
袁紹が積極的に動こうとせず、後詰として様子を見るという報告に接した
張繍(ちょうしゅう)は、軍師・賈詡(かく)の進言に従い、
袁紹の使者を斬って曹操へ投降することを決定します。
以前、曹操を殺そうとまでしておきながら、不利と見るや投降してしまうという
大胆な行動に、張繍はためらいを見せますが、賈詡は「曹操であれば受け入れる」と
見込んで主人を動かすのでした。
実際、その読みは正しく、曹操は劉曄(りゅうよう)を使者として派遣し、
張繍の投降を受け入れました。まことに、賈詡の洞察力たるや恐ろしいものがあります。
(残念ながら本作では、賈詡はこれにてお役御免となり登場しなくなります)

この知らせを受けた袁紹は激怒し、沮授(そじゅ)の進言にしたがって、
曹操討伐の檄文を発しました。この檄文は、曹操の悪逆非道な行いを
天下に知らしめて、劉備をはじめ、諸侯にも挙兵を呼びかけるものでした。
この文は、名文家として知られる陳琳(ちんりん)に起草させたもので、
ほどなく曹操のもとにも届きます。

檄文の内容に、さすがの曹操も、表向きは冷静を装っていましたが、
内心は激怒して迎撃の兵を整えることになります。
このころになると、曹操は激しい頭痛を訴えるようになっていました。
彼が一生付き合うことになる持病です。

幽・冀・并・青の河北4州を統一した袁紹の兵力は30万、曹操軍の兵力はその半数以下。
しかも、曹操の領地は司隷・兗州・豫州・徐州と、他勢力に囲まれているところが多く、
多方面に兵を割かなければならず、袁紹だけに兵を集中できず、
地理的には不利だったのです。諸将が不安を覚えたのも無理からぬところ。
ただし、それは袁紹も同様。領地が広いために各地に兵が分散し、
すぐには攻めて来ることができません。
その間に曹操軍は、夏侯惇、曹洪、李典らに黄河のほとりを守らせ
寡兵で大兵を破るための準備を整えることになります。

時に建安5年。西暦200年。曹操と袁紹の一大対決が幕を開けようとしていました。

曹操は、陳留にまで兵を進め、そこで郭嘉と相談のうえ、
黄河を防衛ラインとし、その南岸にある
交通の要衝「官渡」に陣営を築き、本拠地とすることを決定します。
このために、両雄の対決は後世「官渡の戦い」と呼ばれることになるのです。

曹操が出陣の準備を進めているとき、許都では董承(とうしょう)の計画が
いよいよ明るみに出て、彼の一族郎党は捕らえられ、処刑されてしまいました。
曹操は、董承の身内という身内を、劉曄に命じてことごとく殺害させます。
この計画がなぜバレたのか、詳しくは描かれていませんが、
吉平(きっぺい)が曹操と通じていて、どうやら彼が曹操に密告したようです。
曹操は、自らの宝剣(青釭の剣)を劉曄にあたえ、あたかも自分が
許都にいるかのように見せて、派手にこれを演出したのです。
世間の耳目を許都へ向け、自身はその間に徐州へ向かい、劉備を攻撃するのでした。

曹洪は、許の王宮に甲冑姿のまま踏み込み、献帝のもとへ向かうと、
董貴人を引き出して捕らえてしまいました。董承の娘なので、彼女も同罪というわけです。
献帝の子をも身籠る董貴人ですが、曹洪は容赦せずに処刑します。
曹洪は、日頃、曹操の傍にいるときは快活な男ですが、
諸人の前では曹操の命令にひたすら忠実な冷酷な武将に映ります。
それは他の諸将、夏侯淵や許褚なども同様といえます。

わが愛妾の命を救うこともできない己の無力さを痛感する献帝。
こうして董承の一族は皆殺しとなりました。

さて、黄河のほとりまで兵を進めてきた袁紹は、曹操が許都にいないことを知りますが、
なんと、息子・袁尚が病気で寝込んでいることを理由に、出陣を取りやめてしまいます。
「打倒曹操」の檄文を出して、あれだけ気勢をあげていたのに・・・。
袁紹にとっては、曹操が戦の準備を整えないうちに許都を攻めるという
速戦速攻こそ最上の策だったのですが、これを逸したばかりか、
徐州の劉備は単独で曹操を迎え撃たねばならなくなり、挟撃作戦は破綻するのでした・・・。
※次回は5月5日更新となります。