こんばんは! ドラマ『曹操』案内人の哲舟です。
1週間、間があいてしまいまして、申し訳ございません!

さて先週土曜日、神奈川県横浜市で三国志フェス2013というイベントが開催されました。
全国の三国志好きが集まる盛大なイベントで、
本作、ドラマ『曹操』のパンフレット(非売品)も配布されていたんです。

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参加して「これ貰った!」という方、いらっしゃいますか?
無料ながら、人物相関図などが入った全8ページの豪華仕様のブック。
入手できた方、おめでとうございます。

OPSB-S065そして、もうひとつお知らせです。
いよいよ本日、曹操【第3部-打倒董卓-】
ブルーレイvol.3(3枚組)
がリリース!

こちらには、13話~20話が収録されています。董卓が洛陽に君臨し、曹操や袁紹らの諸侯が彼に反乱を起こすという、三国志序盤の見せ場ともいえる盛り上がりを見せます。レンタル版(DVD)も同時リリースされていますので、ぜひご利用ください。





さて、前置きが長くなりましたが、さっそく第6話の解説へ参りましょう。
第6話の冒頭は、なんとも凄惨なシーンから始まります。

宦官を弾圧する上奏文を出した曹操。
しかし、宦官・蹇碩(けんせき)の入れ知恵によって、
霊帝(れいてい)は、曹操を裏で操る党人(士人)、
陳耽(ちんたん)の一味やその家族までをも始末するよう命じたのです。

乳飲み子を地面に叩きつけ、母もろとも殺すシーンには目を背けたくなります。
第1話では、士人やその子供たちを殴り殺すシーンがあったことを思い出しますが、
日本のドラマでは、あまり見られないストレートな描写です。

そして、曹操をそそのかした陳耽は捕縛され、投獄されました。

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一夜明け、自分の書いた書が多くの士人の命が
失われた事実を知り、憤慨する曹操。

ただちに弾劾状を出して宦官らを倒そうと立ち上がりかけますが、
祖父の曹騰(そうとう)は、それを押しとどめました。
曹騰は、曹操のためを思って蹇碩を動かした張本人ですが、それを曹操は知りません。

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ところ変わって洛陽の宮中。
献帝の隣では、彼の愛姫・何(か)皇后が琴を弾じています。

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その前に控えるは、何の兄である、何進(かしん)。
もともとは肉売りをしていた人物ですが、妹の縁で皇帝に接近。
労せずして、「大将軍」に任命され、武官の最高位を手に入れました。

何進は、さっそく霊帝に対し、陳耽の助命を嘆願しに来ていた
士人たち100人あまりを皆殺しにしてしまいました。
もちろん自分の兵を引き連れてのことですが、
自らもそれなりに武勇の腕前があるところを見せました。

結局、陳耽は霊帝から毒酒を賜り、それを飲んで死にました。
死ぬ間際、曹操は陳耽と蔡邕(さいよう)に詫びを入れに牢獄を訪れますが、
すぐに何進がやってきたため、身を隠してそれを見守るのみでした。

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新参の議郎である曹操は、時勢の性急さと自分の無力を痛感します。
好きな詩作の筆も鈍っている様子。いや、沈黙の理由はそれだけではなさそう。

そこへ意中の人、蔡文姫(さいぶんき)が訪ねてきます。
文姫は、曹操に別れを告げに来たのです。

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文姫の父、蔡邕(さいよう)も陳耽に連座して死罪となるところでしたが、
霊帝が彼の才能を惜しんだことで、朔方郡(さくほうぐん)への流罪が申し渡されました。
朔方郡は、并州(へいしゅう)という、洛陽から北にある山間の僻地です。
父に付き添って、娘である文姫も行かねばなりません。

それを聞いて肩を落とす曹操。
自分が書いた上奏文がきっかけで、最高の文学者である蔡邕とその娘を
遠くへ辺境の地追いやってしまうことへの自責の念にかられます。

文姫は、蔡邕から託しされた玉琴を曹操に贈りました。
薪(たきぎ)を買い取って自ら作った琴です。

受け取って、試しに弾じてみる曹操ですが、心ここにあらず。
心を通わせ合った直後なだけに、落胆を隠せません。

「琴を弾く者には、木目から響く音色は声も同じ」
「指先から流れる音色は人の運命そのもの」
2人は、まるで音曲を奏でるかのごとく別れの語らいをします。

最初に出会ったときに作ってくれた詩を
もう一度、謳ってほしいと文姫は曹操に願いました。

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その詩を覚えていて、手巾に縫い付けたという文姫の言葉に、
曹操は自分への強い思いを感じ、胸を打たれます。

涙をぬぐってやると、文姫は涙をこらえきれず、その場を去ろうとします。
その様子をじっと脇で見ていた卞(べん)は、飲み物を運ぼうとして歩み寄り、
文姫とぶつかってしまいました。

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呆然とする曹操ですが、その目が追うのは卞ではなく、去り行く文姫の姿。
卞は気丈にも、早く後を追うよう促します。
その言葉に我に返り、曹操は走り出していきます。

当時は一夫多妻制が当たりという世の中ですが、人の感情は今も昔も変わりないもの。
以前は、自分が文姫の立場だったことを、卞も痛感していたことでしょう。
正妻の丁夫人を放り出し、自分を洛陽まで連れてきた曹操、
その心が一時的に自分を離れてしまっても、卞は決して責めないのです。
・・・なんとよくできたお嫁さんでしょうか。

城外へ行くと、蔡邕の一行がまさに洛陽を離れようとしていました。
何顒(かぎょう)とともに、別れの杯を蔡邕と交わす曹操。

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馬車の中にいる文姫とも最後のお別れです。
「お早いお帰りを」と字を刻んだ簪(かんざし)を、曹操は手渡します。
そして、文姫は曹操のもとを離れていきました・・・。

それから何年か経ち、場面は変わって後宮内。
側室と湯浴みを楽しむ霊帝のもとへ、蹇碩が急を告げにきます。

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西暦184年(中平元年)――。黄巾の乱、勃発。
黄色い布を目印として身につけ、民衆が武装蜂起、
各地の役所に対して反乱を起こし、それが中国各地に広まったのです。

その軍の数、100万とも号されます。
三国志の物語の幕開けともいえる大乱が、いよいよ始まりました。

さすがに霊帝も、落ち着いてはいられません。
後漢は内乱に明け暮れていたとはいえ、本当の戦争を経験した役人は皆無。
文武百官といえども、安心して軍隊を任せられる人材は限られています。

霊帝は、「党錮の禁」によって官界から追放されていた
士人たちを呼び戻し、その中から人材を選びました。

そして、大将軍である何進を討伐軍5万の総大将に任じるとともに、
さらに4人の将軍を抜擢して、乱の鎮圧へと向かわせることになりました。
その4人とは・・・。盧植(ろしょく)、皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)、曹操でした。

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中郎将・盧植は冀州(きしゅう)へ。
左中郎将・皇甫嵩および、右中郎将・朱儁は穎川(えいせん)へ。
曹操は騎都尉(きとい)に任じられ、黄巾の軍を討伐するよう命ぜられます。

このような人選を見ると、霊帝は決して無能ではなさそうです。
ただ、女遊びが過ぎるだけで・・・。

霊帝は、曹操をよく覚えていました。
幼き日に騎馬戦で遊んだことを、忘れていた曹操も思い出します。


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なぜか身の丈を尋ねられて、曹操は戸惑いながらも「6尺8寸」と答え、
宮中は笑いに包まれます。当時の1尺は約23cmですから、計算すると160cm足らず。
現在の平均的な日本人女性と同じぐらいの身長ということになります。

正史・三国志には、何人かは身長に関する記述があって、
8尺(184cm)・・・諸葛亮、趙雲、許褚(きょちょ)、劉表
8尺3寸(191cm)・・・程昱(ていいく)
7尺5寸(172.5cm)・・・劉備
となっていて、名だたる人は身長も人より抜きん出ていた人が多かったようです。
曹操の背丈は記されていません。(関羽、張飛も不明です)

もし、曹操の背が高ければそう記されていたでしょうし、
以前にも記したように「威厳がなかった」と書かれているぐらいなので、
やはり曹操はこのドラマのように身長が低かったのかもしれません。

どうも、三国志好き、曹操好きの女性は「そこがいい」のだそうです。
私にはその感覚はあまり分かりませんが(笑)、
身長は高ければいい、というわけではないということでしょうね。

「勝利あるのみ、敗北は許さず」

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霊帝のこの言葉に送り出され、さっそく出陣した黄巾討伐軍ですが、敵は大軍。
ほどなくして皇甫嵩と朱儁は、数の不利もあって苦戦に陥り、青州の長社城に立て籠もりました。

曹操は洛陽に留まって戦況を見守っていましたが、
何進に、5千の兵でその援軍に向かうよう命じられました。

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これを聞いた蹇碩は大喜び。
労せずして、にっくき曹操が死ねば万々歳というわけです。

卞(べん)に「必ず帰る」と告げ、よろいを身にまとって出陣する曹操。
生きて帰るかどうか保証はいっさいありませんから、
出陣前に、卞を抱いておくことも忘れません。後継者を成すは武人としての務めです。

そのころ、袁紹は屋敷に籠もって、亡くなった母の喪に服していました。
史実によると、6年間も喪に服して隠棲していたといいます。

当時は儒の教えが盛んでしたから、親に尽くすのが美徳とされ、
親の喪に服して慎ましく暮らすことは、何よりの孝心の表れと思われていたようです。
しかし、志ある者たちはこの緊急事態に
袁紹がその才能を発揮せずにいるのがもどかしくてなりません。

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張邈(ちょうばく)、何顒(かぎょう)らは、袁紹に決起を促そうと面会を求めに来ました。
曹操が騎都尉に抜擢されたことに対し、韓馥(かんふく)などは
「すぐに失脚するだろう」と侮りますが、曹操の才をよく知る何顒や袁紹は
「必ず何かをなす」と見ているようです。

さて、そのころ、曹操率いる遊撃軍5千は、青州へ到着しました。
程昱、夏侯惇、曹仁、許褚らが一緒です。

長社城を包囲する波才が率いる黄巾の軍勢を山上から眺め、対策を練る曹操たち。
曹操は、程昱と相談し、包囲を解かせるため、
「火攻め」をしかける機会を伺うことになりました。


◆人物クローズアップ
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蔡邕(さいよう) 133~192年。兗州陳留郡出身。
字は伯喈(はくかい)。娘に蔡琰(蔡文姫)。息子は居なかった模様。書家・詩人・歌人として名を成し、当代を代表する文化人として名を知られていたが、178年に宦官の一派と争って并州へ流刑となる。翌年に大赦を受けたが、宦官の親族と揉め事を起こし、揚州へと亡命した。滞在は12年にも及んだという。本作における蔡文姫と曹操の別れは、この史実に基づいたものだ。董卓が洛陽に入ると呼び戻されて重用されたが、董卓が死ぬと王允と対立していたために投獄され、獄死した。