を頼って落ち延びていきますが、
ほどなくして、公孫康は曹操軍に寝返り、2人の首を送って曹操へ投降してきました。

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これで、完全に袁家を討ち滅ぼした曹操。しかし、彼は喜びませんでした。
郭嘉の訃報が届いたからです。
夏侯淵は、「郭嘉はご主君を殺そうとしたのに」と不思議がりますが、
曹操は彼の才能を惜しみ、嘆き悲しむのです。

曹操が袁尚らを追わず、公孫康も放置していたのは、郭嘉の書簡による
進言に従ったからで、果たして郭嘉の読み通り、彼らは仲違いして自滅しました。

曹操は、郭嘉を司空祭酒として手厚く弔うこと、そして
砂漠で起こったことを絶対に口外するなと夏侯淵に命じました。
曹操は、郭嘉が自分を殺そうとした気持ちが理解できたのでしょう。
雨によって曹操が助かったことを受け入れ、その上で袁尚たちの運命をも
予測し、助言してきたことに感服し、すべてを許したのです。

曹操がなぜ郭嘉をこれほどまでに尊重したのか・・・。
それは翌年に起きた「赤壁の戦い」の後に曹操がつぶやいた、
「奉孝が生きていれば・・・」という言葉からも明らかです。
曹操は、まさに罪を憎み人を憎まずの人。利害を超えた関係であったのでしょう。

本作における郭嘉と曹操の最後のエピソードは、
もちろんオリジナルですが、なかなか考えさせられる設定ではないかと思います。

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北方を完全に平定した曹操は、許昌へ引き揚げようと、凱旋の準備を張遼に命じます。
しかし許昌では、孔融をはじめとした、反曹操派の士人たちとの対決も待っています。
曹操は、南征を始めるにあたって自分を陥れようとする孔融を
血祭りにあげようと予告するのでした。

曹操は、祖父・曹騰の言葉を口にします。
「理(ことわり)や道徳が権力者を決めるのではない。権力者が理や道徳を決めるのだ」

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まもなく、夏侯惇が書簡を沢山積んだ車を牽いてやってきました。
車に積まれていたのは、蔡文姫がしたためた、亡き蔡邕(さいよう)の蔵書でした。
蔡文姫は蔡邕の蔵書の内容をすべて暗記しており、そっくり甦らせてみせたのです。

記録によれば4千巻のうち、十分の一ほどしか再現できなかったそうですが・・・
どちらにしても素晴らしい才能といえましょう。

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そしてまた、夏侯惇は文姫に託されてきたものを曹操に渡します。
それは、例の簪(かんざし)でした。曹操が折ってしまったものが元通りになっています。
文姫は、父の蔵書が「これで元通り」というメッセージを込めたのかもしれません。
まさか、曹操との恋愛が元通りになるわけではないと思いますが・・・。

彼女なりに、幼き頃のよき思い出を大事にしたいということなのでしょうか。
曹操は彼女に改めて敬服し、夫・董祀(とうし)の釈放を夏侯惇に命じるのでした。

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その後、海を見るために海岸へと向かった曹操と夏侯惇。
中原で生まれ育った曹操にとって、海は馴染みのないものでした。
この遠征中、すでに彼は何度か、海を見ていたのかもしれませんが、
はたして、その向こうに何を見たのでしょうか・・・。

史実でも、建安12年(西暦207年)、曹操は烏桓征伐で柳城へ至りました。
武人であり、政治家であり、そして詩人でもあった曹操は、そのとき、
海岸へ出て東側に碣石山(けっせきざん)を望み、海を見渡しながら詩を賦したのです。

東臨碣石 以觀滄海 水何澹澹 山島竦峙 樹木叢生 
百草豐茂 秋風蕭瑟 洪波湧起 日月之行 若出其中
星漢燦爛 若出其裏 幸甚至哉 歌以詠志

東は碣石に臨み  もって蒼海を観る 水は何ぞ淡々たる
山島は水面に立つ 樹木は叢り生え 草は豊かなり
秋風が吹けば 波は湧き起こる 月も日もまた そこより出づるがごとし
星のきらめきは またそこから出づるがごとし 幸いなるかな 詩をもって志を詠ず

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碣石山は、現在の山東省にあります。
曹操は中国の歴史上初めて「海」を詩で詠じた人物ともいわれています。
海は当時、「晦」(暗いの意)に通じ、不吉なものとされていたようですが、
その暗い海を、万物を生む偉大なものと見て崇拝の念を抱いたのです。

曹操が東に向けてこの詩を賦していたとき、もしかしたら、
反対側の東の島国からも、海を眺めていた人がいたかもしれません。
それは卑弥呼という、曹操と同時代を生きた我々の先祖だったかもしれません。
そう思うとき、私は三国志という歴史書にロマンを覚えて仕方がないのです。

さて、このシーンで、ドラマ『曹操』は完結。
曹操の幼少期から最盛期までを映像化した初めてのドラマ作品、
皆さんはいかがだったでしょうか?


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これまでのように「三国志演義」を原作としたものとは異なり、
正史『三国志』や『後漢書』などの純粋な歴史書を主な原作としていたため、
馴染みのない人物やエピソードも多数登場し、新鮮味のある作品でした。

ただ、その割には説明不足の部分も多く、場面転換も非常に多いため、
三国志をあまり知らない人はもちろん、詳しい人でさえ、
「わかりにくい」部分も多かったように思います。

三国志作品ではおなじみともいえる、劉備は悪役ですし、
関羽はあまり活躍しませんし、当然ながら諸葛孔明や周瑜も登場しませんでした。
よって、それを期待していた方には物足りなく映ったかもしれません。

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ただ、三国志の主役の一人であり、中国でも再評価が進み注目されている
曹操という人物の新たな魅力に斬り込んだ、意義のある面白い作品だったと思います。
新解釈も多く散りばめられ、観ていて飽きない作品でしたし、
このブログも個人的には楽しく綴らせていただきました。

途中で更新が思うようにできなかったり、長く中断してしまったりして、
読者の方々には、大変ご心配とご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げます。

今回のブログでは『三国志 Three Kingdoms』の時のようには、
私の力不足ゆえか、皆さんからの反響を多くは得られませんでしたが、
これまで読んでくださった皆さんには、感謝の気持ちで一杯です。
それでは、また機会がありましたら、どこかでお会いしましょう。ありがとうございました!


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主人公である曹丞相がこれからも時々、つぶやくそうです。
曹丞相に会いたくなったら、ぜひフォローしてみてください。
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第40話 屈辱の婚礼

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運命に抗うことかなわず、中原へと戻ることになった蔡琰(蔡文姫)。
夫である左賢王が、子供を連れて行くことを許さなかったため、
母と子は離れ離れとなりました。これは、もはやどちらが正しいとも言い切れません。

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そのころ、曹操は将兵を連れて、陥落させたばかりの鄴(ぎょう)城へ入城しました。
長年、袁家の本拠地だった城を、曹操はついに我が物としたのです。
(傍らにいるのは左から、曹植・曹彰・曹丕 3人の子たち)

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城内に残っていた袁家の人々に対し、許昌で面倒をみることを伝える曹操。
跪く彼らは、袁紹が敗死した今、かつての主人の過ちを認めるしかありませんでした。

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その中に一人、聡明そうな美女がいたことに眼をつけた曹操は、
彼女をその場に呼びとめ、名を尋ねます。彼女は甄(しん)夫人といい、
袁紹の次男・袁煕(えんき)の夫人だった女性です。

曹操は気に入って側室にしようとしましたが、息子の曹植や郭嘉に反対されたため、
嫡男の曹丕に譲り、娶らせることにしました。
本作では、曹操から無理矢理あてがわれたような格好ですが、
史実では曹丕が見初めて妻に望んだとされています。彼女は後に
魏の2代目皇帝になる曹叡(そうえい)を産むことになります。

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曹操一行はその後、袁紹の墓所に参拝し、冥福を祈ります。
曹洪と夏侯惇は、袁紹を仇敵とみなし跪きませんでしたが、曹操は無理に座らせました。
長らく争ったライバルでもあり、盟友でもあった袁紹に曹操は語りかけます。
墓前に酒を捧げ、感極まって涙した後、永遠の別れを告げて立ち去るのでした。

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その後、曹操は諸将を集めて曹丕と甄氏の婚礼の宴を開きました。
実は弟の妻を奪われたことを屈辱に思った袁譚が、
謀反を画策していたのですが、彼は部下に殺害され、企ては未然に防がれました。
曹操は喜び、諸将から雑兵にまで分け隔てなく、九醞春酒をふるまうのでした。

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その後、鄴にとどまる曹操を、匈奴から許昌へ戻ってきていた
蔡琰(蔡文姫)が訪ねてきますが、曹操は会わずに帰そうとします。
すると、彼女は「会わないのならこれを」と、置き土産を残していきました。

この簪(かんざし)には、「お早いお帰りを 曹操」と刻まれていますが、
それを見た曹操は、この文字の意味が何のことだか分からず、首をかしげます。

展開が分かりにくいのですが、蔡文姫は中原へ戻ってきてから
すぐに同郷出身の董祀(とうし)に嫁いだのです。しかし、
その夫が牛を殺した罪で処刑されると聞き、曹操に助命嘆願に来たのでした。
(当時、農耕に必要な牛は重要視され勝手に殺すことは重罪だったみたいです)

董祀は匈奴へ使者として赴いた使者のうちの一人です。
彼女は3度目の結婚ということになりますが、彼に嫁いだのは、
史書によれば曹操の指示だったようです。しかし、本作においては、
自分の意志で再婚したような描かれ方がされています。

曹操は、文姫が夫に殉じるというので慌てて呼び戻し、会うことにしました。
そして彼女を待っている間、曹操はようやく思い出すのでした。
いま、手元に置いた簪は、かつて自分が彼女に贈ったものであり、
その文字も自分が刻んだものだったということを。

しかし、曹操は一笑するや、簪を二つにポキリと折ってしまいます・・・。

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そして再会する2人。別れたときが180年頃でしたから、実に27年ぶりでしょうか。
本作においては、第6話以来の再会です。

文姫は、ほとんど変わらずあの頃と同様の美貌を保っているように見えますが、
当時20歳だったとしても、40代後半になっているはずです。曹操は53歳。
(史実の文姫は曹操より22歳も年下の177年生まれなので、
第6話の時点では4~5歳ぐらいだったことになりますが、
本作は年齢設定が曖昧なので、あまり気にしないほうが良いです)

曹操は懐かしさのあまり、にわかに昔の情を思い出して文姫の肩に触れようとしますが、
文姫は拒絶するように肩を引っ込めます。嫌でも時の流れを感じさせる瞬間です。

文姫は曹操に訴えます。匈奴から戻ってくる長旅の道中で、
病にかかり、必死に看病してくれたのが董祀であったこと、
董祀が牛を殺したのは、自分に肉を与え栄養をつけさせるためであったことを。
そのおかげで助かったと彼女は言うのです。

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殺すのなら一緒に殺してほしい、と願う彼女。
しかし、簡単に法を曲げるわけにはいかないため、曹操は彼女に対し、
一つの条件を出します。それは生前に彼女の父・蔡邕(さいよう)が
所有していたが戦乱によって散逸してしまった4千冊の蔵書・著作を再現することでした。
とてつもない無理難題に思えますが、文姫は必ずやりとげると約束するのでした。

父の書は、すべて心の中に暗記していると答える文姫。
半年で成し遂げたならば、曹操は董祀の命を助けると約束しました。

彼女は自分が漢に戻ってきた意味を、曹操と再会するためではなく、
漢の歴史を記すためだとハッキリと理解します。

謝して立ち去ろうとする彼女を呼びとめ、曹操は折った簪を返却しました。
簪を折ってしまったのは、おそらくは彼女があっさりと董祀の妻になっていて、
彼女の心の中に、もう自分の姿がないと悟ったから、なのかもしれません。

「私はこの手中の剣を、天下の鋤として大地を一つにまとめたい。
漢室復興のために。幼き頃から今まで、それは揺るいだことがない・・・」


曹操の天下と漢朝に対する思いを聞いて、文姫は悲しげな顔をしながらも
「かつて自分のそばで詩を諳んじた青年の姿を思い出しました」と告げ、
静かに立ち去るのでした。

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そのころ、日に日に病が重くなる郭嘉は、名医・華佗(かだ)の診療を受けていました。
火の煙にやられた毒が肺を冒しているとみて、薬を与える華佗。

華佗が立ち去った後、郭嘉は程昱と天下の趨勢を話します。
河北では袁譚が死に、袁煕と袁尚はすでに虫の息。
南の荊州には劉表がいるが、やがて狡猾な劉備に乗っ取られるだろう。
揚州の孫権は配下に周瑜という英傑を従え、よく治めている。
西暦207年の中国は、およそこのような勢力図になっています。

曹操は河北をほぼ手中に収めて驕り高ぶり、最近では
郭嘉や程昱さえ遠ざけ、意見すらロクに聞かなくなったというのです。
郭嘉は自分の命が長くないことを悟るとともに、その政権の危うさを危惧し、
何らかの計画を実行に移そうとしているのですが・・・。

・・・さて、みなさん。
長らく続いてきたこのドラマ「曹操」オフィシャルブログですが、
いよいよ次回の第41話で最終回。更新は、また明日を予定しています。
どうか最後まで、お付き合いのほどよろしくお願いします。

第39話 思慕の歌

こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
いよいよ今回からは第7章、つまり最終章に入ります。
といっても、最終章はわずか3話と短いのですが。
残り3話、頑張って綴って参りますので、どうか最後までお付き合いの程お願い致します。

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父・袁紹の死後、冀州の鄴(ぎょう)城では長男の袁譚(えんたん)が、
曹操軍を相手に懸命に奮戦していましたが、参謀の逢紀(ほうき)と意見が対立し、
先に帰ろうとした彼を斬ってしまいました。
袁紹の遺児たちは団結できずに対立し、さらに混迷の度合いを深めています。

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まあ、それというのも袁紹の跡目を継いだのは、三男の袁尚(えんしょう)だから
なのですが・・・。袁譚は長男である自分が、弟の命令で動くこと自体、我慢ならないのです。
仲の悪い兄弟を前に、参謀の審配(しんぱい/左)も、苦味のある心配顔(笑)。

袁譚は独断で、曹操軍に降伏を申し入れたと言い、袁尚を慌てさせます。
そうやってわざと曹操軍をおびき寄せ、だまし討ちにしようというのが狙いです。

袁譚の降伏は罠と知りながら、騙されたふりをして入城したのは、曹丕と郭嘉。
曹操はすぐさま、突入して彼らを救おうとしたのですが、城門が鉄柵で堅く閉ざされてしまい、
作戦は失敗します。何人かの兵が犠牲になり、鉄柵を持ち上げたことで
曹丕、郭嘉は城外へ逃れることができましたが、その折に郭嘉は火矢に狙われ、
その火矢が油に着火したため、煙を吸い込んで倒れてしまいました。
思わぬ反撃に遭い、曹操軍は一時撤退します。

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もともと病気がちだった郭嘉は、無理がたたって寝込んでしまいました。
曹操は自ら見舞い、薬を運んでやりました。
力攻めに反対していた郭嘉の意見を聞かずに敗れた曹操は、詫びます。
郭嘉はそれでも病床にありながら、曹操に鄴城攻略の策を授けようとするのです。

曹操は郭嘉の進言に従い、一度撤退して様子を見ました。
すると、郭嘉の見立て通りに袁譚、袁尚は争いをはじめ、敗れた袁譚は曹操に投降。

袁尚は鄴に立て籠もって曹操軍を迎え撃ちますが、
敗走して曹操に投降を申し入れました。しかし、曹操は
「いまさら降伏など」と、これを突っぱね、武力で袁尚を討ち滅ぼそうとします。

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曹操は投降してきた辛毗(しんぴ)に鄴城を攻めさせますが、
それを見て怒った審配は、辛毗の家族たちを城壁から落としたり、
城壁の上で殺害して見せしめにします。辛毗は憤怒の形相で城攻めにかかります。
この苛烈な作戦が功を奏して、審配の息子・審栄が寝返り、鄴城は陥落しました。

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この曹操の策を非情だとして、面と向かって批判したのは、郭嘉でした。
時に漢王朝の威信さえも利用し、今回の辛毗のように人を駒として扱うようになった
曹操に対し、次第に反発を覚えるようになった郭嘉。
曹操は本当に世のために必要な人間なのか・・・郭嘉は苦悩します。

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ところ変わって、匈奴(きょうど)の土地。匈奴は中国北部、蒙古に勢力を広げる異民族です。
曹操はここに使者を送り、贈り物を届けるとともに、
その見返りとして、「蔡琰(蔡文姫)を引き取って来い」と命じたのです。

曹操は、文姫が今は匈奴の左賢王(さけんおう)の妻となっていることを知り、
その詩の才能を惜しんでか、財宝と引き換えに呼び戻したいと考えました。
第25話で、彼女が左賢王に連れ去られるシーンがありましたね)

「単于」(ぜんう)と呼ばれる匈奴の王、於夫羅(おふら)は
曹操から派遣された周近、董祀の2人を、まずは歓待しようとしますが、
使者2人は友好的な態度は一切なく「ただ蔡琰を引き渡せ」、と彼らにいいます。
同時に、これは強制である旨を伝えました。

匈奴は前年に一度、曹操に対して乱を起こしましたが、この戦いに敗れており、
和睦してからは従属する立場でした。この申し入れを断れば、
それは曹操に対する反逆と見なされ、攻撃を受けることになりかねません。

しかし、左賢王は突然、自分の妻を引き渡せといわれ、
使者の無礼な態度に憤慨し、剣を抜きかけます。
於夫羅に止められますが、気持ちが治まらず一触即発の状況に・・・。

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そこへ、当の本人である文姫がその場に現れました。
文姫はまたも運命に抗うことをせず、夫に中原へ戻ることを告げます。
左賢王は妻の意外なほどに淡白な態度に憤慨し、その場を去りました。

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左賢王に2人の子は残していくように命じられたため、
彼との間にもうけた、2人の子を抱きしめる文姫。
彼女は、12年に及んだ異国での暮らしに別れを告げ、中原へ戻るのでした。

<この人に注目!>
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於夫羅(左)、左賢王(右)

匈奴には、単于(ぜんう)と呼ばれる支配者がいた。その名は於夫羅(おふら)。史実の於夫羅は195年に病死しており、この時期は弟の呼廚泉(こちゅうせん)が跡を継いでいたはずだが、本作では於夫羅が存命しているという設定になっている。
蔡文姫をめとった左賢王は、本作では「左賢王」としか呼ばれないが、於夫羅の子であるならば劉豹(りゅうひょう)という名が伝わる。左賢王には、単于の子(王子)が就任する定めになっていた。劉豹の子、劉淵(りゅうえん)は、五胡十六国時代の漢(前趙)を建国した人物だが、劉淵の生まれは251年ごろとされるため、蔡琰が産んだ子ではない。

第38話 袁紹死す

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袁紹との決戦に勝利した曹操軍でしたが、その喜びに水を差す人物がいました。
烏巣(うそう)への奇襲を進言した許攸(きょゆう)です。

確かに彼がいなければ、曹操軍の勝利はなかったかもしれませんが、
許攸はおごり高ぶり、酒に酔って自分の功績を誇る
ばかりか、諸将を馬鹿にした態度をとり規律を乱します。
「人間、偉くなってもこうなってはいけない」という典型ですね(笑)。

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曹操も内心、不快に思っていましたが、彼の功績も大きかったので
公然と処罰することができずにいました。しかし、祝勝会の夜に
許攸が一人になったところで、許褚に命じてあっさりと斬らせてしまいました。

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冀州の黎陽(れいよう)を占領し、家族を呼び寄せた曹操は、
久しぶりに一家団欒のひとときを過ごします。
妻の卞(べん)、曹丕、曹彰、曹植の3兄弟とともに卓を囲む曹操。

久々に登場した卞夫人、相変わらずの美貌です。
曹操は、国作りの考え方が異なる荀彧の陰口を叩こうとした曹丕を
「それ以上いうな」と制します。図星だったからでしょうか?
楽しいムードもしらけてしまいました。

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そのころ、袁紹に最期の時が訪れました。
官渡・倉亭の戦いに敗れて以来、河北では反乱が頻発するようになり、
心痛のあまり病床に伏していましたが、建安7年(202年)5月、
妻子たちに看取られ、ついに世を去ったのです。

・・・個人的には正直、袁紹はもう少し有能な人物として描いて欲しかったです。
河北で独立してからの袁紹は、まったくいいところがありません。

それは、ある意味史実通りなんですが、そもそも、
なぜ、袁紹はあれだけの大勢力を誇ることができたのか、
ドラマなりに、もう少し「大物」として描いても良かったように思えます。
そういう意味で呂布も物足りなかったです。

ライバルを大きく見せることによって、曹操の偉大さが、
さらに引き立ったんではないか・・・、と私は考えるのですが、どうでしょう?

さて、「袁紹死す」の報を聞いた曹操も、さすがに衝撃を受けたようですが、
これで怖いものがなくなりました。曹操は袁紹の領地を受け継いだ、
袁譚、袁煕、袁尚の3人を争わせて自滅させようと手を廻します。
曹操はそれを足がかりに、袁紹の旧領地である河北統一をめざすことになります。

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卞夫人は、曹操にあるものを手渡しました。
それは布に書き留めた胡人の歌。匈奴(きょうど)の商人が歌っていたものといいます。
一読した曹操は、懐かしい思いにとらわれました・・・。
その作者が誰であるかは、本編で明らかになりますが、詳しくは次回で記しましょう。

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そのころ、鄴(ぎょう)城では袁紹の葬儀が行なわれていましたが、3人の子は
座る席の位置で揉め事を起こします。それと言うのも、袁紹が後継者に命じたのは
末っ子の袁尚だったので、長男の袁譚はそれが面白くないのです。

次男の袁煕には欲がなく、兄と弟を仲裁しますが、収拾がつきません。
こうして河北は身内同士での内紛により、混迷の度合いを深め、
曹操のさらなる進出を許していくのです・・・。

第37話 官渡の戦い

攻めるも地獄、攻めぬも地獄。
このままでは、兵糧が枯渇して自滅するほかない曹操は、
袁紹軍を裏切ってきた許攸(きょゆう)の進言を受けて、
烏巣(うそう)への攻撃を決断しました。

烏巣は、袁紹軍の食糧基地で、名将の淳于瓊(じゅんうけい)が
10万の兵で守備していましたが、曹操は坐して死を待つより攻める選択をしたのです。

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袁紹軍の援軍に化け、曹操も兵の一人に身をやつして烏巣へと進軍します。
見張りの将、張郃(ちょうこう)と高覧に見つかりますが、巧みに切り抜けて通ります。
彼らも、まさか曹操が奇襲に来たとは思いもよらなかったのでしょう。

しかし、この奇襲は容易ではありません。なにしろ10万の守備軍に対し、
曹操が連れてきたのは5千の軽装兵。よほど上手く仕掛けなくては
成功はおぼつきません。

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曹操軍にとって幸いだったのは、淳于瓊が酒で酔いつぶれていたことです。
その情報を知ってか知らずか、曹操軍は見事奇襲に成功し、兵糧庫に
次々と火を放っていきました。淳于瓊が武器をとって表に出たときには、
すでに烏巣は火の海でした。

報告を受けた袁紹は、烏巣奇襲を見落とした張郃と高覧を罵った挙句、
彼らに官渡(曹操の本陣)攻撃を命じますが、2人は烏巣救援を懇願しました。

しかし、袁紹は蒋奇(しょうき)を烏巣の援軍に向かわせるといい、
2人にはやはり本陣攻撃を命じ、落とすまで帰らないよう言い放ちます。
郭図の進言を信じてのことでしたが、これはまずい選択でした。

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張郃と高覧は、仕方なく官渡へ向かいますが、
予想通り、官渡は曹仁、曹洪らが堅く備えを布いており、難攻が予想されました。
そのため、二将は戦いをあきらめ、曹操軍への投降を決めます。

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そのころ、蒋奇の援軍を退けて烏巣を陥落させた曹操は、
淳于瓊の鼻をそいで袁紹陣営に送り、勝利の凱歌を上げたのです。

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兵糧がことごとく焼き尽くされた袁紹軍は、一気に士気が落ちて撤退し、
官渡の戦いは曹操軍の大勝利で終わります。
曹操は、こうして長く苦しかった天下分け目の戦いを勝利で飾りました。

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勝利した曹操は、投降した者や捕虜に対する処遇を決めます。
まず、檄文で自らを痛烈に罵倒した陳琳(ちんりん)は、その文才を認めて許しました。

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袁紹のために数々の献策をしながら、用いられずに捕虜となった沮授(そじゅ)も
曹操はその才能を惜しんで救おうとしましたが、本人にその意志はなく、
とりあえず気持ちが変わることを期待して休ませることにしました。
結局その後、沮授は脱走を企てて斬られてしまうのです・・・。

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袁紹の陣営からは、多数の投降文書が見つかりました。
曹操の配下たちが、袁紹に対して寝返りを約束をした
内通の証拠文書ですが、曹操は中身を見ずにすべて焼き払ってしまいました。

当時を生きた人は精一杯戦っていましたから、
どちらが勝つかなど分かりません。曹操には内通者の気持ちを汲み、
見なかったことにしたのです。清濁併せ呑むことも、リーダーには必要ということ。

その後、袁紹はまだ強大な兵力を有していたため、倉亭で曹操軍に
戦いを挑みましたが、官渡の敗戦の痛手は大きく、またも敗れます。
袁紹と曹操。生涯のライバルの力関係は、ついにここに逆転したのでした・・・。

※週明けの5月12日から、
最終41話まで連日の更新を予定しています。ぜひご覧ください!

第36話 義兄弟の絆

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曹操は延津へと向かう途中で、わざと宝物類を落として行きました。
援軍にやってくるであろう、袁紹軍への目くらましのつもりでしたが、
はたして、文醜が率いてきた兵士たちは我先にと、それを拾いにかかります。

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文醜は拾わないように注意しましたが、兵たちの気持ちも分かるので
ひとまずは好きにさせるのですが、そこへ自ら伏兵となった曹操や関羽たちが
襲い掛かってきて・・・遭えなく文醜は斬られました。
顔良、文醜は袁紹軍の武の二枚看板ともいうべき名将のはずですが、
あっさりと討たれてしまいます。

このように、戦闘の描写に重きを置かないところは、
女性監督のフーメイさんらしい演出といえますが・・・
顔良は関羽に背後から一刀で斬られ、文醜に至っては死亡シーンすら
映りませんでしたので、さすがにもう少し活躍させて欲しかったように思えます。

確かに正史において、顔良と文醜は大した活躍はしていませんが、
『演義』では、曹操軍をさんざんに苦しめた強敵として知られています。
個人の武勇の見せ場があることも、三国志の面白さのひとつかと思うので
この点、少し残念に思いました。

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緒戦で勝利を収めた曹操ですが、まだまだ強大な袁紹軍の出鼻を挫いたに過ぎず、
以後は守りを上策として、やたらに攻撃せずに戦機を待つ方針に切り替えます。
さらに曹操は戦が終わるまで禁酒令を出し、規律を整えるのでした。

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さて、関羽は顔良を斬って曹操の命を救ったことで、恩義には報いたとして、
曹操陣営を去ろうとしていました。袁紹のもとに劉備がいると分かったからです。
曹操は献帝に働きかけ、関羽を漢寿亭候に任命してもらい、
印綬まで取り寄せていましたが、関羽の決意を変えることはできません。

関羽が陣営を去るばかりか、敵側の袁紹の戦力になられてはたまりません。
去ろうとする関羽を、曹洪ら諸将が追って捕縛しようとしますが、
曹操は約束を守るためにそれを制し、張遼に見送りを命じました。

その後、曹操軍と袁紹軍は長くにらみ合いを続けます。
しかし、物量に勝る袁紹軍は連日、高台から曹操陣営に対して矢の雨を降らせ、
威圧を続けます。優位な袁紹に呼応して、孫策や劉辟(りゅうへき)といった
群雄も曹操の領地を脅かす動きを見せていました。

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加えて、兵糧が枯渇しはじめ、許都の民から徴発をして
急場をしのぎましたが、曹操軍は徐々に劣勢に陥っていきます。

さすがに弱気になり始める曹操ですが、許都で留守をあずかる荀彧から、
「兵の数では劣るが、用兵では勝る」と踏みとどまって抗戦を続けるようにと
書簡が届きます。荀彧は、一貫して袁紹は怖い相手ではない、と
曹操を励まし続けています。

曹操は戦局を打開しようと、袁紹軍の兵糧輸送隊を奇襲して、
これを見事に焼き払いますが、焼き払うだけで奪うことはできず、
苦境には変わりありませんでした。

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怒った袁紹は、数の利を生かして曹操陣営を毎日のように攻撃をしかけます。
苦戦する諸将を励ます曹操。

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曹操軍は、劉曄が完成させた霹靂車(へきれきしゃ)で反撃に転じます。
火をつけた岩を発射し、敵陣へと撃ち込む新兵器で、
袁紹軍の弓兵隊を散り散りにさせ、曹操軍はひとまず窮地を脱しました。

一進一退の攻防が続くなか、袁紹陣営の間で揉め事が起こります。
袁紹の参謀の一人、許攸(きょゆう)が兵糧を着服したというのです。

許攸は言い逃れのついでに、曹操軍の兵糧がほぼ底を尽きかけて
いることを知らせますが、審配(しんぱい)の諫言を受けた袁紹は
許攸の情報を信じず、彼を捕らえさせます。

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もし、このときに袁紹が許攸の言葉を信じていれば、この戦いは
袁紹の勝利で終わっていたかもしれません。彼はそれほどに鍵を握る男でした。

捕らわれた許攸は、兵たちに金の隠し場所を教えて、ただちに曹操へと投降。
曹操は許攸が来たと知るや、靴も履かずに彼を出迎えて帷幄に招きます。
戦中のためか、護衛の許褚(きょちょ)もおらず、かなり無防備ですが、
曹操は疑う様子もありません。

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許攸は、曹操に袁紹軍の兵糧庫・烏巣(うそう)の場所を教えました。
しかし、そこは元・西園八校尉の一人である淳于瓊(じゅんうけい)という
将軍が堅く守っているため、容易に手出しができないと曹操は言います。

それを聞いた許攸は、曹操に兵糧があとどの程度残っているか尋ねました。
曹操は最初、半年分と答えますが、許攸はそれなら心配いらない、と
一笑に付して陣営を去ろうとします。

しかし、曹操は引き止めて、実はあと一月分、
いや3日分しかないと実情を打ち明けるのでした・・・。
曹操軍には、許都へ撤退する道中の分の兵糧すら無いというのです。
さて、いかにこの局面を打開するのでしょうか?

※次回は5月9日に更新します。よろしくお願いします。
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