こんにちは! ドラマ『曹操』案内役の哲舟です。
今日も、まずはお知らせから。
ドラマ『曹操』、初のテレビ放映が2014年1月5日CS放送の「チャンネル銀河」でスタートします。
それを記念して、「354人に当たるお年玉プレゼントキャンペーン」も行われるとか。
詳しくは特設サイトをご覧ください!
さてさて、それでは第16話の解説へと参りましょう。
楽進(がくしん)からの呼び出しを受け、その宿所へと赴いた曹操。

そこへ、一隊の兵士たちが飛び出してきて曹操と楽進を取り囲みます。
兵を率いるのは、董卓配下の将・郭汜(かくし)です。
郭汜は楽進とひそかに通じて曹操を呼び出し、
ここで討とうとするのですが・・・その目の前に剣を向け、動きを止めた者がいました。

それは陳留太守の張邈(ちょうばく)、そして陳宮です。
彼らの配下の兵が、今度は郭汜の兵を取り囲みました。
張邈は陳留の民を人質にとられ、郭汜が曹操を討とうとするのを
見過ごすはずでしたが、曹操との誼(よしみ)を重んじ、彼を助けることにしたのです。
そこへ、夏侯惇や許褚(きょちょ)も兵を連れてやってきました。
曹操の命令で、たちまち郭汜の兵たちは斬りふせられていきます。
乱闘たけなわのころ楽進が、郭汜を拘束していた
陳宮の剣を跳ね上げ、わざと逃がしてしまいます。
郭汜は命からがら、逃げ延びて行きました。
騒ぎがおさまると、張邈(ちょうばく)は挙兵を決意して曹操と相談に入ろうとしますが、
陳宮は、曹操のたくらみを見抜いたよう。何か言いたげな顔をして去りました。
この一連の騒動は、郭汜が陳留に潜んでいることを察知した
曹操と楽進が仕掛けた大芝居でした。
郭汜にわざと襲われ、危機に陥ったところを張邈が救援してくれることを
期待したのですが、それが見事に成功します。
董卓の脅威に危機感を覚えた張邈は曹操の挙兵に協力することになり、
さらに兵と2年分の兵糧を出すことも承諾しました。
曹操は自分の兵5千だけでは戦力不足と考えて、
陳留太守の張邈を欺き、重い腰を上げさせようと芝居を打ったわけです。

策の成功を喜びあう曹操主従。
郭汜に内応したふりをするなど一芝居を打った楽進も、
これ以降は曹操軍の精鋭に正式に加わることとなります。
さて、その頃、都・洛陽では・・・
董卓が皇帝の少帝・劉弁(りゅうべん)から帝位を取り上げ、
弟の劉協(りゅうきょう)を帝位につけようとするところでした。

董卓は劉弁に毒を飲ませて殺そうとしますが、拒否したために
愛妾の唐姫(とうき)に無理やり飲ませて毒殺。
そしてもはや抜け殻のようになった劉弁の廃位を発表、
まだ8歳の劉協を後漢王朝・第14代皇帝の
「献帝」(けんてい)として擁立したのでした。
何進たちが必死で帝位につけた劉弁は、わずか5ヶ月で
帝位を奪われて弘農王の身分に落とされました(この後、毒殺されます)。
文武百官も董卓の暴威に従うほかはありません。

万歳、万歳、万万歳!
百官たちは無理やり新帝就任を祝うことになりました。
・・・後世からみれば、董卓は愚鈍な兄・劉弁を廃し、
聡明な弟・劉協を帝位につけたわけで、さほど間違った政策とは思えません。
ただ、当時の常識からみれば、最近まで地方豪族に過ぎなかった男が
帝位を意のままに操るなど不遜極まりなく、絶対にやってはならないことでした。
よって、これから反・董卓に決起する諸侯の中には、
董卓が立てた献帝・劉協を皇帝とは認めない者もいるわけです。

一方、挙兵の協力を得ようと東郡太守の橋瑁(きょうぼう)のもとへ
赴いた曹操。その名前を借りて、董卓打倒の檄文を各地へ飛ばします。
曹操はこのとき無位無官、兵力も少ないために彼が檄を飛ばしても
従おうとする人はほとんどいない、と予想されることを自分でも分かっているのです。
正史『三国志』によれば、董卓打倒の檄文を発したのは橋瑁なのですが、
本作においては、曹操の提案を受けて檄文を発したことになっています。
小説「三国志演義」では曹操自身が発したことになっていますし、
このあたり両方の説を巧みにとりいれた、無理のないアレンジといえるでしょう。

遊郭で檄文を読む袁術・・・。この人のもとにもちゃんと届いたようです。
ちなみに・・・
「檄を飛ばす」という有名な言葉がありますが、その発祥は古代中国で、
自分の考えや主張を文書に記し、他者に行動を促すことをいいます。
今回の曹操や橋瑁が出した檄文というものが、まさにそれ。
「檄」が木へんなのも、もともとは木の札や木簡に記したからなのですね。
しかし、現代日本で「檄を飛ばす」というと「他人を励ます」という意味で
使われることが多くなっています。よく、スポーツ新聞などでも
「〇〇監督が選手たちに”檄を飛ばした”」なんて書いてありますが
それは本来間違った使い方なのです。間違ったほうが
定着してしまうなんて、まことに困ったものですね(笑)。

さて、檄は河北にも届き、韓馥(かんふく)を通じて袁紹にも伝わりました。
韓馥は冀州牧という要職にある人物で、勃海太守の袁紹は
その韓馥の配下という立場にありました。
韓馥は董卓に味方するか反董卓の側に付くかを決めかね、
しかも自分で挙兵する勇気がないため、袁紹にその責任を押し付けようと
檄文を転送してきたわけなのです。
檄文を届けたのは、客分として韓馥のもとにいた田豊(でんぽう)と沮授(そじゅ)。
2人とも韓馥を見限っており、頼りになりそうな袁紹に韓馥のたくらみを漏らしたのです。
そんな折、董卓が派遣した特使が袁紹のもとへやってきます。
董卓は袁紹と袁術を仲たがいさせるため、両者に金銀財宝を送ったのでした。

そこへ袁術が現れ、董卓の特使を除いた従者たちを皆殺しにして、
袁紹を挙兵せざるを得ない状況へ追い込みました。
「袁家の去就は俺が決める」と息巻く袁術。
袁紹は悔しがりつつも弟の策に乗じるしかなくなったわけです。
ところは変わり、酸棗(さんそう。兗州の陳留にある軍事拠点)に、
諸侯たちが続々と集まってきていました。
曹操が協力を呼びかけた張邈、橋瑁、鮑信に加え、ついに袁紹も着陣。
袁紹と久しぶりに再会した曹操は、銘酒・九醞春(きゅううんしゅん)で乾杯します。

そして酸棗には諸侯が集まり、盟約を結ぶための出陣式が行われます。
長沙からは孫堅(そんけん)もやってきていました。
張邈の音頭で式典は始まったのですが・・・。
ここで残念ながら時間切れ。また次回へと続きます。
~この人に注目!~

鮑信(ほうしん) 152~192年
今回、袁紹の脇にいて挙兵の可否を相談しあっていた人物。袁紹や曹操とともに反董卓連合軍に参加する諸侯の一人。代々、儒学で名を成した家の出身で智謀に秀でていたという。霊帝の時代、何進に招かれて騎都尉に任命された。董卓が洛陽に入ったころ、袁紹に董卓を討つよう進言したが、聞き入れられなかった。
反董卓軍にあっては、酒宴を開いてばかりで積極手に戦おうとしない諸侯を見限り、曹操と心を合わせてともに徐栄(董卓軍の将)と戦う。
今日も、まずはお知らせから。
ドラマ『曹操』、初のテレビ放映が2014年1月5日CS放送の「チャンネル銀河」でスタートします。
それを記念して、「354人に当たるお年玉プレゼントキャンペーン」も行われるとか。
詳しくは特設サイトをご覧ください!
さてさて、それでは第16話の解説へと参りましょう。
楽進(がくしん)からの呼び出しを受け、その宿所へと赴いた曹操。

そこへ、一隊の兵士たちが飛び出してきて曹操と楽進を取り囲みます。
兵を率いるのは、董卓配下の将・郭汜(かくし)です。
郭汜は楽進とひそかに通じて曹操を呼び出し、
ここで討とうとするのですが・・・その目の前に剣を向け、動きを止めた者がいました。

それは陳留太守の張邈(ちょうばく)、そして陳宮です。
彼らの配下の兵が、今度は郭汜の兵を取り囲みました。
張邈は陳留の民を人質にとられ、郭汜が曹操を討とうとするのを
見過ごすはずでしたが、曹操との誼(よしみ)を重んじ、彼を助けることにしたのです。
そこへ、夏侯惇や許褚(きょちょ)も兵を連れてやってきました。
曹操の命令で、たちまち郭汜の兵たちは斬りふせられていきます。
乱闘たけなわのころ楽進が、郭汜を拘束していた
陳宮の剣を跳ね上げ、わざと逃がしてしまいます。
郭汜は命からがら、逃げ延びて行きました。
騒ぎがおさまると、張邈(ちょうばく)は挙兵を決意して曹操と相談に入ろうとしますが、
陳宮は、曹操のたくらみを見抜いたよう。何か言いたげな顔をして去りました。
この一連の騒動は、郭汜が陳留に潜んでいることを察知した
曹操と楽進が仕掛けた大芝居でした。
郭汜にわざと襲われ、危機に陥ったところを張邈が救援してくれることを
期待したのですが、それが見事に成功します。
董卓の脅威に危機感を覚えた張邈は曹操の挙兵に協力することになり、
さらに兵と2年分の兵糧を出すことも承諾しました。
曹操は自分の兵5千だけでは戦力不足と考えて、
陳留太守の張邈を欺き、重い腰を上げさせようと芝居を打ったわけです。

策の成功を喜びあう曹操主従。
郭汜に内応したふりをするなど一芝居を打った楽進も、
これ以降は曹操軍の精鋭に正式に加わることとなります。
さて、その頃、都・洛陽では・・・
董卓が皇帝の少帝・劉弁(りゅうべん)から帝位を取り上げ、
弟の劉協(りゅうきょう)を帝位につけようとするところでした。

董卓は劉弁に毒を飲ませて殺そうとしますが、拒否したために
愛妾の唐姫(とうき)に無理やり飲ませて毒殺。
そしてもはや抜け殻のようになった劉弁の廃位を発表、
まだ8歳の劉協を後漢王朝・第14代皇帝の
「献帝」(けんてい)として擁立したのでした。
何進たちが必死で帝位につけた劉弁は、わずか5ヶ月で
帝位を奪われて弘農王の身分に落とされました(この後、毒殺されます)。
文武百官も董卓の暴威に従うほかはありません。

万歳、万歳、万万歳!
百官たちは無理やり新帝就任を祝うことになりました。
・・・後世からみれば、董卓は愚鈍な兄・劉弁を廃し、
聡明な弟・劉協を帝位につけたわけで、さほど間違った政策とは思えません。
ただ、当時の常識からみれば、最近まで地方豪族に過ぎなかった男が
帝位を意のままに操るなど不遜極まりなく、絶対にやってはならないことでした。
よって、これから反・董卓に決起する諸侯の中には、
董卓が立てた献帝・劉協を皇帝とは認めない者もいるわけです。

一方、挙兵の協力を得ようと東郡太守の橋瑁(きょうぼう)のもとへ
赴いた曹操。その名前を借りて、董卓打倒の檄文を各地へ飛ばします。
曹操はこのとき無位無官、兵力も少ないために彼が檄を飛ばしても
従おうとする人はほとんどいない、と予想されることを自分でも分かっているのです。
正史『三国志』によれば、董卓打倒の檄文を発したのは橋瑁なのですが、
本作においては、曹操の提案を受けて檄文を発したことになっています。
小説「三国志演義」では曹操自身が発したことになっていますし、
このあたり両方の説を巧みにとりいれた、無理のないアレンジといえるでしょう。

遊郭で檄文を読む袁術・・・。この人のもとにもちゃんと届いたようです。
ちなみに・・・
「檄を飛ばす」という有名な言葉がありますが、その発祥は古代中国で、
自分の考えや主張を文書に記し、他者に行動を促すことをいいます。
今回の曹操や橋瑁が出した檄文というものが、まさにそれ。
「檄」が木へんなのも、もともとは木の札や木簡に記したからなのですね。
しかし、現代日本で「檄を飛ばす」というと「他人を励ます」という意味で
使われることが多くなっています。よく、スポーツ新聞などでも
「〇〇監督が選手たちに”檄を飛ばした”」なんて書いてありますが
それは本来間違った使い方なのです。間違ったほうが
定着してしまうなんて、まことに困ったものですね(笑)。

さて、檄は河北にも届き、韓馥(かんふく)を通じて袁紹にも伝わりました。
韓馥は冀州牧という要職にある人物で、勃海太守の袁紹は
その韓馥の配下という立場にありました。
韓馥は董卓に味方するか反董卓の側に付くかを決めかね、
しかも自分で挙兵する勇気がないため、袁紹にその責任を押し付けようと
檄文を転送してきたわけなのです。
檄文を届けたのは、客分として韓馥のもとにいた田豊(でんぽう)と沮授(そじゅ)。
2人とも韓馥を見限っており、頼りになりそうな袁紹に韓馥のたくらみを漏らしたのです。
そんな折、董卓が派遣した特使が袁紹のもとへやってきます。
董卓は袁紹と袁術を仲たがいさせるため、両者に金銀財宝を送ったのでした。

そこへ袁術が現れ、董卓の特使を除いた従者たちを皆殺しにして、
袁紹を挙兵せざるを得ない状況へ追い込みました。
「袁家の去就は俺が決める」と息巻く袁術。
袁紹は悔しがりつつも弟の策に乗じるしかなくなったわけです。
ところは変わり、酸棗(さんそう。兗州の陳留にある軍事拠点)に、
諸侯たちが続々と集まってきていました。
曹操が協力を呼びかけた張邈、橋瑁、鮑信に加え、ついに袁紹も着陣。
袁紹と久しぶりに再会した曹操は、銘酒・九醞春(きゅううんしゅん)で乾杯します。

そして酸棗には諸侯が集まり、盟約を結ぶための出陣式が行われます。
長沙からは孫堅(そんけん)もやってきていました。
張邈の音頭で式典は始まったのですが・・・。
ここで残念ながら時間切れ。また次回へと続きます。
~この人に注目!~

鮑信(ほうしん) 152~192年
今回、袁紹の脇にいて挙兵の可否を相談しあっていた人物。袁紹や曹操とともに反董卓連合軍に参加する諸侯の一人。代々、儒学で名を成した家の出身で智謀に秀でていたという。霊帝の時代、何進に招かれて騎都尉に任命された。董卓が洛陽に入ったころ、袁紹に董卓を討つよう進言したが、聞き入れられなかった。
反董卓軍にあっては、酒宴を開いてばかりで積極手に戦おうとしない諸侯を見限り、曹操と心を合わせてともに徐栄(董卓軍の将)と戦う。
張バク…ドラマ三国志ではお見かけしなかったやに思うのですが、こちらでは出番多いですね。
かわいい曹安民もですが知らなかったので勉強になります。
檄を飛ばす…そうでしたか。確かに木偏です。木簡、竹簡、布地にしたためられた物と手紙にも色々あるんですね。