第21~26話【第4部-献帝擁立】

第26話 丞相誕生

こんにちは! ドラマ『曹操』案内役の哲舟です。
みなさん長らくご無沙汰してしまい、申し訳ありません。また再び頑張って、最後まで綴っていきますので、よろしくお願いします。

遷都を許せば、曹操の専横を許すに違いないと信じる董承(とうしょう)たち。
しかし、曹操軍、全力をあげての努力により、ついに献帝は許昌(きょしょう)への遷都を決定します。

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曹操はさっそく、許昌へ新たに築いた宮殿・大和殿に献帝を案内します。
漢室の旧例に基づいた設計には、孔子の子孫とされる孔融(こうゆう)があたったそうです。

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新たに拠点を得た献帝は上機嫌でこの地を「許都」と定め、
元号を「建安」と改めました。西暦にすると196年。新たな時代の幕開けです。ちなみに建安は26年(221年)、曹操の死の翌年まで続きます。

曹操は軍人の最高位である大将軍に任じられました。
かつて何進が就いていた位です。これ以降、曹操は献帝を保護しているという大義名分のもとに兵を動かすことができるようになり、諸侯に一歩先んじた勢力になります。

しかし、そこへ袁紹から兵糧を寄越すように書簡が届きます。献帝を迎えたといっても、兵力や領地においては、まだまだ袁紹のほうが上ですし、決して安心はできません。

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夏侯惇、夏侯淵は当然、憤慨しますが曹操は彼らに敢えて兵糧の輸送を命じます。
まだ自分を「兄貴」と呼び、兄弟気分が抜けない両名に対し、厳しい態度をとることで
これからは組織の中において真の主従の関係になるよう、無言で諭すのでした。

郭嘉が言うように、ここで曹操が袁紹にへりくだって兵糧を送ったのは、まだ袁紹と対等に戦うには兵力に不安があるからです。15万の正規軍を抱える袁紹に対し、曹操軍はわずか数万。以前、30万の青州黄巾党を配下に組み入れましたが、その多くは元農民であり、今は屯田兵として農業に従事させている者たちです。正規兵としては使い物になりません。袁紹の機嫌をとり、その間に国力アップを図る狙いでした。

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許都へ遷都した後、献帝は何不自由なく暮らし、蜜柑などの果物もたっぷりと食べられて、ようやく安住の地を得て日々を過ごしていました。「三州を平定した袁紹を頼るべき」とする寵臣たちの意見にも耳を貸しません。献帝は第一の勢力に頼っては「第二の董卓が生まれる」という懸念も持っていました。

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長男の曹昴(そうこう)が許都を訪ねてきました。
曹操が曹昴を一人前の跡取りに育てようとして、丁夫人ともども呼び出したのです。丁夫人は曹昴の育ての母で、曹操の最初の奥方です。その後、徐州から曹家の故郷・譙(しょう)に移され、ひっそりと暮らしていました。

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丁夫人、相変わらず曹操に対して刺々しいです。夫婦らしい愛情など、もう欠片もないようで、ひたすら恨み言を口にします。この夫人にかかっては曹操も言い返す術もありません。

袁紹は、曹操の推挙を得て献帝から「司徒」に任じられます。これは曹操の保護下にある献帝から出された詔ということで、これを受け取た袁紹は許都を攻める大義名分がなくなりました。もちろん、それが曹操の狙いです。先の自分の進言を聞かなかったばかりに、まんまと嵌った袁紹を、参謀の沮授(そじゅ)が呆れて座を離れてしまいました。そこで、審配(しんぱい)は曹操の持つ大将軍の位を、譲り渡すよう求める上奏を送りました。

朝廷内では賛否両論が起きますが、結局曹操の判断に委ねられることになりました。曹操は、あっさりとこれを承諾し、大将軍の位を袁紹に譲り渡しました。曹操にとって、大事なのは実。飾りの官職などどうでもよいのです。代わりに、兵権のない(とされる)「丞相」(じょうしょう)の位を、曹操は新たに得ることになります。丞相は三公の上に位置し、天子を補佐して万機を司る役職です。ある意味、大将軍よりもこっちのほうが好都合といえるかもしれません。

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望み通り大将軍の位につき、おごり高ぶった袁紹は献帝に対し、さらに息子たちの官職までをも要求しようとするのですが・・・。

第25話 皇帝の決意

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食料を届けるという名目で、洛陽へ近づく曹操軍の武将たち。
まずは楽進が囮(おとり)になり、偽の食料を運搬し韓暹(かんせん)の目をあざむきます。

だまされた韓暹が、楽進と戦っているうちに、別の道を通った曹洪が、あっさり洛陽へ入城。郭嘉の策略が見事に的中しました。その手引きをしたのが、董昭(とうじょう)でした。洛陽内でも勢力争いが繰り広げられていて、郭嘉はそれをうまく利用したのでした。

韓暹・張楊 vs 董昭・楊奉(徐晃)
こんな構図でした。

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このとき、初登場を果たすのが楊奉の配下にいる徐晃(じょこう)という猛将。
曹洪と力を合わせ、韓暹を退却に追い込み、見事に楽進を救援しました。

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翌朝、洛陽に復興された粗末な宮殿では、董昭が献帝(けんてい)に謁見。
幼い帝は、日々の食事にも事を欠き、お腹を空かせていました。曹操軍が運んできた兵糧も、まだ楊奉の手にあって洛陽の奥深くには届く気配もなく、心配は募ります。董昭は曹操の書簡を読み上げます。
曹操の狙いは献帝を洛陽から出し、自領である許(きょ)へ、移らせることでした。その手段として、食料や酒をちらつかせて、献帝の移動を誘います。献帝はこれに乗り、許へ移ることを考え始めるのです。

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皇帝も人間。空腹には代えられません。曹操の申し入れを喜んで受けることにしました。

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そのころ、戦で荒れ果て、焼け野原となった長安では、
楊奉らに献帝を連れ去られた李傕(りかく)、郭汜(かくし)が佇んでいました。「師(すい)のない軍、君のない国は成り立たぬ」、彼らはようやく、そう悟るのでした。しかし、献帝を奪おうとする意欲は失わず、なおも洛陽をめざして戦いを続けるようです。董卓なき後、彼らは行き場を失い、あてもなく戦に明け暮れるのみでした。

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数年ぶりに洛陽へ戻ってきた曹操。焼けて廃墟となった宮殿を見て、思いにふけります。

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曹操は献帝のもとへ急行。李傕、郭汜の軍勢を打ち破ったとの戦勝報告をして
大将首を差し出して献帝を驚かせました。
この報告を聞いて、曹操に否定的な態度を示していた董承(とうしょう)も、曹操軍の功績を認めざるを得ませんでした。ちなみに董昭と董承はどちらも読みは「とうしょう」ですが、別人です。ややこしいですが。

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董昭=曹操の味方をして曹洪たちを洛陽へ招きいれた人物。

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董承=献帝の義父(娘が献帝の妻)で当初は曹操に反抗し、献帝に曹操を迎え入れないように進言しながら、今それを覆した人物です。

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曹操は、自らの思い描く国のあり方を、若き皇帝に説きます。時に西暦196年。
献帝16歳、曹操42歳。献帝は曹操の野心を半ば見抜きながらも、自分を守護してくれる存在として曹操を認めざるを得なくなっていきます。

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その頃、郊外では蔡文姫が、亡き父・蔡邕(さいよう)の弔いをしていましたが
そこへ異民族・匈奴(きょうど)の兵が、女たちをさらおうとやってきます。蔡文姫は逆らったために兵に斬られそうになりますが、その隊長をつとめていた左賢王こと劉豹(りゅうひょう)がそれをやめさせます。

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左賢王は蔡文姫が蔡邕の娘だと知り、美貌に惹かれたこともあり、丁重に扱って匈奴へと連行していきました。連れ去られた蔡文姫は、否応なしに左賢王の妻となるのです。戦乱の世は常に女性受難の時代。自らを奪った者の子を産むのが、乱世の慣わしで、それを拒めば、死あるのみでした。こんな例は枚挙に暇がありません。
女性は弱い存在ですが、このような境遇に身をさらして生き続けたという点では、強い存在なのかもしれません。現代社会において「女性は強い」などといわれますが、昔から強さを持った女性はたくさん居ました。世の中を切り開き、武器を持って戦うのは男ですが、その男を生み出すのは女。その強さの性質はまるで違うものなのだと、こういう時代劇を見ていると感じます。

第24話 天子奪還

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呂布と組んだ陳宮の罠にはまり、徐州城で大敗を喫した曹操。
しかし、曹操は辛くも逃げ切り、「大やけどを負った」と噂を流しておいて、
伏兵をしかけ、追撃してきた呂布軍に痛手を与えました。郭嘉の策略です。

このとき、曹操が「呂布は私の顔を知らぬから助かった」と言っていますが、確かにそのおかげで、曹操は呂布に見逃され、命拾いしました。これは、本作においては本当です。今まで曹操と呂布は同じシーンには絡んでいません。曹操が洛陽にいたときも、董卓の傍に居たのは、常に李傕(りかく)、郭汜(かくし)ばかりで、曹操は呂布とは顔を合わせていないのです。

今まで、呂布の出番が少なかったのは、このための伏線だったのですね。
いやはや、なんという深謀遠慮。フーメイ監督おそるべし?

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思わぬ痛撃を受け、呂布自身も負傷して痛々しい限り。
呂布は、「曹操が黒焦げになった」という虚報を流した田氏(でんし)の妻子を処刑し、見せしめとしました。非情な一面を見せます。

呂布軍に痛手を与えた曹操軍ですが、兗(えん)州のほとんどは呂布にくだり、わずか3県(鄄城・范・東阿)のみを程昱と荀彧が死守するという苦しい状況となり、陥落寸前にまで追い込んでいた徐州攻めを中断し、鄄城に引き揚げました。曹操軍にとってはかつてない危機ですが、本作ではそれほど危機感を持っているように描いておりません。まだ何とかなりそうな感じです。

一方の呂布ですが、出撃を願い出た陳宮の策に従わずに、一時、兵を休ませようと濮陽(ぼくよう)城に籠もってしまったことで曹操をやすやすと取り逃がし、戦機を逸してしまいます。これまでにも似たようなことはあったのでしょう。陳宮は呆れるあまり、呂布を突き飛ばし、その無策をなじります。

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勘違いしがちなのですが、この2人は君臣の関係ではないのです。
陳宮は呂布の部下ではなく、あくまで対等な「同盟者」の立場です。また、「軍師」という存在は、時として君主よりも偉い立場にありました。そうした事情を反映してか、呂布は陳宮に頭を下げて教えを乞うのですが、時すでに遅かったようです。

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果たして、その後、体勢を立て直した曹操軍によって呂布軍は濮陽から誘い出され、巨野の決戦で大敗を喫します。呂布と陳宮は徐州へ撤退。徐州では陶謙が亡くなり、劉備が下邳(かひ)を譲り受けていましたので、彼を頼って落ち延びていったのです。

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張邈(ばく)は袁術を頼って逃げようとしますが、途中で部下に裏切られて殺されました。ナレーションで済まされてしまいましたが、かつて反董卓連合軍の中心勢力として活躍した張邈のあえない最期でした。
ともかく、こうして曹操軍は1年足らずで兗州を奪い返したのです。

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袁紹も、のんびりと構えています。曹操、呂布、劉備が争って潰し合いをしているうちに
自分は兵力を蓄えていればいい、という考えのもとに。曹操の窮状を知り、袁紹は自分に降るよう書簡をしたため、沮授に持たせましたが、これはもちろん一蹴されました。曹操軍はそんなに甘い相手ではありません。

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息子・袁尚にデレデレの袁紹。しかも、長安で乱が起こり、献帝(けんてい)が
董承(とうじょう)たちによって連れ去られ、洛陽へ移動中という報告が入っても、「大勢に影響はない」と気にも留めませんでした。沮授は、献帝を迎えて大義名分を得る絶好の機会だと進言しますが、袁紹は実権のない皇帝に権威などない、としてこれを却下しました。

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一方、曹操のもとにも献帝の逃亡が伝わりました。曹操の軍師・郭嘉や荀彧は、
すぐさまこれを迎える手立てを考えるよう進言。曹操は曹洪、曹仁を洛陽へと派遣します。

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このとき、曹操たちは焼肉を食べていました。さすまたのような棒で肉を焼き、
食べるときはそれから肉を外して、あいかわらず手で肉を口に運んでいます。このように綺麗なバーベキューセットのような道具があったのかどうかは、ドラマなので是非を問うても仕方ないですが、ここでも頑なに箸は使っていません。何はともあれ、美味しそうです。

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かくして、曹仁(右)、曹洪(左)は兵糧を携えて洛陽へと向かいました。
献帝に食料を届けるという名目をもって、洛陽へ入り、献帝の身柄を確保しようという狙いですが、洛陽では韓暹、楊奉、張楊といった輩による妨害が予想されます。はたして、うまく行くでしょうか?

第23話 共鳴

こんにちは! ドラマ『曹操』案内役の哲舟です!
また1週間、開いてしまいましたが、皆さんお元気ですか?

2月に入りました。実は昨日から、CS放送「チャンネル銀河」で
本作・ドラマ『曹操』の放映が開始されました。『曹操』のファンが一人でも増えてくれることを祈りつつ、第23話の解説を綴ってみたいと思います。

さて、曹操の陣営を訪れた劉備が袋に入れてきたのは、曹操の父を殺した張本人・張闓(ちょうがい)でした。
劉備は、密かに張闓一味を捕らえていたのです。仇敵を曹操に献上してその処分を任せようというのですが・・・。

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父の仇を目の前にして、さすがに少し顔色を変える曹操。しかし、頭は冷静でした。
「父の死は徐州を攻める口実に過ぎない」と本音を口にします。
劉備は曹操に撤退要求をして立ち去りました。

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「劉備は残忍で腹黒い。いずれ頭角を現すだろう」と、曹操は予言めいたことを郭嘉に言いました。そして、この場は劉備の顔を立てて撤兵し、彼に恩を売ることを決めます。曹操軍が撤退すれば、劉備は陶謙に感謝され、徐州に勢力を張ることができるからです。

陶謙は、撤兵する曹操軍を追撃すべきでは?と劉備に問いますが、劉備は「伏兵に遭う恐れがある」といってそれを留めました。陶謙には曹操との裏取引は秘したまま。はたして陶謙は、彼を徐州に留め置きました。これで劉備は兵も城も得たことになります。なんとも腹黒い劉備。今までにない劉備像といえましょう。

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場面は変わって、冀州の鄴城(ぎょうじょう)。袁紹の居城に、呂布が戻ってきました。
呂布は宣言どおり、わずか3千の手勢で10万の黒山賊を撃破し、大将・張燕の首を手土産に持ち帰ってきたのです。袁紹は驚きながらも呂布を歓待すべく出迎えたのですが・・・。

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その夜、呂布は城内で自分の帰りを待っていた、愛妻・貂蝉と再会。
董卓が死んだとき以来、久々に登場の貂蝉。しっかりと「呂布の妻」を続けているようです。呂布は貂蝉を抱えて寝所へ入りますが、その屋敷を袁紹の兵が取り囲んでいました。

袁紹は呂布を恐れると同時に、手なづけるのは難しいと考え、密かに始末してしまおうと考えたのです。袁紹の刺客たちはいっせいに踏み込みますが、呂布と貂蝉の姿はすでにありません。危険を察した呂布は、いち早く逃げ去っていたのでした。

さて、徐州に戻り、兵糧を確保して体勢を立て直した曹操は、再び徐州に攻め入ります。
曹操軍は瞬く間に5つの城を落とすという速攻を見せますが、陶謙軍は逃げ散って民の中にまぎれ、壊滅的な打撃を与えるには至っていませんでした。曹操はそれを聞いて民もろとも皆殺しにするよう命じます。これに対し、とくに夏侯惇、夏侯淵らは難色を示しますが、曹操は「奪わねばならぬ」と厳命します。

「今やつらを殺さねば、いずれ自分が殺されることになる」
曹操は、まだ幼い頃に曽祖父の曹節が自分の目の前で士人たちを虐殺したことを思い返し、それと同様の言葉を口にしました。かつては、曹節の行いにただ衝撃を受けただけの曹操が、いまやそれと同じ行為を命じ、同じ言葉を発しています。運命というものを感じずにはいられません。

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こうなっては夏侯惇、夏侯淵もいよいよ覚悟を決め、徐州の民兵たちを討つために出陣するしかなく、「虐殺」を実行したのです。胸の痛む出兵ですが、曹操への絶対の信頼が、彼らをその行為へと駆り立てました。

そんな曹操の行いを聞いて、他の群雄たちはさまざまな反応をします。
いや、反応どころか行動に出た者たちがいました。兗州(えんしゅう)の張邈(ちょうばく)、陳宮です。彼らは一応、兗州牧となった曹操の部下におさまった格好になったのですが、兗州の外にばかり目を向ける曹操に反感を持っていました。

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そんな折、2人を劉備の使者・簡雍(かんよう)が訪ねてきます。
関羽・張飛の影に隠れていますが、この人も劉備が決起した頃から従う最古参の人物。簡雍は張邈たちをそそのかし、曹操が留守の間に反旗をひるがえすよう要請しに来たのです。そうやって曹操軍の退路を断ったうえで、徐州の下邳城(かひじょう)に誘い込むという策略でした。

そのころ、近くには袁紹のもとを脱出してきた呂布がいました。張邈たちは、今こそ千載一遇の好機とみて、これに乗ります。呂布を盟主として担ぎ上げ、反・曹操の兵をあげて兗州を乗っ取ってしまったのです。

徐州城を攻めていた曹操と郭嘉、この報にはさすがに驚きました。
正史にも記されているとおり、張邈と曹操とは古くからの付き合いで、どちらかが死んだ時には、残された家族の面倒を見ると約束したほどの仲だったといいます。曹操は、愕然としたようです。本作ではあまり動揺していたようには見えませんでしたが。李典と楽進も、命令を受けて慌てて城攻めを中止。兗州を奪回するため、兵を退きます。

そのころ曹操は、下邳城へ入ろうとしていました。呂布の配下である田氏(でんし)が寝返り、下邳城へと道案内をするというので、その後をついてきたのですが、これは陳宮の策略でした。たちまち呂布の軍勢が現れ、包囲されて奇襲を受けた曹操軍は大混乱に陥ります。呂布と、その部下の張遼に、曹操軍は散々に討ち減らされます。

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しかし、曹操は雑兵の格好をしてまぎれ込んでいたので、呂布は曹操だと気付かずに見逃してしまいます。
呂布の戟(げき)を頭に押し当てられたときは、生きた心地もしなかったに違いありません。
が、一難去ってまた一難、焼け落ちてきた家屋が、曹操の頭上に降ってきました・・・。
さて、曹操は無事生き延びれるのでしょうか?


~このひとに注目!~
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陶謙(とうけん) 132~194年(63歳)
字は恭祖(きょうそ)。揚州丹陽郡の出身。
次回で病死したことが語られるので、今回が最後の出番となる。「黄巾の乱」の後、その残党が徐州で暴れ始めたため、鎮圧を命じられ派遣された人物。以後、徐州の刺史として割拠するが、董卓討伐軍には加わらず静観していたため、徐州は一時平穏となり、多くの人が流れ住んで栄えたという。曹操や袁紹が台頭してくると、陶謙は公孫瓚(さん)と組んで曹操に対抗する。徐州で曹操の父(曹嵩)を殺害したのは部下の仕業とされるが、陶謙自身の指示だったという説もある。その後、曹操にたびたび侵攻を受けた徐州は民を大勢殺され、疲弊していく。曹操との戦いの中で神経を減らしたか、自身も病にかかり、客将ながら人心を掴んでいた劉備に後事を託して亡くなる。

第22話 徐州侵攻

こんにちは! ドラマ『曹操』案内役の哲舟です。
寒暖の差が激しくて、体調を崩されている方も多いようですね。
みなさん、気をつけてください。

では、さっそく第22話の解説を始めたいと思います。
前回は、徐州に一時的に住んでいた曹嵩(そうすう)と、卞(べん)夫人の一行が曹操に招かれて兗州(えんしゅう)へと出発したところでしたね。曹操の父である曹嵩の名は有名であるため、それを聞きつけた徐州牧の陶謙(とうけん)という人物が一行を引きとめ、城に招いて歓待しました。

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兗州までの道中に間違いがあってはなりません。陶謙は、部下の張闓(ちょうがい)という将に曹嵩一行の護衛を命じました。しかし・・・それが災いの元でした。張闓は山賊上がりの欲深い男で、陶謙に対する忠誠心など欠片もありません。出発後、酒に酔った曹嵩から冷たい言葉をかけられたことに怒り、一行を殺害して財宝を奪い、逃げようと企みます。陶謙は悪い奴ではないのですが、こんな男を護衛に付けるなんて、人を見る目がなさすぎますね。

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卞が、酒を与え、ねぎらいの言葉をかけますが、張闓の心は覆りませんでした。
その深夜、寝込んだところを襲われ、ひとたまりもなく曹嵩は殺害されてしまいます。卞夫人は危機を察し、息子の曹丕(そうひ)とともに便所の肥溜めの中に隠れ、難を逃れます。それにしても・・・肥溜め、臭いも凄そうですが、命には代えられません。

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兵たちが出ていった隙を見て逃げ出し、そこへ兵たちが迫ってきますが、それは曹操の部下たちでした。卞と曹丕は九死に一生を得ます。

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ちなみに、これが徐州と兗州ほか、他国の位置関係です。
翌朝、眠り込んでいた曹操は、駆け込んできた曹洪、安民から悲報を聞きます。曹嵩の遺品の玉(ぎょく)を握り締め、途方に暮れる曹操・・・。

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一足先に出発していた長男の曹昴(そうこう)、その後に、卞夫人と曹丕が無事到着したのは幸いでした。
「お前が殺されずに済んで良かった」曹昴に言葉をかける曹操。ただちに徐州侵攻の兵を挙げます。「目的は徐州か、それとも仇討ちか」、という陶謙の挑発に等しい言葉を反芻し、曹操は怒りの矛先を彼に向けたのです。ここで曹操は初めて「漢室復興」という言葉を使いました。

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士気の高い曹操軍は、迎撃に出てきた陶謙軍を破ります。曹操軍は徐州各地に侵攻し、領内の十数城を奪取。陶謙は郯(たん)城まで撤退し、立て籠もりました。曹操軍はこの戦いのさなか、各地で住民を殺戮。その数は数万人、数十万人規模となり、泗水(しすい)の流れを堰き止めたといわれます。

この殺戮劇で、徐州の人口は激減し、多くの人々が他の地方をめざして逃げました。本作では語られていませんが、あの諸葛亮(孔明)もこの時は家族とともに徐州に住んでいましたが、この乱を避けて荊州へ逃れています。陶謙軍はともかく、無辜の民を殺戮したことで、曹操の悪名は天下に広まったのでした。英雄として知られる曹操ですが、この殺戮劇は彼の一番の汚点といわれますが・・・さて、次回以降もこの問題は続きます。

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一方、袁紹(えんしょう)の元にもそれらの報告は届き、袁紹は「好都合」とほくそ笑みます。曹操が怒りに任せて徐州の陶謙を攻めているうちに、河北の統一が果たせるだろうと考えたのです。そんな折も折、一人の武人が袁紹の陣営に現れました。門番を脅し、剣を佩いたままで袁紹の前に姿を見せたのは、呂布でした。

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呂布は長安を逃れた後、袁術のもとへ身を寄せましたが、袁術には厚遇されませんでした。袁術は頼りにならないとみて、袁紹を頼ることにしたのです。しかし、呂布の悪名は全国に有名で、おまけに兵力も張遼や高順という名将を従えているとはいえ、わずか3千しか連れていません。袁紹の配下たちも眉をひそめて彼を一瞥します。

袁紹が、黒山賊の張燕(ちょうえん)10万の軍に手を焼いていると聞いた呂布は、手土産代わりに、張燕の首を10日以内に持って帰ると豪語。その代わりに「城を2つよこせ」と取引を持ちかけ、袁紹が承知すると勢い良く出て行きました。袁紹の部下は、唖然として見送るのみでした。

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そのころ、陶謙軍を追いつめていた曹操は・・・。
快進撃も止まり、郯(たん)城を攻めあぐねていました。長期戦となり、兵糧が底をついたのです。さすがの郭嘉や曹操もよい策を思いつかず、撤退を決めました。しかし、そのまま撤退しては敵に背後を突かれる恐れがあるため、劉備に停戦を依頼しようと考えます。

劉備は、公孫瓚(さん)のもとに居ましたが、陶謙が曹操に攻められると聞き、その援軍として派遣されてきていました。ただ、戦況が不利になったため、小沛(しょうはい)に駐屯したまま鳴りをひそめていたのです。

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郭嘉の招きにより、曹操陣営にやってきた劉備と関羽。なにやら、関羽は肩に黒いものを担いできました。黄巾の乱の時以来の再会で、酒を酌み交わす曹操と劉備。劉備は、関羽に運ばせてきた黒い袋を開け、中のものを示しました。その中にあったものは、なんと・・・。


~このひとに注目!~
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◆曹嵩(そうすう) ?~193年
曹操の父。宦官ではなく男性であるが、妻(曹操を産んだ母)の名前は分からない。もともとは夏侯氏の出身で、夏侯惇の叔父にあたるというが、家系図もないため、これもハッキリしたことは不明。
宦官・曹騰(そうとう)の養子となり、その後ろ盾を得て朝廷に出仕し、出世を重ねる。中平5年(188年)には太尉に上ったが、その地位は1億銭を霊帝に献上し、買ったものであるという。当時、官位は金で売買されていた。
曹操が董卓討伐の兵を挙げると、乱を避けて徐州の瑯邪郡(ろうやぐん)に家族と共に避難。曹操に招かれて兗州(えんしゅう)へ行こうとするが、陶謙の部下に殺害される。このとき一緒にいた息子の曹徳(曹操の弟)も殺害されたという記録もある。

第21話 軍師との出会い

こんにちは! ドラマ『曹操』案内役の哲舟です。
さて、前回で第3部「打倒董卓」が終わって、この第21話からは第4部「献帝擁立」へと入ります。董卓は倒れましたが、一件落着とはならないのが乱世。かえってますます混迷を深めていきます。この章では、曹操による献帝の擁立までが描かれます。

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兗州(えんしゅう)で決起した黄巾軍の討伐へ向かった曹操。
思いのほか長期戦となり、はや7ヶ月が経っていました。敵の数が多いので曹操軍も攻めきれずにいましたが、そこへ陳宮が援軍を連れて到着します。陳宮は敵軍に包囲されてしまった味方の鮑信(ほうしん)を救援に行こうとしますが、曹操はそれを止め、夏侯惇とともに敵を殲滅することを優先させます。

戦力を分散させれば、敵軍は包囲を破って脱出してしまうため、戦いはますます長期化する恐れがあります。しかし、援軍を出さねば鮑信を見殺しにすることになります。

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一気に攻める方法を勧めたのは、荀彧(じゅんいく)がいきなり連れてきた郭嘉(かくか)という人物でした。荀彧以上の秀才で、これ以後、献帝の保護を曹操に進言するなど、第一の軍師として活躍することになります。
(左から荀彧、陳宮、郭嘉)

「文武に長けた鮑信ならば大丈夫だ」と言い放つ曹操。陳宮は仕方なく戦場へ行き、自身も激闘に加わります。鎧も身につけずに、自ら剣を振るうとはなんとも勇ましい限り。

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そのうちに夏侯惇が大将首を挙げ、雄たけびを上げます。
黄巾の軍勢はそれを見て戦いをやめ、戦闘は収束します。しかし、それにしても夢中で戦っているさなか、ピタリと戦いがやむのがおかしい。そんな急に戦いをやめられるものなのでしょうか・・・? 陳宮の戦闘もそうですが、ちょっとリアリティに欠ける描写だと感じました。

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その頃、戦場で孤立した鮑信は敵兵に取り囲まれ、援軍もなく串刺しにされて一人最期を迎えました。
亡骸は行方不明となり、曹操軍は必死に探しますが見つかりません。半狂乱になって、鮑信を探し回る曹操。曹操は戦いを勧めた郭嘉を斬ろうとしますが、皆に諌められて留まります。ようやく兜だけが発見され、曹操らは跪いて鮑信の名誉の戦死を悼みました。彼の遺体が見つからなかったことは正史にも記されています。犠牲も出ましたが、この戦いに勝利した曹操は新たに3万人の黄巾軍を配下に取り込みました。

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しかし、ただ一人陳宮だけがその場を去ります。
これまで曹操への憎悪をひた隠しにしてきた陳宮。彼にとってはこの度の曹操の慟哭さえ、芝居じみたものに思えたのでしょう。陳宮は元々、兗州(えんしゅう)の士人(しじん)。地元の土地や民を守るという一念でのみ行動しています。打算的な行動ばかり目立つようになった曹操に愛想を尽かし、いよいよ陳宮は曹操と袂を分かつことになりました。

陳宮の心が曹操から離れるのは、『三国志演義』においては、呂伯奢(りょはくしゃ)を殺害したとき(第15話)といわれています。旧ドラマ『三国志 Three Kingdoms』ではその翌朝、陳宮は曹操のもとを去っています。本作は敢えてそれとは異なり、色々な不信感が蓄積していった結果であるように描いているようです。

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その頃、長安では王允(おういん)が、献帝の目の前で処刑されようとするところでした。
王允は、董卓の死後、その敵討ちとして攻めてきた李傕(りかく)、郭汜(かくし)の軍勢に捕らわれていたのです。友であり漢の忠臣だった蔡邕(さいよう)を処刑するなど、王允は董卓を謀殺してから有頂天になり、大義を見失ってしまったようです。しかし、呂布の誘いを断って潔く長安にとどまり、死を選んだ覚悟は立派といえましょう。かつて曹操と戦ったこともある徐栄(じょえい)も、李傕らに逆らったため共に処刑されました。

その処刑法ですが、なんとギロチン。首を切るのではなく、胴を真っ二つにするという残酷な方法です。献帝は黙って見守っていましたが、ついに顔を背けました。都は、董卓なきあと、李傕らがそれにとって代わっただけで再び元の木阿弥、いやそれ以上に混乱を極めることになってしまいました。

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久々に登場した蔡文姫(さいぶんき)。父・蔡邕の喪に服しています。仇である王允が死んだことを聞いても、慰めにはならず涙を止めることはできなかったようです。


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その頃、袁紹のもとには、劉虞(りゅうぐ)の息子、劉和(りゅうか)が逃れてきていました。
劉虞は公孫瓚(さん)に殺害されてしまい、その息子を保護したことで袁紹は公孫瓚討伐の大義名分を得ます。公孫瓚との「界橋の戦い」には勝利したものの、さしたる打撃を与えたわけではなく、また曹操や袁術の動きも気になるとあって袁紹は浮かない顔。

新たに軍師として加わった沮授(そじゅ)は、曹操と同盟して早く公孫瓚を倒すよう進めますが、審配(しんぱい)は曹操を警戒するように言うなど、いまひとつ歯車がかみ合いません。曹操陣営に郭嘉が加わった報を聞き「あのクチバシの黄色い小僧か」と袁紹は侮るばかりか、洛陽から連れられてきた洛陽の芸伎を見て鼻の下を伸ばします。幕僚たちは、それを見てため息をつくのでした。

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さて、ところは袁術の陣営。曹操と交戦中の袁術は、曹操軍が夜襲を仕掛けてきたと聞いてあわてて出兵しますが、逆に伏兵に遭い、さんざんに蹴散らされてしまいます。
夜襲を報告しに来たのは、曹操軍の武将たち、曹洪や曹安民といった面々でしたが、この大胆な策に袁術はまんまとハマッたのです。翌朝、一敗地にまみれた袁術は本陣に引き返してきますが、すでに本陣は曹操軍の伏兵に焼き払われた後でした。袁術は仕方なく九江にいる孫策を頼って退却していきます。

その頃、徐州に逃れていた曹操の父・曹嵩(そうすう)以下、曹操の妻子は兗州へ出発しようとしていました。ようやく確固たる基盤を得た曹操は、家族を自分のもとへ呼び寄せることにしたのです。

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長男・曹昴(そうこう)は、育ての母である丁夫人に見送られ、自分だけ一足先に出発。
丁夫人はすでに曹操との仲も冷え切っているため徐州に留まることにしました。見送りにきた丁夫人と無言の別れの挨拶を交わす曹嵩。語らずともその心を察した曹嵩は、卞(べん)夫人と、その息子・曹丕(そうひ)と家人だけを伴って出発して行きます・・・。


~このひとに注目!~
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◆李傕(りかく) ?~198年
字は稚然(ちぜん)。董卓配下の武将として活躍。
董卓が死んだ後、王允は涼州軍の討伐を計画。李傕は王允に赦免を請願したが拒否される。対応に苦慮するが、軍師・賈詡(かく)の進言を受け、郭汜(かくし)らと共に10万の兵で長安を奇襲。王允は、呂布、徐栄、胡軫、楊定らに李傕を迎撃させたが、胡軫・楊定が李傕に寝返ったため失敗する。長安は8日の包囲の末に李傕らの手に落ちた。呂布は長安から逃れたが、王允はその場にとどまり、李傕に捕らわれ処刑された。

その後、李傕や郭汜は長安を治めるが、政治能力は皆無だった。盗賊や部下の兵に好き勝手にさせ、民への乱暴も自由にさせた。食糧の値段は高騰し、死体が街中に散乱するなど董卓以上の暴政だったという。

残忍な性格の持ち主。本作では、弘農王・劉弁の后である唐姫(とうき)を董卓が毒殺していたが、後漢書によれば唐姫を殺害したのは彼である。劉弁が殺害さ れた後、唐姫は故郷の潁川(えいせん)に帰っていたが、李傕はそこを攻めとって唐姫を捕らえ、妻になる事を強要する。しかし唐姫に拒絶されたため、李傕は彼女を惨殺した。戦には強く、長安奇襲戦では呂布軍を破ったほか、長安に入ってからも攻め寄せてきた馬騰(ばとう)、韓遂(かんすい)、劉焉(りゅうえん)らをことごとく撃退している。
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哲舟

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