
曹操は延津へと向かう途中で、わざと宝物類を落として行きました。
援軍にやってくるであろう、袁紹軍への目くらましのつもりでしたが、
はたして、文醜が率いてきた兵士たちは我先にと、それを拾いにかかります。

文醜は拾わないように注意しましたが、兵たちの気持ちも分かるので
ひとまずは好きにさせるのですが、そこへ自ら伏兵となった曹操や関羽たちが
襲い掛かってきて・・・遭えなく文醜は斬られました。
顔良、文醜は袁紹軍の武の二枚看板ともいうべき名将のはずですが、
あっさりと討たれてしまいます。
このように、戦闘の描写に重きを置かないところは、
女性監督のフーメイさんらしい演出といえますが・・・
顔良は関羽に背後から一刀で斬られ、文醜に至っては死亡シーンすら
映りませんでしたので、さすがにもう少し活躍させて欲しかったように思えます。
確かに正史において、顔良と文醜は大した活躍はしていませんが、
『演義』では、曹操軍をさんざんに苦しめた強敵として知られています。
個人の武勇の見せ場があることも、三国志の面白さのひとつかと思うので
この点、少し残念に思いました。

緒戦で勝利を収めた曹操ですが、まだまだ強大な袁紹軍の出鼻を挫いたに過ぎず、
以後は守りを上策として、やたらに攻撃せずに戦機を待つ方針に切り替えます。
さらに曹操は戦が終わるまで禁酒令を出し、規律を整えるのでした。

さて、関羽は顔良を斬って曹操の命を救ったことで、恩義には報いたとして、
曹操陣営を去ろうとしていました。袁紹のもとに劉備がいると分かったからです。
曹操は献帝に働きかけ、関羽を漢寿亭候に任命してもらい、
印綬まで取り寄せていましたが、関羽の決意を変えることはできません。
関羽が陣営を去るばかりか、敵側の袁紹の戦力になられてはたまりません。
去ろうとする関羽を、曹洪ら諸将が追って捕縛しようとしますが、
曹操は約束を守るためにそれを制し、張遼に見送りを命じました。
その後、曹操軍と袁紹軍は長くにらみ合いを続けます。
しかし、物量に勝る袁紹軍は連日、高台から曹操陣営に対して矢の雨を降らせ、
威圧を続けます。優位な袁紹に呼応して、孫策や劉辟(りゅうへき)といった
群雄も曹操の領地を脅かす動きを見せていました。

加えて、兵糧が枯渇しはじめ、許都の民から徴発をして
急場をしのぎましたが、曹操軍は徐々に劣勢に陥っていきます。
さすがに弱気になり始める曹操ですが、許都で留守をあずかる荀彧から、
「兵の数では劣るが、用兵では勝る」と踏みとどまって抗戦を続けるようにと
書簡が届きます。荀彧は、一貫して袁紹は怖い相手ではない、と
曹操を励まし続けています。
曹操は戦局を打開しようと、袁紹軍の兵糧輸送隊を奇襲して、
これを見事に焼き払いますが、焼き払うだけで奪うことはできず、
苦境には変わりありませんでした。

怒った袁紹は、数の利を生かして曹操陣営を毎日のように攻撃をしかけます。
苦戦する諸将を励ます曹操。

曹操軍は、劉曄が完成させた霹靂車(へきれきしゃ)で反撃に転じます。
火をつけた岩を発射し、敵陣へと撃ち込む新兵器で、
袁紹軍の弓兵隊を散り散りにさせ、曹操軍はひとまず窮地を脱しました。
一進一退の攻防が続くなか、袁紹陣営の間で揉め事が起こります。
袁紹の参謀の一人、許攸(きょゆう)が兵糧を着服したというのです。
許攸は言い逃れのついでに、曹操軍の兵糧がほぼ底を尽きかけて
いることを知らせますが、審配(しんぱい)の諫言を受けた袁紹は
許攸の情報を信じず、彼を捕らえさせます。

もし、このときに袁紹が許攸の言葉を信じていれば、この戦いは
袁紹の勝利で終わっていたかもしれません。彼はそれほどに鍵を握る男でした。
捕らわれた許攸は、兵たちに金の隠し場所を教えて、ただちに曹操へと投降。
曹操は許攸が来たと知るや、靴も履かずに彼を出迎えて帷幄に招きます。
戦中のためか、護衛の許褚(きょちょ)もおらず、かなり無防備ですが、
曹操は疑う様子もありません。

許攸は、曹操に袁紹軍の兵糧庫・烏巣(うそう)の場所を教えました。
しかし、そこは元・西園八校尉の一人である淳于瓊(じゅんうけい)という
将軍が堅く守っているため、容易に手出しができないと曹操は言います。
それを聞いた許攸は、曹操に兵糧があとどの程度残っているか尋ねました。
曹操は最初、半年分と答えますが、許攸はそれなら心配いらない、と
一笑に付して陣営を去ろうとします。
しかし、曹操は引き止めて、実はあと一月分、
いや3日分しかないと実情を打ち明けるのでした・・・。
曹操軍には、許都へ撤退する道中の分の兵糧すら無いというのです。
さて、いかにこの局面を打開するのでしょうか?
※次回は5月9日に更新します。よろしくお願いします。