こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
いよいよ今回からは第7章、つまり最終章に入ります。
といっても、最終章はわずか3話と短いのですが。
残り3話、頑張って綴って参りますので、どうか最後までお付き合いの程お願い致します。

父・袁紹の死後、冀州の鄴(ぎょう)城では長男の袁譚(えんたん)が、
曹操軍を相手に懸命に奮戦していましたが、参謀の逢紀(ほうき)と意見が対立し、
先に帰ろうとした彼を斬ってしまいました。
袁紹の遺児たちは団結できずに対立し、さらに混迷の度合いを深めています。

まあ、それというのも袁紹の跡目を継いだのは、三男の袁尚(えんしょう)だから
なのですが・・・。袁譚は長男である自分が、弟の命令で動くこと自体、我慢ならないのです。
仲の悪い兄弟を前に、参謀の審配(しんぱい/左)も、苦味のある心配顔(笑)。
袁譚は独断で、曹操軍に降伏を申し入れたと言い、袁尚を慌てさせます。
そうやってわざと曹操軍をおびき寄せ、だまし討ちにしようというのが狙いです。
袁譚の降伏は罠と知りながら、騙されたふりをして入城したのは、曹丕と郭嘉。
曹操はすぐさま、突入して彼らを救おうとしたのですが、城門が鉄柵で堅く閉ざされてしまい、
作戦は失敗します。何人かの兵が犠牲になり、鉄柵を持ち上げたことで
曹丕、郭嘉は城外へ逃れることができましたが、その折に郭嘉は火矢に狙われ、
その火矢が油に着火したため、煙を吸い込んで倒れてしまいました。
思わぬ反撃に遭い、曹操軍は一時撤退します。

もともと病気がちだった郭嘉は、無理がたたって寝込んでしまいました。
曹操は自ら見舞い、薬を運んでやりました。
力攻めに反対していた郭嘉の意見を聞かずに敗れた曹操は、詫びます。
郭嘉はそれでも病床にありながら、曹操に鄴城攻略の策を授けようとするのです。
曹操は郭嘉の進言に従い、一度撤退して様子を見ました。
すると、郭嘉の見立て通りに袁譚、袁尚は争いをはじめ、敗れた袁譚は曹操に投降。
袁尚は鄴に立て籠もって曹操軍を迎え撃ちますが、
敗走して曹操に投降を申し入れました。しかし、曹操は
「いまさら降伏など」と、これを突っぱね、武力で袁尚を討ち滅ぼそうとします。

曹操は投降してきた辛毗(しんぴ)に鄴城を攻めさせますが、
それを見て怒った審配は、辛毗の家族たちを城壁から落としたり、
城壁の上で殺害して見せしめにします。辛毗は憤怒の形相で城攻めにかかります。
この苛烈な作戦が功を奏して、審配の息子・審栄が寝返り、鄴城は陥落しました。

この曹操の策を非情だとして、面と向かって批判したのは、郭嘉でした。
時に漢王朝の威信さえも利用し、今回の辛毗のように人を駒として扱うようになった
曹操に対し、次第に反発を覚えるようになった郭嘉。
曹操は本当に世のために必要な人間なのか・・・郭嘉は苦悩します。

ところ変わって、匈奴(きょうど)の土地。匈奴は中国北部、蒙古に勢力を広げる異民族です。
曹操はここに使者を送り、贈り物を届けるとともに、
その見返りとして、「蔡琰(蔡文姫)を引き取って来い」と命じたのです。
曹操は、文姫が今は匈奴の左賢王(さけんおう)の妻となっていることを知り、
その詩の才能を惜しんでか、財宝と引き換えに呼び戻したいと考えました。
(第25話で、彼女が左賢王に連れ去られるシーンがありましたね)
「単于」(ぜんう)と呼ばれる匈奴の王、於夫羅(おふら)は
曹操から派遣された周近、董祀の2人を、まずは歓待しようとしますが、
使者2人は友好的な態度は一切なく「ただ蔡琰を引き渡せ」、と彼らにいいます。
同時に、これは強制である旨を伝えました。
匈奴は前年に一度、曹操に対して乱を起こしましたが、この戦いに敗れており、
和睦してからは従属する立場でした。この申し入れを断れば、
それは曹操に対する反逆と見なされ、攻撃を受けることになりかねません。
しかし、左賢王は突然、自分の妻を引き渡せといわれ、
使者の無礼な態度に憤慨し、剣を抜きかけます。
於夫羅に止められますが、気持ちが治まらず一触即発の状況に・・・。

そこへ、当の本人である文姫がその場に現れました。
文姫はまたも運命に抗うことをせず、夫に中原へ戻ることを告げます。
左賢王は妻の意外なほどに淡白な態度に憤慨し、その場を去りました。

左賢王に2人の子は残していくように命じられたため、
彼との間にもうけた、2人の子を抱きしめる文姫。
彼女は、12年に及んだ異国での暮らしに別れを告げ、中原へ戻るのでした。
<この人に注目!>

於夫羅(左)、左賢王(右)
匈奴には、単于(ぜんう)と呼ばれる支配者がいた。その名は於夫羅(おふら)。史実の於夫羅は195年に病死しており、この時期は弟の呼廚泉(こちゅうせん)が跡を継いでいたはずだが、本作では於夫羅が存命しているという設定になっている。
蔡文姫をめとった左賢王は、本作では「左賢王」としか呼ばれないが、於夫羅の子であるならば劉豹(りゅうひょう)という名が伝わる。左賢王には、単于の子(王子)が就任する定めになっていた。劉豹の子、劉淵(りゅうえん)は、五胡十六国時代の漢(前趙)を建国した人物だが、劉淵の生まれは251年ごろとされるため、蔡琰が産んだ子ではない。
いよいよ今回からは第7章、つまり最終章に入ります。
といっても、最終章はわずか3話と短いのですが。
残り3話、頑張って綴って参りますので、どうか最後までお付き合いの程お願い致します。

父・袁紹の死後、冀州の鄴(ぎょう)城では長男の袁譚(えんたん)が、
曹操軍を相手に懸命に奮戦していましたが、参謀の逢紀(ほうき)と意見が対立し、
先に帰ろうとした彼を斬ってしまいました。
袁紹の遺児たちは団結できずに対立し、さらに混迷の度合いを深めています。

まあ、それというのも袁紹の跡目を継いだのは、三男の袁尚(えんしょう)だから
なのですが・・・。袁譚は長男である自分が、弟の命令で動くこと自体、我慢ならないのです。
仲の悪い兄弟を前に、参謀の審配(しんぱい/左)も、苦味のある心配顔(笑)。
袁譚は独断で、曹操軍に降伏を申し入れたと言い、袁尚を慌てさせます。
そうやってわざと曹操軍をおびき寄せ、だまし討ちにしようというのが狙いです。
袁譚の降伏は罠と知りながら、騙されたふりをして入城したのは、曹丕と郭嘉。
曹操はすぐさま、突入して彼らを救おうとしたのですが、城門が鉄柵で堅く閉ざされてしまい、
作戦は失敗します。何人かの兵が犠牲になり、鉄柵を持ち上げたことで
曹丕、郭嘉は城外へ逃れることができましたが、その折に郭嘉は火矢に狙われ、
その火矢が油に着火したため、煙を吸い込んで倒れてしまいました。
思わぬ反撃に遭い、曹操軍は一時撤退します。

もともと病気がちだった郭嘉は、無理がたたって寝込んでしまいました。
曹操は自ら見舞い、薬を運んでやりました。
力攻めに反対していた郭嘉の意見を聞かずに敗れた曹操は、詫びます。
郭嘉はそれでも病床にありながら、曹操に鄴城攻略の策を授けようとするのです。
曹操は郭嘉の進言に従い、一度撤退して様子を見ました。
すると、郭嘉の見立て通りに袁譚、袁尚は争いをはじめ、敗れた袁譚は曹操に投降。
袁尚は鄴に立て籠もって曹操軍を迎え撃ちますが、
敗走して曹操に投降を申し入れました。しかし、曹操は
「いまさら降伏など」と、これを突っぱね、武力で袁尚を討ち滅ぼそうとします。

曹操は投降してきた辛毗(しんぴ)に鄴城を攻めさせますが、
それを見て怒った審配は、辛毗の家族たちを城壁から落としたり、
城壁の上で殺害して見せしめにします。辛毗は憤怒の形相で城攻めにかかります。
この苛烈な作戦が功を奏して、審配の息子・審栄が寝返り、鄴城は陥落しました。

この曹操の策を非情だとして、面と向かって批判したのは、郭嘉でした。
時に漢王朝の威信さえも利用し、今回の辛毗のように人を駒として扱うようになった
曹操に対し、次第に反発を覚えるようになった郭嘉。
曹操は本当に世のために必要な人間なのか・・・郭嘉は苦悩します。

ところ変わって、匈奴(きょうど)の土地。匈奴は中国北部、蒙古に勢力を広げる異民族です。
曹操はここに使者を送り、贈り物を届けるとともに、
その見返りとして、「蔡琰(蔡文姫)を引き取って来い」と命じたのです。
曹操は、文姫が今は匈奴の左賢王(さけんおう)の妻となっていることを知り、
その詩の才能を惜しんでか、財宝と引き換えに呼び戻したいと考えました。
(第25話で、彼女が左賢王に連れ去られるシーンがありましたね)
「単于」(ぜんう)と呼ばれる匈奴の王、於夫羅(おふら)は
曹操から派遣された周近、董祀の2人を、まずは歓待しようとしますが、
使者2人は友好的な態度は一切なく「ただ蔡琰を引き渡せ」、と彼らにいいます。
同時に、これは強制である旨を伝えました。
匈奴は前年に一度、曹操に対して乱を起こしましたが、この戦いに敗れており、
和睦してからは従属する立場でした。この申し入れを断れば、
それは曹操に対する反逆と見なされ、攻撃を受けることになりかねません。
しかし、左賢王は突然、自分の妻を引き渡せといわれ、
使者の無礼な態度に憤慨し、剣を抜きかけます。
於夫羅に止められますが、気持ちが治まらず一触即発の状況に・・・。

そこへ、当の本人である文姫がその場に現れました。
文姫はまたも運命に抗うことをせず、夫に中原へ戻ることを告げます。
左賢王は妻の意外なほどに淡白な態度に憤慨し、その場を去りました。

左賢王に2人の子は残していくように命じられたため、
彼との間にもうけた、2人の子を抱きしめる文姫。
彼女は、12年に及んだ異国での暮らしに別れを告げ、中原へ戻るのでした。
<この人に注目!>

於夫羅(左)、左賢王(右)
匈奴には、単于(ぜんう)と呼ばれる支配者がいた。その名は於夫羅(おふら)。史実の於夫羅は195年に病死しており、この時期は弟の呼廚泉(こちゅうせん)が跡を継いでいたはずだが、本作では於夫羅が存命しているという設定になっている。
蔡文姫をめとった左賢王は、本作では「左賢王」としか呼ばれないが、於夫羅の子であるならば劉豹(りゅうひょう)という名が伝わる。左賢王には、単于の子(王子)が就任する定めになっていた。劉豹の子、劉淵(りゅうえん)は、五胡十六国時代の漢(前趙)を建国した人物だが、劉淵の生まれは251年ごろとされるため、蔡琰が産んだ子ではない。