こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
いよいよ今回からは第7章、つまり最終章に入ります。
といっても、最終章はわずか3話と短いのですが。
残り3話、頑張って綴って参りますので、どうか最後までお付き合いの程お願い致します。

39-1
父・袁紹の死後、冀州の鄴(ぎょう)城では長男の袁譚(えんたん)が、
曹操軍を相手に懸命に奮戦していましたが、参謀の逢紀(ほうき)と意見が対立し、
先に帰ろうとした彼を斬ってしまいました。
袁紹の遺児たちは団結できずに対立し、さらに混迷の度合いを深めています。

39-2
まあ、それというのも袁紹の跡目を継いだのは、三男の袁尚(えんしょう)だから
なのですが・・・。袁譚は長男である自分が、弟の命令で動くこと自体、我慢ならないのです。
仲の悪い兄弟を前に、参謀の審配(しんぱい/左)も、苦味のある心配顔(笑)。

袁譚は独断で、曹操軍に降伏を申し入れたと言い、袁尚を慌てさせます。
そうやってわざと曹操軍をおびき寄せ、だまし討ちにしようというのが狙いです。

袁譚の降伏は罠と知りながら、騙されたふりをして入城したのは、曹丕と郭嘉。
曹操はすぐさま、突入して彼らを救おうとしたのですが、城門が鉄柵で堅く閉ざされてしまい、
作戦は失敗します。何人かの兵が犠牲になり、鉄柵を持ち上げたことで
曹丕、郭嘉は城外へ逃れることができましたが、その折に郭嘉は火矢に狙われ、
その火矢が油に着火したため、煙を吸い込んで倒れてしまいました。
思わぬ反撃に遭い、曹操軍は一時撤退します。

39-6
もともと病気がちだった郭嘉は、無理がたたって寝込んでしまいました。
曹操は自ら見舞い、薬を運んでやりました。
力攻めに反対していた郭嘉の意見を聞かずに敗れた曹操は、詫びます。
郭嘉はそれでも病床にありながら、曹操に鄴城攻略の策を授けようとするのです。

曹操は郭嘉の進言に従い、一度撤退して様子を見ました。
すると、郭嘉の見立て通りに袁譚、袁尚は争いをはじめ、敗れた袁譚は曹操に投降。

袁尚は鄴に立て籠もって曹操軍を迎え撃ちますが、
敗走して曹操に投降を申し入れました。しかし、曹操は
「いまさら降伏など」と、これを突っぱね、武力で袁尚を討ち滅ぼそうとします。

39-7
曹操は投降してきた辛毗(しんぴ)に鄴城を攻めさせますが、
それを見て怒った審配は、辛毗の家族たちを城壁から落としたり、
城壁の上で殺害して見せしめにします。辛毗は憤怒の形相で城攻めにかかります。
この苛烈な作戦が功を奏して、審配の息子・審栄が寝返り、鄴城は陥落しました。

39-8
この曹操の策を非情だとして、面と向かって批判したのは、郭嘉でした。
時に漢王朝の威信さえも利用し、今回の辛毗のように人を駒として扱うようになった
曹操に対し、次第に反発を覚えるようになった郭嘉。
曹操は本当に世のために必要な人間なのか・・・郭嘉は苦悩します。

39-10
ところ変わって、匈奴(きょうど)の土地。匈奴は中国北部、蒙古に勢力を広げる異民族です。
曹操はここに使者を送り、贈り物を届けるとともに、
その見返りとして、「蔡琰(蔡文姫)を引き取って来い」と命じたのです。

曹操は、文姫が今は匈奴の左賢王(さけんおう)の妻となっていることを知り、
その詩の才能を惜しんでか、財宝と引き換えに呼び戻したいと考えました。
第25話で、彼女が左賢王に連れ去られるシーンがありましたね)

「単于」(ぜんう)と呼ばれる匈奴の王、於夫羅(おふら)は
曹操から派遣された周近、董祀の2人を、まずは歓待しようとしますが、
使者2人は友好的な態度は一切なく「ただ蔡琰を引き渡せ」、と彼らにいいます。
同時に、これは強制である旨を伝えました。

匈奴は前年に一度、曹操に対して乱を起こしましたが、この戦いに敗れており、
和睦してからは従属する立場でした。この申し入れを断れば、
それは曹操に対する反逆と見なされ、攻撃を受けることになりかねません。

しかし、左賢王は突然、自分の妻を引き渡せといわれ、
使者の無礼な態度に憤慨し、剣を抜きかけます。
於夫羅に止められますが、気持ちが治まらず一触即発の状況に・・・。

39-12
そこへ、当の本人である文姫がその場に現れました。
文姫はまたも運命に抗うことをせず、夫に中原へ戻ることを告げます。
左賢王は妻の意外なほどに淡白な態度に憤慨し、その場を去りました。

39-13
左賢王に2人の子は残していくように命じられたため、
彼との間にもうけた、2人の子を抱きしめる文姫。
彼女は、12年に及んだ異国での暮らしに別れを告げ、中原へ戻るのでした。

<この人に注目!>
39-11
於夫羅(左)、左賢王(右)

匈奴には、単于(ぜんう)と呼ばれる支配者がいた。その名は於夫羅(おふら)。史実の於夫羅は195年に病死しており、この時期は弟の呼廚泉(こちゅうせん)が跡を継いでいたはずだが、本作では於夫羅が存命しているという設定になっている。
蔡文姫をめとった左賢王は、本作では「左賢王」としか呼ばれないが、於夫羅の子であるならば劉豹(りゅうひょう)という名が伝わる。左賢王には、単于の子(王子)が就任する定めになっていた。劉豹の子、劉淵(りゅうえん)は、五胡十六国時代の漢(前趙)を建国した人物だが、劉淵の生まれは251年ごろとされるため、蔡琰が産んだ子ではない。