皆さん、こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
昨年9月から綴ってきた本ブログも、いよいよ今日が最終回となりました。
挨拶は後にして、それでは最終話の解説に参りましょう。
※この最終話について、ひとつお知らせ。まだドラマを観ていない方は、
楽しみを損なう可能性があります。ご覧になってからお読みになることを勧めます。

河北にはすでに怖いものがいなくなった曹操は、南征の準備を進めていました。
南へ逃げた劉備の討伐および、その劉備をかくまう荊州の劉表を討伐を
めざしていたのですが、そこへ病身をおして、軍師の郭嘉がたずねてきました。
郭嘉は、北方の幽州へ逃げた袁尚、袁煕が、遼東の公孫康や異民族と
手を組んで挙兵してしまったら一大事であるというのです。
そのため、まずは北方を完全に平定してから南へ行くべきと主張します。

曹洪に留守を預けて出陣する曹操。頭痛に苦しみながらも、
郭嘉の進言を受け入れ、自ら軽装騎兵を率いて北へと進軍を開始しました。

郭嘉はかねてより作っていた地図を手渡し、丁寧に見送りをします。
病弱の郭嘉は死期が近いのでしょうか。いつになく深刻な表情に、曹操の顔も曇ります。
曹操はまた会えることを信じ、彼に別れは告げずに進軍していきました。

曹操軍は砂漠地帯に到着しました。
水に飢えた彼らは郭嘉が記した地図を頼りに、泉のある場所へ向かいますが、
これが一向に見つかりません。

それから7日が経ち、ついに曹操軍は力尽き、渇きによって倒れてしまいました。
郭嘉に渡された地図は、まったくのデタラメだったのです。

そして、馬の飼葉はすべて塩辛く加工されており、馬たちは水を余計に消費していました。
郭嘉に嵌められたことを知った曹操は、ここで野垂れ死にの覚悟を決めます。
夏侯淵は、馬を殺してその血を飲もうと提案しますが、
馬がなくては7日で鄴へ引き返すことはできず、結局同じことになります。
曹操は馬を道連れにしては哀れだと、馬の荷を下ろして解き放ってしまうよう命令を出しました。
曹操は、「漢にとって代わる気があったのか」との問いかけに対し、
「わからない」と答えます。今があるのも、一歩ずつ進んできた結果であると。
しかし、その命も風前の灯。
まさか・・・こんな砂漠が、我々と精鋭たちの墓場になるとは。
夏侯淵が嘆いていると、にわかに湿った空気があたりに漂い始めます。
天の恵み、雨が降ってきたのです。

曹操軍の将兵はよみがえりました。

一方、留守を預かる郭嘉と程昱がいる鄴(ぎょう)にも、雨が降ってきました。
実際には遠く離れているので、天候までが同じとは思えないのですが、
ともあれ、天運は曹操に味方しました。
曹操を北の果てに追いやり、渇きによって葬り去ろうという郭嘉の策は敗れたわけです。
しかし、天が曹操に味方したのなら、それに従うほかはありません。
郭嘉は静かに「天命」を受け入れるのでした。

息を吹き返した曹操軍は烏桓の陣営に攻め入り、守備していた異民族の首領、
蹋頓(とうとん)を討ったのを皮切りに、10万の兵を打ち破って降伏させました。
苦難を乗り越えた曹操は勝利の叫びをあげます。
逃亡した袁尚、袁煕はしぶとく逃げ、公孫康を頼って落ち延びていきますが、
ほどなくして、公孫康は曹操軍に寝返り、2人の首を送って曹操へ投降してきました。

これで、完全に袁家を討ち滅ぼした曹操。しかし、彼は喜びませんでした。
郭嘉の訃報が届いたからです。
夏侯淵は、「郭嘉はご主君を殺そうとしたのに」と不思議がりますが、
曹操は彼の才能を惜しみ、嘆き悲しむのです。
曹操が袁尚らを追わず、公孫康も放置していたのは、郭嘉の書簡による
進言に従ったからで、果たして郭嘉の読み通り、彼らは仲違いして自滅しました。
曹操は、郭嘉を司空祭酒として手厚く弔うこと、そして
砂漠で起こったことを絶対に口外するなと夏侯淵に命じました。
曹操は、郭嘉が自分を殺そうとした気持ちが理解できたのでしょう。
雨によって曹操が助かったことを受け入れ、その上で袁尚たちの運命をも
予測し、助言してきたことに感服し、すべてを許したのです。
曹操がなぜ郭嘉をこれほどまでに尊重したのか・・・。
それは翌年に起きた「赤壁の戦い」の後に曹操がつぶやいた、
「奉孝が生きていれば・・・」という言葉からも明らかです。
曹操は、まさに罪を憎み人を憎まずの人。利害を超えた関係であったのでしょう。
本作における郭嘉と曹操の最後のエピソードは、
もちろんオリジナルですが、なかなか考えさせられる設定ではないかと思います。

北方を完全に平定した曹操は、許昌へ引き揚げようと、凱旋の準備を張遼に命じます。
しかし許昌では、孔融をはじめとした、反曹操派の士人たちとの対決も待っています。
曹操は、南征を始めるにあたって自分を陥れようとする孔融を
血祭りにあげようと予告するのでした。
曹操は、祖父・曹騰の言葉を口にします。
「理(ことわり)や道徳が権力者を決めるのではない。権力者が理や道徳を決めるのだ」

まもなく、夏侯惇が書簡を沢山積んだ車を牽いてやってきました。
車に積まれていたのは、蔡文姫がしたためた、亡き蔡邕(さいよう)の蔵書でした。
蔡文姫は蔡邕の蔵書の内容をすべて暗記しており、そっくり甦らせてみせたのです。
記録によれば4千巻のうち、十分の一ほどしか再現できなかったそうですが・・・
どちらにしても素晴らしい才能といえましょう。

そしてまた、夏侯惇は文姫に託されてきたものを曹操に渡します。
それは、例の簪(かんざし)でした。曹操が折ってしまったものが元通りになっています。
文姫は、父の蔵書が「これで元通り」というメッセージを込めたのかもしれません。
まさか、曹操との恋愛が元通りになるわけではないと思いますが・・・。
彼女なりに、幼き頃のよき思い出を大事にしたいということなのでしょうか。
曹操は彼女に改めて敬服し、夫・董祀(とうし)の釈放を夏侯惇に命じるのでした。

その後、海を見るために海岸へと向かった曹操と夏侯惇。
中原で生まれ育った曹操にとって、海は馴染みのないものでした。
この遠征中、すでに彼は何度か、海を見ていたのかもしれませんが、
はたして、その向こうに何を見たのでしょうか・・・。
史実でも、建安12年(西暦207年)、曹操は烏桓征伐で柳城へ至りました。
武人であり、政治家であり、そして詩人でもあった曹操は、そのとき、
海岸へ出て東側に碣石山(けっせきざん)を望み、海を見渡しながら詩を賦したのです。
東臨碣石 以觀滄海 水何澹澹 山島竦峙 樹木叢生
百草豐茂 秋風蕭瑟 洪波湧起 日月之行 若出其中
星漢燦爛 若出其裏 幸甚至哉 歌以詠志
東は碣石に臨み もって蒼海を観る 水は何ぞ淡々たる
山島は水面に立つ 樹木は叢り生え 草は豊かなり
秋風が吹けば 波は湧き起こる 月も日もまた そこより出づるがごとし
星のきらめきは またそこから出づるがごとし 幸いなるかな 詩をもって志を詠ず

碣石山は、現在の山東省にあります。
曹操は中国の歴史上初めて「海」を詩で詠じた人物ともいわれています。
海は当時、「晦」(暗いの意)に通じ、不吉なものとされていたようですが、
その暗い海を、万物を生む偉大なものと見て崇拝の念を抱いたのです。
曹操が東に向けてこの詩を賦していたとき、もしかしたら、
反対側の東の島国からも、海を眺めていた人がいたかもしれません。
それは卑弥呼という、曹操と同時代を生きた我々の先祖だったかもしれません。
そう思うとき、私は三国志という歴史書にロマンを覚えて仕方がないのです。
さて、このシーンで、ドラマ『曹操』は完結。
曹操の幼少期から最盛期までを映像化した初めてのドラマ作品、
皆さんはいかがだったでしょうか?

これまでのように「三国志演義」を原作としたものとは異なり、
正史『三国志』や『後漢書』などの純粋な歴史書を主な原作としていたため、
馴染みのない人物やエピソードも多数登場し、新鮮味のある作品でした。
ただ、その割には説明不足の部分も多く、場面転換も非常に多いため、
三国志をあまり知らない人はもちろん、詳しい人でさえ、
「わかりにくい」部分も多かったように思います。
三国志作品ではおなじみともいえる、劉備は悪役ですし、
関羽はあまり活躍しませんし、当然ながら諸葛孔明や周瑜も登場しませんでした。
よって、それを期待していた方には物足りなく映ったかもしれません。

ただ、三国志の主役の一人であり、中国でも再評価が進み注目されている
曹操という人物の新たな魅力に斬り込んだ、意義のある面白い作品だったと思います。
新解釈も多く散りばめられ、観ていて飽きない作品でしたし、
このブログも個人的には楽しく綴らせていただきました。
途中で更新が思うようにできなかったり、長く中断してしまったりして、
読者の方々には、大変ご心配とご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げます。
今回のブログでは『三国志 Three Kingdoms』の時のようには、
私の力不足ゆえか、皆さんからの反響を多くは得られませんでしたが、
これまで読んでくださった皆さんには、感謝の気持ちで一杯です。
それでは、また機会がありましたら、どこかでお会いしましょう。ありがとうございました!
※ツイッターの「曹操」公式アカウントでは、
主人公である曹丞相がこれからも時々、つぶやくそうです。
曹丞相に会いたくなったら、ぜひフォローしてみてください。
https://twitter.com/sousou_drama
昨年9月から綴ってきた本ブログも、いよいよ今日が最終回となりました。
挨拶は後にして、それでは最終話の解説に参りましょう。
※この最終話について、ひとつお知らせ。まだドラマを観ていない方は、
楽しみを損なう可能性があります。ご覧になってからお読みになることを勧めます。

河北にはすでに怖いものがいなくなった曹操は、南征の準備を進めていました。
南へ逃げた劉備の討伐および、その劉備をかくまう荊州の劉表を討伐を
めざしていたのですが、そこへ病身をおして、軍師の郭嘉がたずねてきました。
郭嘉は、北方の幽州へ逃げた袁尚、袁煕が、遼東の公孫康や異民族と
手を組んで挙兵してしまったら一大事であるというのです。
そのため、まずは北方を完全に平定してから南へ行くべきと主張します。

曹洪に留守を預けて出陣する曹操。頭痛に苦しみながらも、
郭嘉の進言を受け入れ、自ら軽装騎兵を率いて北へと進軍を開始しました。

郭嘉はかねてより作っていた地図を手渡し、丁寧に見送りをします。
病弱の郭嘉は死期が近いのでしょうか。いつになく深刻な表情に、曹操の顔も曇ります。
曹操はまた会えることを信じ、彼に別れは告げずに進軍していきました。

曹操軍は砂漠地帯に到着しました。
水に飢えた彼らは郭嘉が記した地図を頼りに、泉のある場所へ向かいますが、
これが一向に見つかりません。

それから7日が経ち、ついに曹操軍は力尽き、渇きによって倒れてしまいました。
郭嘉に渡された地図は、まったくのデタラメだったのです。

そして、馬の飼葉はすべて塩辛く加工されており、馬たちは水を余計に消費していました。
郭嘉に嵌められたことを知った曹操は、ここで野垂れ死にの覚悟を決めます。
夏侯淵は、馬を殺してその血を飲もうと提案しますが、
馬がなくては7日で鄴へ引き返すことはできず、結局同じことになります。
曹操は馬を道連れにしては哀れだと、馬の荷を下ろして解き放ってしまうよう命令を出しました。
曹操は、「漢にとって代わる気があったのか」との問いかけに対し、
「わからない」と答えます。今があるのも、一歩ずつ進んできた結果であると。
しかし、その命も風前の灯。
まさか・・・こんな砂漠が、我々と精鋭たちの墓場になるとは。
夏侯淵が嘆いていると、にわかに湿った空気があたりに漂い始めます。
天の恵み、雨が降ってきたのです。

曹操軍の将兵はよみがえりました。

一方、留守を預かる郭嘉と程昱がいる鄴(ぎょう)にも、雨が降ってきました。
実際には遠く離れているので、天候までが同じとは思えないのですが、
ともあれ、天運は曹操に味方しました。
曹操を北の果てに追いやり、渇きによって葬り去ろうという郭嘉の策は敗れたわけです。
しかし、天が曹操に味方したのなら、それに従うほかはありません。
郭嘉は静かに「天命」を受け入れるのでした。

息を吹き返した曹操軍は烏桓の陣営に攻め入り、守備していた異民族の首領、
蹋頓(とうとん)を討ったのを皮切りに、10万の兵を打ち破って降伏させました。
苦難を乗り越えた曹操は勝利の叫びをあげます。
逃亡した袁尚、袁煕はしぶとく逃げ、公孫康を頼って落ち延びていきますが、
ほどなくして、公孫康は曹操軍に寝返り、2人の首を送って曹操へ投降してきました。

これで、完全に袁家を討ち滅ぼした曹操。しかし、彼は喜びませんでした。
郭嘉の訃報が届いたからです。
夏侯淵は、「郭嘉はご主君を殺そうとしたのに」と不思議がりますが、
曹操は彼の才能を惜しみ、嘆き悲しむのです。
曹操が袁尚らを追わず、公孫康も放置していたのは、郭嘉の書簡による
進言に従ったからで、果たして郭嘉の読み通り、彼らは仲違いして自滅しました。
曹操は、郭嘉を司空祭酒として手厚く弔うこと、そして
砂漠で起こったことを絶対に口外するなと夏侯淵に命じました。
曹操は、郭嘉が自分を殺そうとした気持ちが理解できたのでしょう。
雨によって曹操が助かったことを受け入れ、その上で袁尚たちの運命をも
予測し、助言してきたことに感服し、すべてを許したのです。
曹操がなぜ郭嘉をこれほどまでに尊重したのか・・・。
それは翌年に起きた「赤壁の戦い」の後に曹操がつぶやいた、
「奉孝が生きていれば・・・」という言葉からも明らかです。
曹操は、まさに罪を憎み人を憎まずの人。利害を超えた関係であったのでしょう。
本作における郭嘉と曹操の最後のエピソードは、
もちろんオリジナルですが、なかなか考えさせられる設定ではないかと思います。

北方を完全に平定した曹操は、許昌へ引き揚げようと、凱旋の準備を張遼に命じます。
しかし許昌では、孔融をはじめとした、反曹操派の士人たちとの対決も待っています。
曹操は、南征を始めるにあたって自分を陥れようとする孔融を
血祭りにあげようと予告するのでした。
曹操は、祖父・曹騰の言葉を口にします。
「理(ことわり)や道徳が権力者を決めるのではない。権力者が理や道徳を決めるのだ」

まもなく、夏侯惇が書簡を沢山積んだ車を牽いてやってきました。
車に積まれていたのは、蔡文姫がしたためた、亡き蔡邕(さいよう)の蔵書でした。
蔡文姫は蔡邕の蔵書の内容をすべて暗記しており、そっくり甦らせてみせたのです。
記録によれば4千巻のうち、十分の一ほどしか再現できなかったそうですが・・・
どちらにしても素晴らしい才能といえましょう。

そしてまた、夏侯惇は文姫に託されてきたものを曹操に渡します。
それは、例の簪(かんざし)でした。曹操が折ってしまったものが元通りになっています。
文姫は、父の蔵書が「これで元通り」というメッセージを込めたのかもしれません。
まさか、曹操との恋愛が元通りになるわけではないと思いますが・・・。
彼女なりに、幼き頃のよき思い出を大事にしたいということなのでしょうか。
曹操は彼女に改めて敬服し、夫・董祀(とうし)の釈放を夏侯惇に命じるのでした。

その後、海を見るために海岸へと向かった曹操と夏侯惇。
中原で生まれ育った曹操にとって、海は馴染みのないものでした。
この遠征中、すでに彼は何度か、海を見ていたのかもしれませんが、
はたして、その向こうに何を見たのでしょうか・・・。
史実でも、建安12年(西暦207年)、曹操は烏桓征伐で柳城へ至りました。
武人であり、政治家であり、そして詩人でもあった曹操は、そのとき、
海岸へ出て東側に碣石山(けっせきざん)を望み、海を見渡しながら詩を賦したのです。
東臨碣石 以觀滄海 水何澹澹 山島竦峙 樹木叢生
百草豐茂 秋風蕭瑟 洪波湧起 日月之行 若出其中
星漢燦爛 若出其裏 幸甚至哉 歌以詠志
東は碣石に臨み もって蒼海を観る 水は何ぞ淡々たる
山島は水面に立つ 樹木は叢り生え 草は豊かなり
秋風が吹けば 波は湧き起こる 月も日もまた そこより出づるがごとし
星のきらめきは またそこから出づるがごとし 幸いなるかな 詩をもって志を詠ず

碣石山は、現在の山東省にあります。
曹操は中国の歴史上初めて「海」を詩で詠じた人物ともいわれています。
海は当時、「晦」(暗いの意)に通じ、不吉なものとされていたようですが、
その暗い海を、万物を生む偉大なものと見て崇拝の念を抱いたのです。
曹操が東に向けてこの詩を賦していたとき、もしかしたら、
反対側の東の島国からも、海を眺めていた人がいたかもしれません。
それは卑弥呼という、曹操と同時代を生きた我々の先祖だったかもしれません。
そう思うとき、私は三国志という歴史書にロマンを覚えて仕方がないのです。
さて、このシーンで、ドラマ『曹操』は完結。
曹操の幼少期から最盛期までを映像化した初めてのドラマ作品、
皆さんはいかがだったでしょうか?

これまでのように「三国志演義」を原作としたものとは異なり、
正史『三国志』や『後漢書』などの純粋な歴史書を主な原作としていたため、
馴染みのない人物やエピソードも多数登場し、新鮮味のある作品でした。
ただ、その割には説明不足の部分も多く、場面転換も非常に多いため、
三国志をあまり知らない人はもちろん、詳しい人でさえ、
「わかりにくい」部分も多かったように思います。
三国志作品ではおなじみともいえる、劉備は悪役ですし、
関羽はあまり活躍しませんし、当然ながら諸葛孔明や周瑜も登場しませんでした。
よって、それを期待していた方には物足りなく映ったかもしれません。

ただ、三国志の主役の一人であり、中国でも再評価が進み注目されている
曹操という人物の新たな魅力に斬り込んだ、意義のある面白い作品だったと思います。
新解釈も多く散りばめられ、観ていて飽きない作品でしたし、
このブログも個人的には楽しく綴らせていただきました。
途中で更新が思うようにできなかったり、長く中断してしまったりして、
読者の方々には、大変ご心配とご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げます。
今回のブログでは『三国志 Three Kingdoms』の時のようには、
私の力不足ゆえか、皆さんからの反響を多くは得られませんでしたが、
これまで読んでくださった皆さんには、感謝の気持ちで一杯です。
それでは、また機会がありましたら、どこかでお会いしましょう。ありがとうございました!
※ツイッターの「曹操」公式アカウントでは、
主人公である曹丞相がこれからも時々、つぶやくそうです。
曹丞相に会いたくなったら、ぜひフォローしてみてください。
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