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もし貧乏人が経済学を学んだら

クルーグマンのもうひとつの日本論

 『クルーグマン教授の経済入門』(山形浩生 訳)からの抜粋です。この章の全体の「まとめ」ではありません。個人的に気になっているところの抜粋です。(この本は他の部分も、経済をどう見るか、とんでも経済論の見分け方を教えてくれるいい本です。だから「経済入門」(原題にはない)というタイトルになっている。)

日本のちがい

 日本ってホントにやり口がちがっているの? そんなの、事実関係だけ見ればあっさり方のつく問題だと思うでしょう。でもちがうの。[中略]
 その理由は、日本では法律に書いてあることと、実際に起こってるとおぼしきことの間にものすごい開きがあるってことなの。紙の上では、日本の市場はかなり開放されてる。農産物に関する限り、日本は公然と、とんでもないくらいの保護主義になる――みんな牛肉やコメの値段の話は知ってるよね。でも、工業製品になると、日本の関税はほかの工業国並だし、アメリカやヨーロッパでも自動車や鉄鋼の輸入を制限する「自主的輸出制限」や「調和的販売合意」もあんまりない。だから貿易政策の国際的議論の場で、日本の役人さんたちは、自分たちは自由貿易の優等生だって胸張って言えるんだ。
 この図式でおかしなところはだた一つ。もし日本がそんなに開放されてるんなら、なんでだれも日本でものが売れないわけ?
 もうみんな、日本でものを売ろうとするビジネスマンの苦労話は聞いたことがあると思う――国内(日本)製品よりも安くていいものを出しているのに、日本企業はそれを検討することさえていねいに断ってくるとか、外国製品は扱わない小売業者とかね。こういう苦労話は、たいがい利害のからんだ集団のもので、だからただの負け惜しみと見ることもできる。ただ、全体で見た証拠も、こういう話を支持してるんだよね。単純きわまりない事実問題として、日本はほかの先進国とくらべても、収入のうちで輸入工業製品に使う額の割合が半分以下なんだもん。

[中略]

 でも、関税も低いし、輸入枠もないし、何が日本への輸入を制限しているわけ? ここんとこで日本の専門家はちょっとありまいになってくる――これはまあ、たぶんしょうがないんだろう。だって日本そのものがあいまいな社会で、特にアメリカ人が期待するようなゴリゴリした法律主義ってのはないんだもん。

 日本側が持ち出してくるのは、日本での所有権の持合い制ね。サプライヤーと流通、銀行の長期的な関係とかさ。アメリカのなんでもありの市場よりは、むしろ昔ながらの入り組んだクラブOB会ネットワークみたいの感じの経済だね(そしてここは、アメリカでなら反トラスト法にひっかかる慣行だらけでもある)。

 だからアウトサイダーにとって、この経済構造に食い込むのはむずかしい。特にそれが外人だと、もうただごとじゃないくらいむずかしいわけ。

[中略]

 つまりまとめると、日本はやり口がちがっているというみんなの認識は、基本的には正しいことになる。これは別に、すじ論じゃない。何が正しいとか、何がフェアとかいう話じゃないの。ただ事実の表明。日本の市場は、アメリカやドイツの市場が開放されているという意味では、外国人に開放されてないんだよ。

[中略]


日本人が攻めてくる!

[中略]

 もっと大事な問題は、これってのが心配すべきことなのかってことだ。20年前には、アメリカの多国籍企業がヨーロッパでのびてくると、「アメリカの脅威」に圧倒されるんじゃないかってこわがるヨーロッパ人はたくさんいた。でも結局は、アメリカのヨーロッパ投資もいずれ頭打ちになって、ヨーロッパのアメリカ企業も、そのうちまったく問題なしの企業市民として見られるようになった。だったら、アメリカでの日本企業だって同じ結果になるんじゃないの?
 まあ、なるかもね。でも、またもやここでも日本はちょっとちがってて、不安のタネになってる。日本侵略とかいう話で警鐘ならしていい気になりたいなら、役にたちそうな事実が2つ。まず、日本企業は外国に投資するけど、日本自体に投資するのはどうもむずかしいようだってこと――だから日本企業は、ホームベースが守られているという点で、外国のライバル企業よりも戦略的に有利かもしれない。第二に、アメリカ国内の日本企業も、ほかの企業とはちがった行動をとっているらしい。
 外国企業が、どうも日本国内では大規模に活動できないらしいってのは、日本の輸入嫌いよりもショッキングな事実なんだ。図23は、日本国内での外国企業の役割を、ほかの先進国の状況とくらべたものだ。ヨーロッパ人は長いこと、外国企業に勤めるのなんか慣れっこだし、資本ストックの相当部分が外国所有なのも慣れてるし云々。アメリカだって、外国直接投資が増えてるし、状況はずいぶん似てきてる。でも日本だけは、ほとんど外国企業の手がついていない。
 直接投資についての日本の状況は、輸入品についてと同じで、ただ程度はもっとすごい。制度から見れば、日本は大股開き状態。確かに政府は、外国からの投資を止める力をちょっとは持っているけど、でもそれが発動されることはめったにない。でも事実上は、日本の外国企業は果てしない非公式な障害に出くわすことになる。
 ここで言いたいのは、日本は世界の大経済のひとつになってるから、こういうアクセスの一方通行――つまり日本企業は外国に投資できるけど、外国企業は日本に投資しづらい――は、日本出身企業にとって、戦略的に見てちょっと無視できないくらい有利になるってこと。
 でも、それがどうした? 日本企業が外国に行く分には、だまって受け入れればいいじゃん。

[中略]

 それでも、日本問題があるにはちがいない。日本は経済大国なのに、ほかの経済大国と同じ土俵で勝負しない。経済的にも、そしてそれ以上に政治的にも、この事実は見逃せない。アメリカとしては、なんとかして日本をどうにかしなきゃなんないんだ。

どうしよう

 日本をどうするかについては、意見が両極端に分かれる。一方には昔ながらの自由貿易支持者がいて、この人たちは要するに、「反対の頬を差し出せ」的な態度をとれと言う。その反対にはバッシャーがいて、日本と全面対決して、派手な変化を要求し、さもないと――とやりたがる。

[中略]

 中間の道を見つけるのはむずかしい。でも、90年代半ば、バッシャーにも弁解派にもなりたくない人たちは、ゴングで救われたみたい――だって、日本が突然、まるきり脅威でなくなっちゃったんだもの。

日本の自爆

 50年から90年にかけてほぼ40年間、日本経済は工業国の中でいちばん成長が速かった。そりゃ確かに、成長が鈍ってきたのは事実。60年代半ばには年率9%とか10%の猛スピードだったのが、80年代にはたった4%に落ちてきた。それでも、90年代に起こったことは、だれもまったく予想してなかったことだった。いきなり日本の成長がパタッと止まっちゃったんだ。91年から95年にかけて、日本経済の成長はほぼゼロ。
 この成長の腰くだけの理由については、この本で扱う範囲を超えちゃう――それにどのみち、これはまだかなりの論争が続いている話しでもある。そこそこ近い原因ってのは、日本の土地と株価をとんでもない水準に押し上げた金融バブルが破裂したことみたい。この「バブル経済」の終わりは、ごく普通の不景気を意味したんだけど、でも日本では公式の失業率は上がらなかった。
 ただわかんないのは、なぜこの不景気がいつまでも続いたのかってこと。96年には、やっと回復のきざしが見え始めていたけど、多くの経済学者は日本の問題ってのは、ただの需要不足よりももっと根深い理由があるのかもしれないと思い始めている。


Francesco Saraceno,「FEDは今利上げするべきか?」 (日本が世界より優れていること)

Francesco Saraceno のブログ(3月23日)の翻訳です。


FEDは、今、利上げするべきか?  Raise Fed Rates Now?
以下の文章は、アメリカとFED(FRB、連邦準備銀行)についての短い覚書だ。利上げしろという圧力は止むことがない。しかし、最近、その圧力はさらに強くなっている。今日、FTに掲載されたセントルイス連銀の James Bullard の意見を読んだところだ。それは、「破壊的な資産バブル」を防ぐために、ジャネット・イエレンに今すぐ金利を上げるように求めるものだ。半年前にも、量的緩和(QE)は危険である、なぜなら――ここでも理由は資産価格のインフレのためだ――それは格差の拡大につながるから、という意見が出ていた。そういう意見を抱いているのは、FEDの無責任な政策(彼らに言わせれば、ヨーロッパ通貨同盟(EMU)も同類である)のせいで、ワイマール共和国で起こったようなハイパーインフレが起こる、と2009年からしつこく予言しているインフレ偏執者(inflationists)(クルーグマンはいい名前を考えてくれた)だけではない。そこで、議論のために、思考実験をしてみよう。資産価格のインフレと大きな歪みが起こりそうになっている、そして、FEDは上記のような主張をを聞き入れ、より収縮的な政策に変更した(幸いなことに、現実はそうなっていないのだが)、と仮定してみよう。その場合、利上げを主張する人に聞いてみたいのは、次の2つの質問である。

1.彼らは、民間支出が金融政策という酸素供給テントなしに、経済を成長させ、維持できるほど回復していると考えているのか?

2.1の答えがノーなら、彼らは、金融政策縮小は財政支出拡大とセットで行わなければならない、という考えを受け入れるのか?

答えは明らかだと思う。特に2番目の質問に関してはそうである。昨日の Il Corriere della Sera 紙でも Alberto Alesina と Francesco Giavazzi が、信認の妖精(conficence fairy)と、緊縮すると成長する(expansionary austerity)という理論を持ち出し、公共支出カットを訴えている(そう、よく言われるあれだ。イタリア語がわかるなら読んでほしい。そして、日付を見てほしい。2007年ではなくて2015年なのだ)。FED(とECB)を批判する人が忘れがちなのは、中央銀行はいやいやながら主役にされているということだ。本来、財政政策がやるべきことをやっていないため、中央銀行がその空白を(だから、批判する人とは違う理由で)埋めなければならないのである。アメリカの財政支出スタンスを見てみよう(訳注1)。


2015_03_fiscal_impulse_1

















財政支出刺激策、アメリカ政府の裁量的なスタンスは、2008-2009年の間だけプラスだった。つまり、アメリカが1930年代以来、最悪の危機を経験しているのに、回復は遅く失業も多いのに、アメリカ政府はブレーキを踏んでいるのである。理由はみんな知っている。議会の片側が、オバマ政権(彼らだって、私から見れば、少し臆病に思われるのだが)が提出するあらゆる政策に対して妨害し、大がかりなボイコットをしたためだ。理由は何であれ、危機の間、財政政策が非常に限られた役割しか果たさなかったという事実は変わらない。FEDを批判する人々は、これに関してどう答えるのか。このように財政政策が順景気循環的 (procyclical) になっている状況で(訳注2)、FEDが量的緩和(QE)に乗り出さなかったら、どうなっていただろうか? それに対して利上げ派は、再び信認の妖精を答えとして持ち出してくるのではないかと私は心配だ。EMUも同じ状況にいる。次の図は、いくつかの国の2008年からの累積的な財政刺激を示したものだ。


2015_03_fiscal_impulse_2

















傾向ははっきりしている。日本を例外(アベノミクスのおかげ)とすれば(訳注3)、ほとんどの国で経済にブレーキをかけているのである(Alesina と Giavazzi にはこの図のイタリアの数字を見てもらいたい)。つまり、中央銀行は、このような財政政策の総沈黙の中で行動しなければならなかったのである。もう一度私の質問を繰り返そう。利上げを求めて中央銀行を批判している人の中で、金融政策の正常化と引き換えに、財政支出を大きくプラスに転換することを受け入れる人はいるのだろうか? まとめると、確かに、金融政策はこれまで非常に拡張的だった(マリオ・ドラギのECBでさえ)。確かに、そのような非伝統的な金融政策によって私たちは未知の領域に入っている。確かに、何らかの歪みが生じる危険性があるかもしれない。そして、私たちは、QEや非伝統的金融政策の長期的な影響について、完全にわかっていない。しかし、中央銀行には他の選択肢がなかったのである。私たちは流動性の罠におちいっていた、そして、こういう状況で本来使用される道具は、財政政策なのである。もし財政政策が宣誓し、経済を不況から脱出させるための負担を受け入れるなら、金融政策は正常化されてもいいし、正常化されるべきなのかもしれない。つまり、もし財政政策が経済を苦しめる増大する格差に取り組むのなら、もし財政政策が本来の仕事をちゃんと行うのなら(訳注4)、 ということである。

おそらくイエレンもドラギも、私のこの文章に反対しないのではないかと思う。


訳注1)
"Fiscall impulse is computed as the change in cyclically adjusted government balance." と書かれているので、季節調整した政府支出-歳入(GDP比)の前年比です。言いかえると、この値が増えていると、財政赤字が(債務も)増えています。「プライマリーバランス」の場合、国債に関する項目を引いて比較します(支出から利払いと国債償還費を引き、歳入から国債発行による歳入を引く)。

訳注2)
本来、逆(逆景気循環的)でなければいけない。不況のときに増やす。

訳注3)
日本では人口の高齢化が進み、医療費を含む社会保障費の自然増があるので、この数字から日本の財政政策が拡張的であるとは言えないと思いますが(2014年の消費増税もありますし)。

訳注4)
原文では仮定法過去。その可能性は低いということ。

ピーター・A・ダイアモンドのココナッツ・モデル

   
 英語のwikipediaがとてもいいです(
こちら。以下はそのwilipediaにしたがって、まとめたものです)。モデルを単純化して、かなり詳しく説明しています。教科書にそのまま載っててもいいくらい。ただし、最後の式が違います。正しくは(この記事の最後に示しますが)、$V_{e}-V_{u}=(ey+fc)/(r+f+e)$. ピーター・A・ダイアモンド(Peter A. Diamond)の元の論文は、
"Aggregate Demand Management in Search Equilibrium" (1982)
です(このタイトルで検索すれば、pdfファイルが見つかると思います)。


ダイアアモンドのココナッツモデル
島の人はココナッツを取って生活している(実は、取らなくても生活できるんだけど)。ココナッツを取るには費用 c がかかるが、食べると効用 y が得られる。ただし、島には自分で取ったココナッツは食べてはいけないという掟がある。他の人とトレードして初めて(食べて)効用を得る。

 ココナッツの木を見つける確率は f 。ココナッツを持っている人に出会う確率は b とします。島の人口のうち、すでにココナッツを持っていて、交換相手を探して人の割合は e 。

 ココナッツ探しに参加する人が多いほど、ココナッツを持っている人に出会う確率は大きくなるはずだから、b はe の関数で、$b'(e)>0$ ( e による一階微分はプラス)と想定できます。e の増加にしたがって、b も増加するから。

 すでにココナッツを取り、ココナッツを持って、交換する相手を探している状態の価値を $V_{e}$ (添え字が e になっているのは、このモデルを雇用に当てはめると、雇用されている状態に当たるから)、ココナッツを持っていなくて、ココナッツの木(ヤシの木)を探している状態の価値を $V_{u}$ とします(添え字が u になっているのは、失業に当たるから)。その場合、それぞれ価値の割引現在価値は、次の式で表されます(この式の導き方はローマーの『上級マクロ経済学』を参照。モデルは違うものですが、9章、9.4節、509ページ)。

$rV_{e}= b(e) (y+V_{u}-V_{e})+\displaystyle \frac{dV_{e}}{dt}$   (1)
$rV_{u}= f (-E[c]+V_{e}-V_{u})+\displaystyle \frac{dV_{u}}{dt}$   (2)

ここで、r は主観的時間割引率です。c はココナッツを取るためのコストです。ここでは、その値は、現時点ではわからないことになっていて、期待値で表されています。

 ココナッツをすでに手に入れ、交換相手を探している人の時間変化は次の式で表されます。

$\displaystyle \dot{e}= f(1-e)-b(e)e    (\dot{e}=\frac{de}{dt})$      (3)

 右辺の第1項は、ココナッツの交換市場に入ってくる人の割合です(inflow)。ココナッツを入手しているの割合が e なので、1-e の人がココナッツを探しています。ココナッツの木(ヤシ)を見つける確率が f なので、f(1-e) の人がココナッツを見つけ、ココナッツの交換市場に入ってくるわけです。

 右辺第2項は、ココナッツの交換市場から退出する人の割合です。e の割合の人がココナッッツを持っていて、交換相手を探しています。そのうち $b(e)$ の割合(確率)の人が交換相手を見つけるので、$b(e)e$ の人が交換相手を見つけ、ココナッツを交換し、消費し、再びココナッツを探す状態(u)に戻っていきます。つまり、ココナッツの交換市場から退出するわけです。したがって、その右辺の第1項と第2項の差が、ココナッツを手に入れ、交換相手を探している人(ココナッツ市場にいる人。状態 e の人)の増加率になります。

 定常状態では、変数の変動が止まる点なので、$de/dt=0$ となります。$b(e)$ の例として、$b'(e)>0$ になればいいので、$b(e)=e$ という単純な関数を想定すると、(3)式は、

$\dot{e}= f(1-e)-e^{2}$    (4)

 となります。定常状態では、$de/dt=0$ なので、

$e^{2}+fe-f=0$

 が成り立つことになります。したがって、定常状態では、

$e^*= \displaystyle \frac{1}{2}(-f+\sqrt{f^{2}+4f })$

 の割合の人が、ココナッツの交換市場にいることになります。

 しかし、$de/dt=0$ となる、もうひとつの定常状態(均衡)があります。島の人が、他にココナッツを持っている人がいなくて、交換できる相手がいない、と思ってしまうと、誰もココナッツを取ろうとしません(コストだけを払うことになるから)。そうなると、ココナッツの交換市場に入ってくる人がいなくなるので、(4)式の右辺の第1項は 0 になります。その場合、(4)式は $de/dt=-e^2$ となり、定常状態( $de/dt=0$ )では、 e の値が $e^*=0$ となります。これは、ココナッツを取り、交換する人が 0 になることを意味します。誰もココナッツを取らない状態も定常状態(均衡)になるわけです。

 誰もココナッツを取ろうとしない状態は、定常状態(均衡)ですが、最適(パレート最適)ではありません。みんなでココナッツを取って、交換したほうが効用を高めることができるからです(パレート改善の余地がある)。

 通常、経済学では、市場にまかせておけば、最適な均衡に到達できる、と想定されています。しかし、このモデルは、市場にまかせておいても、最適な均衡には到達できない可能性があることを示しています。理由は、均衡が、個人の合理的な最適化(効用最大化)で決まる(これが通常の経済学の想定)だけではなくて、他の人の行動によって左右されるからです。みんなが、ココナッツを取るのはコストがかかるし、他にココナッツを持っている人はいないだろう、と思ってしまうと、ココナッツを取らないこと(それは最適ではないのに)が均衡になってしまうわけです。

 言葉を変えて言えば、経済の均衡は、ある部分、自己実現的である、ということです。みんなが、そうなるだろうと思うと、その予想が(望ましいものではなくても)実現してしまうわけです。

 これは、(1)式、(2)式を使っても、確かめることができます。定常状態では、$\displaystyle \frac{dV_{e}}{dt}=0$,$\displaystyle \frac{dV_{u}}{dt}=0$ になるので、

$rV_{e}= b(e) (y+V_{u}-V_{e})$   (5)

$rV_{u}= f (-c+V_{e}-V_{u})$   (6)

 となります(ここで、$E[c]=c$ としています。そうなる例としては、ヤシの木の高さは同じで、コストはどれも同じだとみんな思っている場合)。(5)式から(6)式を引いて、$V_{e}-V_{u}$ を求めます。

$r(V_{e}-V_{u})=b(e)y+fc-(b(e)+f)(V_{e}-V_{u})$

$V_{e}-V_{u}=\displaystyle \frac{b(e)y+fc}{r+f+b(e)}$

 $b(e)=e$ なら、$V_{e}-V_{u}$  は

$V_{e}-V_{u}=\displaystyle \frac{ey+fc}{r+f+e}$   (7)

 となります。$V_{e}-V_{u}$  がコスト c よりも大きくなければ、誰もココナッツをとろうとしません。したがって、みんながココナッツを探し、ココナッツを取り、交換を始める条件は、

$V_{e}-V_{u}=\displaystyle \frac{ey+fc}{r+f+e}>c$   (8)

 となります。ここで、$e=0$ の場合、つまり、誰もココナッツを取ろうとしない状態の場合、(7)式は、

$V_{e}-V_{u}=\displaystyle \frac{fc}{r+f}$

 となります。右辺は c より大きくなっています。

$(\displaystyle \frac{f}{r+f})c>c$

 $V_{e}-V_{u}$  がコスト c よりも大きい場合は、誰もココナッツをとろうとしないことになるので、これは $e=0$ となることと整合的です。したがって、$e^*=0$ (誰もココナッツを取ろうとしない状態)は、均衡になっているわけです。

 いっぽう、(8)式の条件から、ココナッツの交換が始まる条件は、 

$e>\displaystyle \frac{rc}{y-c}$

 となります。$b(e)=0$ と仮定していたので、元の $b(e)$ で表記すれば、その条件は、

$b(e)>\displaystyle \frac{rc}{y-c}$

 となります。政府が何か経済政策によって、$e^*=0$ ではなくて、人々がココナッツ市場に参加する「最適な」均衡が達成されるようにするには、(1)コスト c を補助し、c を下げる(上記の不等式の右辺は小さくなります)、(2)同じことですが、利益(効用) y に上乗せする、(3)スパルタ教育をし、忍耐力を鍛える(時間割引率rを下げることになるから)、(4)STAP細胞技術を支援し、人の首をキリンのように長くする、というような方法が考えられます。

プロフィール

沢ひかる

貧乏人。

経済学「部」とは無縁です。

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