こんにちは! ドラマ『曹操』案内役の哲舟です。
みなさん長らくご無沙汰してしまい、申し訳ありません。また再び頑張って、最後まで綴っていきますので、よろしくお願いします。
遷都を許せば、曹操の専横を許すに違いないと信じる董承(とうしょう)たち。
しかし、曹操軍、全力をあげての努力により、ついに献帝は許昌(きょしょう)への遷都を決定します。

曹操はさっそく、許昌へ新たに築いた宮殿・大和殿に献帝を案内します。
漢室の旧例に基づいた設計には、孔子の子孫とされる孔融(こうゆう)があたったそうです。

新たに拠点を得た献帝は上機嫌でこの地を「許都」と定め、
元号を「建安」と改めました。西暦にすると196年。新たな時代の幕開けです。ちなみに建安は26年(221年)、曹操の死の翌年まで続きます。
曹操は軍人の最高位である大将軍に任じられました。
かつて何進が就いていた位です。これ以降、曹操は献帝を保護しているという大義名分のもとに兵を動かすことができるようになり、諸侯に一歩先んじた勢力になります。
しかし、そこへ袁紹から兵糧を寄越すように書簡が届きます。献帝を迎えたといっても、兵力や領地においては、まだまだ袁紹のほうが上ですし、決して安心はできません。

夏侯惇、夏侯淵は当然、憤慨しますが曹操は彼らに敢えて兵糧の輸送を命じます。
まだ自分を「兄貴」と呼び、兄弟気分が抜けない両名に対し、厳しい態度をとることで
これからは組織の中において真の主従の関係になるよう、無言で諭すのでした。
郭嘉が言うように、ここで曹操が袁紹にへりくだって兵糧を送ったのは、まだ袁紹と対等に戦うには兵力に不安があるからです。15万の正規軍を抱える袁紹に対し、曹操軍はわずか数万。以前、30万の青州黄巾党を配下に組み入れましたが、その多くは元農民であり、今は屯田兵として農業に従事させている者たちです。正規兵としては使い物になりません。袁紹の機嫌をとり、その間に国力アップを図る狙いでした。

許都へ遷都した後、献帝は何不自由なく暮らし、蜜柑などの果物もたっぷりと食べられて、ようやく安住の地を得て日々を過ごしていました。「三州を平定した袁紹を頼るべき」とする寵臣たちの意見にも耳を貸しません。献帝は第一の勢力に頼っては「第二の董卓が生まれる」という懸念も持っていました。

長男の曹昴(そうこう)が許都を訪ねてきました。
曹操が曹昴を一人前の跡取りに育てようとして、丁夫人ともども呼び出したのです。丁夫人は曹昴の育ての母で、曹操の最初の奥方です。その後、徐州から曹家の故郷・譙(しょう)に移され、ひっそりと暮らしていました。

丁夫人、相変わらず曹操に対して刺々しいです。夫婦らしい愛情など、もう欠片もないようで、ひたすら恨み言を口にします。この夫人にかかっては曹操も言い返す術もありません。
袁紹は、曹操の推挙を得て献帝から「司徒」に任じられます。これは曹操の保護下にある献帝から出された詔ということで、これを受け取た袁紹は許都を攻める大義名分がなくなりました。もちろん、それが曹操の狙いです。先の自分の進言を聞かなかったばかりに、まんまと嵌った袁紹を、参謀の沮授(そじゅ)が呆れて座を離れてしまいました。そこで、審配(しんぱい)は曹操の持つ大将軍の位を、譲り渡すよう求める上奏を送りました。
朝廷内では賛否両論が起きますが、結局曹操の判断に委ねられることになりました。曹操は、あっさりとこれを承諾し、大将軍の位を袁紹に譲り渡しました。曹操にとって、大事なのは実。飾りの官職などどうでもよいのです。代わりに、兵権のない(とされる)「丞相」(じょうしょう)の位を、曹操は新たに得ることになります。丞相は三公の上に位置し、天子を補佐して万機を司る役職です。ある意味、大将軍よりもこっちのほうが好都合といえるかもしれません。

望み通り大将軍の位につき、おごり高ぶった袁紹は献帝に対し、さらに息子たちの官職までをも要求しようとするのですが・・・。
みなさん長らくご無沙汰してしまい、申し訳ありません。また再び頑張って、最後まで綴っていきますので、よろしくお願いします。
遷都を許せば、曹操の専横を許すに違いないと信じる董承(とうしょう)たち。
しかし、曹操軍、全力をあげての努力により、ついに献帝は許昌(きょしょう)への遷都を決定します。

曹操はさっそく、許昌へ新たに築いた宮殿・大和殿に献帝を案内します。
漢室の旧例に基づいた設計には、孔子の子孫とされる孔融(こうゆう)があたったそうです。

新たに拠点を得た献帝は上機嫌でこの地を「許都」と定め、
元号を「建安」と改めました。西暦にすると196年。新たな時代の幕開けです。ちなみに建安は26年(221年)、曹操の死の翌年まで続きます。
曹操は軍人の最高位である大将軍に任じられました。
かつて何進が就いていた位です。これ以降、曹操は献帝を保護しているという大義名分のもとに兵を動かすことができるようになり、諸侯に一歩先んじた勢力になります。
しかし、そこへ袁紹から兵糧を寄越すように書簡が届きます。献帝を迎えたといっても、兵力や領地においては、まだまだ袁紹のほうが上ですし、決して安心はできません。

夏侯惇、夏侯淵は当然、憤慨しますが曹操は彼らに敢えて兵糧の輸送を命じます。
まだ自分を「兄貴」と呼び、兄弟気分が抜けない両名に対し、厳しい態度をとることで
これからは組織の中において真の主従の関係になるよう、無言で諭すのでした。
郭嘉が言うように、ここで曹操が袁紹にへりくだって兵糧を送ったのは、まだ袁紹と対等に戦うには兵力に不安があるからです。15万の正規軍を抱える袁紹に対し、曹操軍はわずか数万。以前、30万の青州黄巾党を配下に組み入れましたが、その多くは元農民であり、今は屯田兵として農業に従事させている者たちです。正規兵としては使い物になりません。袁紹の機嫌をとり、その間に国力アップを図る狙いでした。

許都へ遷都した後、献帝は何不自由なく暮らし、蜜柑などの果物もたっぷりと食べられて、ようやく安住の地を得て日々を過ごしていました。「三州を平定した袁紹を頼るべき」とする寵臣たちの意見にも耳を貸しません。献帝は第一の勢力に頼っては「第二の董卓が生まれる」という懸念も持っていました。

長男の曹昴(そうこう)が許都を訪ねてきました。
曹操が曹昴を一人前の跡取りに育てようとして、丁夫人ともども呼び出したのです。丁夫人は曹昴の育ての母で、曹操の最初の奥方です。その後、徐州から曹家の故郷・譙(しょう)に移され、ひっそりと暮らしていました。

丁夫人、相変わらず曹操に対して刺々しいです。夫婦らしい愛情など、もう欠片もないようで、ひたすら恨み言を口にします。この夫人にかかっては曹操も言い返す術もありません。
袁紹は、曹操の推挙を得て献帝から「司徒」に任じられます。これは曹操の保護下にある献帝から出された詔ということで、これを受け取た袁紹は許都を攻める大義名分がなくなりました。もちろん、それが曹操の狙いです。先の自分の進言を聞かなかったばかりに、まんまと嵌った袁紹を、参謀の沮授(そじゅ)が呆れて座を離れてしまいました。そこで、審配(しんぱい)は曹操の持つ大将軍の位を、譲り渡すよう求める上奏を送りました。
朝廷内では賛否両論が起きますが、結局曹操の判断に委ねられることになりました。曹操は、あっさりとこれを承諾し、大将軍の位を袁紹に譲り渡しました。曹操にとって、大事なのは実。飾りの官職などどうでもよいのです。代わりに、兵権のない(とされる)「丞相」(じょうしょう)の位を、曹操は新たに得ることになります。丞相は三公の上に位置し、天子を補佐して万機を司る役職です。ある意味、大将軍よりもこっちのほうが好都合といえるかもしれません。

望み通り大将軍の位につき、おごり高ぶった袁紹は献帝に対し、さらに息子たちの官職までをも要求しようとするのですが・・・。




















































