第39~41話【第7部-赤壁前夜】

第41話(最終話) そして南へ

皆さん、こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
昨年9月から綴ってきた本ブログも、いよいよ今日が最終回となりました。

挨拶は後にして、それでは最終話の解説に参りましょう。

この最終話について、ひとつお知らせ。まだドラマを観ていない方は、
楽しみを損なう可能性があります。ご覧になってからお読みになることを勧めます。




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河北にはすでに怖いものがいなくなった曹操は、南征の準備を進めていました。
南へ逃げた劉備の討伐および、その劉備をかくまう荊州の劉表を討伐を
めざしていたのですが、そこへ病身をおして、軍師の郭嘉がたずねてきました。

郭嘉は、北方の幽州へ逃げた袁尚、袁煕が、遼東の公孫康や異民族と
手を組んで挙兵してしまったら一大事であるというのです。
そのため、まずは北方を完全に平定してから南へ行くべきと主張します。

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曹洪に留守を預けて出陣する曹操。頭痛に苦しみながらも、
郭嘉の進言を受け入れ、自ら軽装騎兵を率いて北へと進軍を開始しました。

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郭嘉はかねてより作っていた地図を手渡し、丁寧に見送りをします。
病弱の郭嘉は死期が近いのでしょうか。いつになく深刻な表情に、曹操の顔も曇ります。
曹操はまた会えることを信じ、彼に別れは告げずに進軍していきました。

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曹操軍は砂漠地帯に到着しました。
水に飢えた彼らは郭嘉が記した地図を頼りに、泉のある場所へ向かいますが、
これが一向に見つかりません。

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それから7日が経ち、ついに曹操軍は力尽き、渇きによって倒れてしまいました。
郭嘉に渡された地図は、まったくのデタラメだったのです。

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そして、馬の飼葉はすべて塩辛く加工されており、馬たちは水を余計に消費していました。
郭嘉に嵌められたことを知った曹操は、ここで野垂れ死にの覚悟を決めます。
夏侯淵は、馬を殺してその血を飲もうと提案しますが、
馬がなくては7日で鄴へ引き返すことはできず、結局同じことになります。
曹操は馬を道連れにしては哀れだと、馬の荷を下ろして解き放ってしまうよう命令を出しました。

曹操は、「漢にとって代わる気があったのか」との問いかけに対し、
「わからない」と答えます。今があるのも、一歩ずつ進んできた結果であると。

しかし、その命も風前の灯。
まさか・・・こんな砂漠が、我々と精鋭たちの墓場になるとは。
夏侯淵が嘆いていると、にわかに湿った空気があたりに漂い始めます。
天の恵み、雨が降ってきたのです。

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曹操軍の将兵はよみがえりました。

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一方、留守を預かる郭嘉と程昱がいる鄴(ぎょう)にも、雨が降ってきました。
実際には遠く離れているので、天候までが同じとは思えないのですが、
ともあれ、天運は曹操に味方しました。

曹操を北の果てに追いやり、渇きによって葬り去ろうという郭嘉の策は敗れたわけです。
しかし、天が曹操に味方したのなら、それに従うほかはありません。
郭嘉は静かに「天命」を受け入れるのでした。

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息を吹き返した曹操軍は烏桓の陣営に攻め入り、守備していた異民族の首領、
蹋頓(とうとん)を討ったのを皮切りに、10万の兵を打ち破って降伏させました。
苦難を乗り越えた曹操は勝利の叫びをあげます。

逃亡した袁尚、袁煕はしぶとく逃げ、公孫康を頼って落ち延びていきますが、
ほどなくして、公孫康は曹操軍に寝返り、2人の首を送って曹操へ投降してきました。

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これで、完全に袁家を討ち滅ぼした曹操。しかし、彼は喜びませんでした。
郭嘉の訃報が届いたからです。
夏侯淵は、「郭嘉はご主君を殺そうとしたのに」と不思議がりますが、
曹操は彼の才能を惜しみ、嘆き悲しむのです。

曹操が袁尚らを追わず、公孫康も放置していたのは、郭嘉の書簡による
進言に従ったからで、果たして郭嘉の読み通り、彼らは仲違いして自滅しました。

曹操は、郭嘉を司空祭酒として手厚く弔うこと、そして
砂漠で起こったことを絶対に口外するなと夏侯淵に命じました。
曹操は、郭嘉が自分を殺そうとした気持ちが理解できたのでしょう。
雨によって曹操が助かったことを受け入れ、その上で袁尚たちの運命をも
予測し、助言してきたことに感服し、すべてを許したのです。

曹操がなぜ郭嘉をこれほどまでに尊重したのか・・・。
それは翌年に起きた「赤壁の戦い」の後に曹操がつぶやいた、
「奉孝が生きていれば・・・」という言葉からも明らかです。
曹操は、まさに罪を憎み人を憎まずの人。利害を超えた関係であったのでしょう。

本作における郭嘉と曹操の最後のエピソードは、
もちろんオリジナルですが、なかなか考えさせられる設定ではないかと思います。

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北方を完全に平定した曹操は、許昌へ引き揚げようと、凱旋の準備を張遼に命じます。
しかし許昌では、孔融をはじめとした、反曹操派の士人たちとの対決も待っています。
曹操は、南征を始めるにあたって自分を陥れようとする孔融を
血祭りにあげようと予告するのでした。

曹操は、祖父・曹騰の言葉を口にします。
「理(ことわり)や道徳が権力者を決めるのではない。権力者が理や道徳を決めるのだ」

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まもなく、夏侯惇が書簡を沢山積んだ車を牽いてやってきました。
車に積まれていたのは、蔡文姫がしたためた、亡き蔡邕(さいよう)の蔵書でした。
蔡文姫は蔡邕の蔵書の内容をすべて暗記しており、そっくり甦らせてみせたのです。

記録によれば4千巻のうち、十分の一ほどしか再現できなかったそうですが・・・
どちらにしても素晴らしい才能といえましょう。

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そしてまた、夏侯惇は文姫に託されてきたものを曹操に渡します。
それは、例の簪(かんざし)でした。曹操が折ってしまったものが元通りになっています。
文姫は、父の蔵書が「これで元通り」というメッセージを込めたのかもしれません。
まさか、曹操との恋愛が元通りになるわけではないと思いますが・・・。

彼女なりに、幼き頃のよき思い出を大事にしたいということなのでしょうか。
曹操は彼女に改めて敬服し、夫・董祀(とうし)の釈放を夏侯惇に命じるのでした。

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その後、海を見るために海岸へと向かった曹操と夏侯惇。
中原で生まれ育った曹操にとって、海は馴染みのないものでした。
この遠征中、すでに彼は何度か、海を見ていたのかもしれませんが、
はたして、その向こうに何を見たのでしょうか・・・。

史実でも、建安12年(西暦207年)、曹操は烏桓征伐で柳城へ至りました。
武人であり、政治家であり、そして詩人でもあった曹操は、そのとき、
海岸へ出て東側に碣石山(けっせきざん)を望み、海を見渡しながら詩を賦したのです。

東臨碣石 以觀滄海 水何澹澹 山島竦峙 樹木叢生 
百草豐茂 秋風蕭瑟 洪波湧起 日月之行 若出其中
星漢燦爛 若出其裏 幸甚至哉 歌以詠志

東は碣石に臨み  もって蒼海を観る 水は何ぞ淡々たる
山島は水面に立つ 樹木は叢り生え 草は豊かなり
秋風が吹けば 波は湧き起こる 月も日もまた そこより出づるがごとし
星のきらめきは またそこから出づるがごとし 幸いなるかな 詩をもって志を詠ず

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碣石山は、現在の山東省にあります。
曹操は中国の歴史上初めて「海」を詩で詠じた人物ともいわれています。
海は当時、「晦」(暗いの意)に通じ、不吉なものとされていたようですが、
その暗い海を、万物を生む偉大なものと見て崇拝の念を抱いたのです。

曹操が東に向けてこの詩を賦していたとき、もしかしたら、
反対側の東の島国からも、海を眺めていた人がいたかもしれません。
それは卑弥呼という、曹操と同時代を生きた我々の先祖だったかもしれません。
そう思うとき、私は三国志という歴史書にロマンを覚えて仕方がないのです。

さて、このシーンで、ドラマ『曹操』は完結。
曹操の幼少期から最盛期までを映像化した初めてのドラマ作品、
皆さんはいかがだったでしょうか?


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これまでのように「三国志演義」を原作としたものとは異なり、
正史『三国志』や『後漢書』などの純粋な歴史書を主な原作としていたため、
馴染みのない人物やエピソードも多数登場し、新鮮味のある作品でした。

ただ、その割には説明不足の部分も多く、場面転換も非常に多いため、
三国志をあまり知らない人はもちろん、詳しい人でさえ、
「わかりにくい」部分も多かったように思います。

三国志作品ではおなじみともいえる、劉備は悪役ですし、
関羽はあまり活躍しませんし、当然ながら諸葛孔明や周瑜も登場しませんでした。
よって、それを期待していた方には物足りなく映ったかもしれません。

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ただ、三国志の主役の一人であり、中国でも再評価が進み注目されている
曹操という人物の新たな魅力に斬り込んだ、意義のある面白い作品だったと思います。
新解釈も多く散りばめられ、観ていて飽きない作品でしたし、
このブログも個人的には楽しく綴らせていただきました。

途中で更新が思うようにできなかったり、長く中断してしまったりして、
読者の方々には、大変ご心配とご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げます。

今回のブログでは『三国志 Three Kingdoms』の時のようには、
私の力不足ゆえか、皆さんからの反響を多くは得られませんでしたが、
これまで読んでくださった皆さんには、感謝の気持ちで一杯です。
それでは、また機会がありましたら、どこかでお会いしましょう。ありがとうございました!


※ツイッターの「曹操」公式アカウントでは、
主人公である曹丞相がこれからも時々、つぶやくそうです。
曹丞相に会いたくなったら、ぜひフォローしてみてください。
https://twitter.com/sousou_drama

第40話 屈辱の婚礼

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運命に抗うことかなわず、中原へと戻ることになった蔡琰(蔡文姫)。
夫である左賢王が、子供を連れて行くことを許さなかったため、
母と子は離れ離れとなりました。これは、もはやどちらが正しいとも言い切れません。

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そのころ、曹操は将兵を連れて、陥落させたばかりの鄴(ぎょう)城へ入城しました。
長年、袁家の本拠地だった城を、曹操はついに我が物としたのです。
(傍らにいるのは左から、曹植・曹彰・曹丕 3人の子たち)

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城内に残っていた袁家の人々に対し、許昌で面倒をみることを伝える曹操。
跪く彼らは、袁紹が敗死した今、かつての主人の過ちを認めるしかありませんでした。

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その中に一人、聡明そうな美女がいたことに眼をつけた曹操は、
彼女をその場に呼びとめ、名を尋ねます。彼女は甄(しん)夫人といい、
袁紹の次男・袁煕(えんき)の夫人だった女性です。

曹操は気に入って側室にしようとしましたが、息子の曹植や郭嘉に反対されたため、
嫡男の曹丕に譲り、娶らせることにしました。
本作では、曹操から無理矢理あてがわれたような格好ですが、
史実では曹丕が見初めて妻に望んだとされています。彼女は後に
魏の2代目皇帝になる曹叡(そうえい)を産むことになります。

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曹操一行はその後、袁紹の墓所に参拝し、冥福を祈ります。
曹洪と夏侯惇は、袁紹を仇敵とみなし跪きませんでしたが、曹操は無理に座らせました。
長らく争ったライバルでもあり、盟友でもあった袁紹に曹操は語りかけます。
墓前に酒を捧げ、感極まって涙した後、永遠の別れを告げて立ち去るのでした。

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その後、曹操は諸将を集めて曹丕と甄氏の婚礼の宴を開きました。
実は弟の妻を奪われたことを屈辱に思った袁譚が、
謀反を画策していたのですが、彼は部下に殺害され、企ては未然に防がれました。
曹操は喜び、諸将から雑兵にまで分け隔てなく、九醞春酒をふるまうのでした。

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その後、鄴にとどまる曹操を、匈奴から許昌へ戻ってきていた
蔡琰(蔡文姫)が訪ねてきますが、曹操は会わずに帰そうとします。
すると、彼女は「会わないのならこれを」と、置き土産を残していきました。

この簪(かんざし)には、「お早いお帰りを 曹操」と刻まれていますが、
それを見た曹操は、この文字の意味が何のことだか分からず、首をかしげます。

展開が分かりにくいのですが、蔡文姫は中原へ戻ってきてから
すぐに同郷出身の董祀(とうし)に嫁いだのです。しかし、
その夫が牛を殺した罪で処刑されると聞き、曹操に助命嘆願に来たのでした。
(当時、農耕に必要な牛は重要視され勝手に殺すことは重罪だったみたいです)

董祀は匈奴へ使者として赴いた使者のうちの一人です。
彼女は3度目の結婚ということになりますが、彼に嫁いだのは、
史書によれば曹操の指示だったようです。しかし、本作においては、
自分の意志で再婚したような描かれ方がされています。

曹操は、文姫が夫に殉じるというので慌てて呼び戻し、会うことにしました。
そして彼女を待っている間、曹操はようやく思い出すのでした。
いま、手元に置いた簪は、かつて自分が彼女に贈ったものであり、
その文字も自分が刻んだものだったということを。

しかし、曹操は一笑するや、簪を二つにポキリと折ってしまいます・・・。

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そして再会する2人。別れたときが180年頃でしたから、実に27年ぶりでしょうか。
本作においては、第6話以来の再会です。

文姫は、ほとんど変わらずあの頃と同様の美貌を保っているように見えますが、
当時20歳だったとしても、40代後半になっているはずです。曹操は53歳。
(史実の文姫は曹操より22歳も年下の177年生まれなので、
第6話の時点では4~5歳ぐらいだったことになりますが、
本作は年齢設定が曖昧なので、あまり気にしないほうが良いです)

曹操は懐かしさのあまり、にわかに昔の情を思い出して文姫の肩に触れようとしますが、
文姫は拒絶するように肩を引っ込めます。嫌でも時の流れを感じさせる瞬間です。

文姫は曹操に訴えます。匈奴から戻ってくる長旅の道中で、
病にかかり、必死に看病してくれたのが董祀であったこと、
董祀が牛を殺したのは、自分に肉を与え栄養をつけさせるためであったことを。
そのおかげで助かったと彼女は言うのです。

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殺すのなら一緒に殺してほしい、と願う彼女。
しかし、簡単に法を曲げるわけにはいかないため、曹操は彼女に対し、
一つの条件を出します。それは生前に彼女の父・蔡邕(さいよう)が
所有していたが戦乱によって散逸してしまった4千冊の蔵書・著作を再現することでした。
とてつもない無理難題に思えますが、文姫は必ずやりとげると約束するのでした。

父の書は、すべて心の中に暗記していると答える文姫。
半年で成し遂げたならば、曹操は董祀の命を助けると約束しました。

彼女は自分が漢に戻ってきた意味を、曹操と再会するためではなく、
漢の歴史を記すためだとハッキリと理解します。

謝して立ち去ろうとする彼女を呼びとめ、曹操は折った簪を返却しました。
簪を折ってしまったのは、おそらくは彼女があっさりと董祀の妻になっていて、
彼女の心の中に、もう自分の姿がないと悟ったから、なのかもしれません。

「私はこの手中の剣を、天下の鋤として大地を一つにまとめたい。
漢室復興のために。幼き頃から今まで、それは揺るいだことがない・・・」


曹操の天下と漢朝に対する思いを聞いて、文姫は悲しげな顔をしながらも
「かつて自分のそばで詩を諳んじた青年の姿を思い出しました」と告げ、
静かに立ち去るのでした。

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そのころ、日に日に病が重くなる郭嘉は、名医・華佗(かだ)の診療を受けていました。
火の煙にやられた毒が肺を冒しているとみて、薬を与える華佗。

華佗が立ち去った後、郭嘉は程昱と天下の趨勢を話します。
河北では袁譚が死に、袁煕と袁尚はすでに虫の息。
南の荊州には劉表がいるが、やがて狡猾な劉備に乗っ取られるだろう。
揚州の孫権は配下に周瑜という英傑を従え、よく治めている。
西暦207年の中国は、およそこのような勢力図になっています。

曹操は河北をほぼ手中に収めて驕り高ぶり、最近では
郭嘉や程昱さえ遠ざけ、意見すらロクに聞かなくなったというのです。
郭嘉は自分の命が長くないことを悟るとともに、その政権の危うさを危惧し、
何らかの計画を実行に移そうとしているのですが・・・。

・・・さて、みなさん。
長らく続いてきたこのドラマ「曹操」オフィシャルブログですが、
いよいよ次回の第41話で最終回。更新は、また明日を予定しています。
どうか最後まで、お付き合いのほどよろしくお願いします。

第39話 思慕の歌

こんにちは! ドラマ「曹操」案内役の哲舟です。
いよいよ今回からは第7章、つまり最終章に入ります。
といっても、最終章はわずか3話と短いのですが。
残り3話、頑張って綴って参りますので、どうか最後までお付き合いの程お願い致します。

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父・袁紹の死後、冀州の鄴(ぎょう)城では長男の袁譚(えんたん)が、
曹操軍を相手に懸命に奮戦していましたが、参謀の逢紀(ほうき)と意見が対立し、
先に帰ろうとした彼を斬ってしまいました。
袁紹の遺児たちは団結できずに対立し、さらに混迷の度合いを深めています。

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まあ、それというのも袁紹の跡目を継いだのは、三男の袁尚(えんしょう)だから
なのですが・・・。袁譚は長男である自分が、弟の命令で動くこと自体、我慢ならないのです。
仲の悪い兄弟を前に、参謀の審配(しんぱい/左)も、苦味のある心配顔(笑)。

袁譚は独断で、曹操軍に降伏を申し入れたと言い、袁尚を慌てさせます。
そうやってわざと曹操軍をおびき寄せ、だまし討ちにしようというのが狙いです。

袁譚の降伏は罠と知りながら、騙されたふりをして入城したのは、曹丕と郭嘉。
曹操はすぐさま、突入して彼らを救おうとしたのですが、城門が鉄柵で堅く閉ざされてしまい、
作戦は失敗します。何人かの兵が犠牲になり、鉄柵を持ち上げたことで
曹丕、郭嘉は城外へ逃れることができましたが、その折に郭嘉は火矢に狙われ、
その火矢が油に着火したため、煙を吸い込んで倒れてしまいました。
思わぬ反撃に遭い、曹操軍は一時撤退します。

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もともと病気がちだった郭嘉は、無理がたたって寝込んでしまいました。
曹操は自ら見舞い、薬を運んでやりました。
力攻めに反対していた郭嘉の意見を聞かずに敗れた曹操は、詫びます。
郭嘉はそれでも病床にありながら、曹操に鄴城攻略の策を授けようとするのです。

曹操は郭嘉の進言に従い、一度撤退して様子を見ました。
すると、郭嘉の見立て通りに袁譚、袁尚は争いをはじめ、敗れた袁譚は曹操に投降。

袁尚は鄴に立て籠もって曹操軍を迎え撃ちますが、
敗走して曹操に投降を申し入れました。しかし、曹操は
「いまさら降伏など」と、これを突っぱね、武力で袁尚を討ち滅ぼそうとします。

39-7
曹操は投降してきた辛毗(しんぴ)に鄴城を攻めさせますが、
それを見て怒った審配は、辛毗の家族たちを城壁から落としたり、
城壁の上で殺害して見せしめにします。辛毗は憤怒の形相で城攻めにかかります。
この苛烈な作戦が功を奏して、審配の息子・審栄が寝返り、鄴城は陥落しました。

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この曹操の策を非情だとして、面と向かって批判したのは、郭嘉でした。
時に漢王朝の威信さえも利用し、今回の辛毗のように人を駒として扱うようになった
曹操に対し、次第に反発を覚えるようになった郭嘉。
曹操は本当に世のために必要な人間なのか・・・郭嘉は苦悩します。

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ところ変わって、匈奴(きょうど)の土地。匈奴は中国北部、蒙古に勢力を広げる異民族です。
曹操はここに使者を送り、贈り物を届けるとともに、
その見返りとして、「蔡琰(蔡文姫)を引き取って来い」と命じたのです。

曹操は、文姫が今は匈奴の左賢王(さけんおう)の妻となっていることを知り、
その詩の才能を惜しんでか、財宝と引き換えに呼び戻したいと考えました。
第25話で、彼女が左賢王に連れ去られるシーンがありましたね)

「単于」(ぜんう)と呼ばれる匈奴の王、於夫羅(おふら)は
曹操から派遣された周近、董祀の2人を、まずは歓待しようとしますが、
使者2人は友好的な態度は一切なく「ただ蔡琰を引き渡せ」、と彼らにいいます。
同時に、これは強制である旨を伝えました。

匈奴は前年に一度、曹操に対して乱を起こしましたが、この戦いに敗れており、
和睦してからは従属する立場でした。この申し入れを断れば、
それは曹操に対する反逆と見なされ、攻撃を受けることになりかねません。

しかし、左賢王は突然、自分の妻を引き渡せといわれ、
使者の無礼な態度に憤慨し、剣を抜きかけます。
於夫羅に止められますが、気持ちが治まらず一触即発の状況に・・・。

39-12
そこへ、当の本人である文姫がその場に現れました。
文姫はまたも運命に抗うことをせず、夫に中原へ戻ることを告げます。
左賢王は妻の意外なほどに淡白な態度に憤慨し、その場を去りました。

39-13
左賢王に2人の子は残していくように命じられたため、
彼との間にもうけた、2人の子を抱きしめる文姫。
彼女は、12年に及んだ異国での暮らしに別れを告げ、中原へ戻るのでした。

<この人に注目!>
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於夫羅(左)、左賢王(右)

匈奴には、単于(ぜんう)と呼ばれる支配者がいた。その名は於夫羅(おふら)。史実の於夫羅は195年に病死しており、この時期は弟の呼廚泉(こちゅうせん)が跡を継いでいたはずだが、本作では於夫羅が存命しているという設定になっている。
蔡文姫をめとった左賢王は、本作では「左賢王」としか呼ばれないが、於夫羅の子であるならば劉豹(りゅうひょう)という名が伝わる。左賢王には、単于の子(王子)が就任する定めになっていた。劉豹の子、劉淵(りゅうえん)は、五胡十六国時代の漢(前趙)を建国した人物だが、劉淵の生まれは251年ごろとされるため、蔡琰が産んだ子ではない。
プロフィール

哲舟

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