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もし貧乏人が経済学を学んだら

クルーグマン

クルーグマンのもうひとつの日本論

 『クルーグマン教授の経済入門』(山形浩生 訳)からの抜粋です。この章の全体の「まとめ」ではありません。個人的に気になっているところの抜粋です。(この本は他の部分も、経済をどう見るか、とんでも経済論の見分け方を教えてくれるいい本です。だから「経済入門」(原題にはない)というタイトルになっている。)

日本のちがい

 日本ってホントにやり口がちがっているの? そんなの、事実関係だけ見ればあっさり方のつく問題だと思うでしょう。でもちがうの。[中略]
 その理由は、日本では法律に書いてあることと、実際に起こってるとおぼしきことの間にものすごい開きがあるってことなの。紙の上では、日本の市場はかなり開放されてる。農産物に関する限り、日本は公然と、とんでもないくらいの保護主義になる――みんな牛肉やコメの値段の話は知ってるよね。でも、工業製品になると、日本の関税はほかの工業国並だし、アメリカやヨーロッパでも自動車や鉄鋼の輸入を制限する「自主的輸出制限」や「調和的販売合意」もあんまりない。だから貿易政策の国際的議論の場で、日本の役人さんたちは、自分たちは自由貿易の優等生だって胸張って言えるんだ。
 この図式でおかしなところはだた一つ。もし日本がそんなに開放されてるんなら、なんでだれも日本でものが売れないわけ?
 もうみんな、日本でものを売ろうとするビジネスマンの苦労話は聞いたことがあると思う――国内(日本)製品よりも安くていいものを出しているのに、日本企業はそれを検討することさえていねいに断ってくるとか、外国製品は扱わない小売業者とかね。こういう苦労話は、たいがい利害のからんだ集団のもので、だからただの負け惜しみと見ることもできる。ただ、全体で見た証拠も、こういう話を支持してるんだよね。単純きわまりない事実問題として、日本はほかの先進国とくらべても、収入のうちで輸入工業製品に使う額の割合が半分以下なんだもん。

[中略]

 でも、関税も低いし、輸入枠もないし、何が日本への輸入を制限しているわけ? ここんとこで日本の専門家はちょっとありまいになってくる――これはまあ、たぶんしょうがないんだろう。だって日本そのものがあいまいな社会で、特にアメリカ人が期待するようなゴリゴリした法律主義ってのはないんだもん。

 日本側が持ち出してくるのは、日本での所有権の持合い制ね。サプライヤーと流通、銀行の長期的な関係とかさ。アメリカのなんでもありの市場よりは、むしろ昔ながらの入り組んだクラブOB会ネットワークみたいの感じの経済だね(そしてここは、アメリカでなら反トラスト法にひっかかる慣行だらけでもある)。

 だからアウトサイダーにとって、この経済構造に食い込むのはむずかしい。特にそれが外人だと、もうただごとじゃないくらいむずかしいわけ。

[中略]

 つまりまとめると、日本はやり口がちがっているというみんなの認識は、基本的には正しいことになる。これは別に、すじ論じゃない。何が正しいとか、何がフェアとかいう話じゃないの。ただ事実の表明。日本の市場は、アメリカやドイツの市場が開放されているという意味では、外国人に開放されてないんだよ。

[中略]


日本人が攻めてくる!

[中略]

 もっと大事な問題は、これってのが心配すべきことなのかってことだ。20年前には、アメリカの多国籍企業がヨーロッパでのびてくると、「アメリカの脅威」に圧倒されるんじゃないかってこわがるヨーロッパ人はたくさんいた。でも結局は、アメリカのヨーロッパ投資もいずれ頭打ちになって、ヨーロッパのアメリカ企業も、そのうちまったく問題なしの企業市民として見られるようになった。だったら、アメリカでの日本企業だって同じ結果になるんじゃないの?
 まあ、なるかもね。でも、またもやここでも日本はちょっとちがってて、不安のタネになってる。日本侵略とかいう話で警鐘ならしていい気になりたいなら、役にたちそうな事実が2つ。まず、日本企業は外国に投資するけど、日本自体に投資するのはどうもむずかしいようだってこと――だから日本企業は、ホームベースが守られているという点で、外国のライバル企業よりも戦略的に有利かもしれない。第二に、アメリカ国内の日本企業も、ほかの企業とはちがった行動をとっているらしい。
 外国企業が、どうも日本国内では大規模に活動できないらしいってのは、日本の輸入嫌いよりもショッキングな事実なんだ。図23は、日本国内での外国企業の役割を、ほかの先進国の状況とくらべたものだ。ヨーロッパ人は長いこと、外国企業に勤めるのなんか慣れっこだし、資本ストックの相当部分が外国所有なのも慣れてるし云々。アメリカだって、外国直接投資が増えてるし、状況はずいぶん似てきてる。でも日本だけは、ほとんど外国企業の手がついていない。
 直接投資についての日本の状況は、輸入品についてと同じで、ただ程度はもっとすごい。制度から見れば、日本は大股開き状態。確かに政府は、外国からの投資を止める力をちょっとは持っているけど、でもそれが発動されることはめったにない。でも事実上は、日本の外国企業は果てしない非公式な障害に出くわすことになる。
 ここで言いたいのは、日本は世界の大経済のひとつになってるから、こういうアクセスの一方通行――つまり日本企業は外国に投資できるけど、外国企業は日本に投資しづらい――は、日本出身企業にとって、戦略的に見てちょっと無視できないくらい有利になるってこと。
 でも、それがどうした? 日本企業が外国に行く分には、だまって受け入れればいいじゃん。

[中略]

 それでも、日本問題があるにはちがいない。日本は経済大国なのに、ほかの経済大国と同じ土俵で勝負しない。経済的にも、そしてそれ以上に政治的にも、この事実は見逃せない。アメリカとしては、なんとかして日本をどうにかしなきゃなんないんだ。

どうしよう

 日本をどうするかについては、意見が両極端に分かれる。一方には昔ながらの自由貿易支持者がいて、この人たちは要するに、「反対の頬を差し出せ」的な態度をとれと言う。その反対にはバッシャーがいて、日本と全面対決して、派手な変化を要求し、さもないと――とやりたがる。

[中略]

 中間の道を見つけるのはむずかしい。でも、90年代半ば、バッシャーにも弁解派にもなりたくない人たちは、ゴングで救われたみたい――だって、日本が突然、まるきり脅威でなくなっちゃったんだもの。

日本の自爆

 50年から90年にかけてほぼ40年間、日本経済は工業国の中でいちばん成長が速かった。そりゃ確かに、成長が鈍ってきたのは事実。60年代半ばには年率9%とか10%の猛スピードだったのが、80年代にはたった4%に落ちてきた。それでも、90年代に起こったことは、だれもまったく予想してなかったことだった。いきなり日本の成長がパタッと止まっちゃったんだ。91年から95年にかけて、日本経済の成長はほぼゼロ。
 この成長の腰くだけの理由については、この本で扱う範囲を超えちゃう――それにどのみち、これはまだかなりの論争が続いている話しでもある。そこそこ近い原因ってのは、日本の土地と株価をとんでもない水準に押し上げた金融バブルが破裂したことみたい。この「バブル経済」の終わりは、ごく普通の不景気を意味したんだけど、でも日本では公式の失業率は上がらなかった。
 ただわかんないのは、なぜこの不景気がいつまでも続いたのかってこと。96年には、やっと回復のきざしが見え始めていたけど、多くの経済学者は日本の問題ってのは、ただの需要不足よりももっと根深い理由があるのかもしれないと思い始めている。


クルーグマン、「日本との貿易」序文(1991) (1)

 古いもの(1991年)ですが、NBERの論文集、Trade with Japan -- Has the Door Opened Wider?  (1991) 収録のクルーグマンによる序文 (Introduction) の翻訳です。今回は最初の部分だけです。

要約
 日本に関して次のような通説 (conventional wisdom) がある。
 日本の市場は、貿易に対する法律上の障害は比較的少ないにもかかわらず、他の国の市場のように競争的になっていないので、事実上保護されている。企業と、カルテル化した流通セクターの両方を含むグループが、グループ内で結託しているため、多くの海外の生産者は、日本の市場から事実上締め出されている。日本製品よりも安い製品をつくっても、あるいは(かつ)、いい製品をつくっても、そうである。同様に日本の企業の協力が得られないので海外直接投資を行うことができない。日本に子会社をつくることができないので、日本への輸出ができない。そして、新しい重要な技術を扱う産業や製品になると、このような結託システムがとりわけ強くなる。そのために、すでに外国の企業がリードしている場合でも、日本の企業が新たな市場でのシェアを獲得するチャンスが出てくる。
 このような通説は、おおむね正しいようだ。
 
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「日本との貿易」(序文) 
"Introduction" to Trade with Japan  by Paul Krugman

 主要な経済指標だけを見ると、どうしてアメリカが日本にそれほどこだわるのかは理解しがたい。アメリカの輸入のうち、日本から来ているのは約5分の1にすぎない。そして、アメリカの輸出のうち10分の1以下が日本に輸出されているだけである。アメリカに対する海外直接投資 (foreign direct investment)のうち、日本企業が占めるのは約20%にすぎない。さらに、日本企業が雇っているアメリカ人はわずかである。確かに日本は、重要な貿易と投資のパートナーだ。しかし、どんな基準から言っても、ヨーロッパとの貿易と投資のほうが重要である。さらに、ほとんどの指標で、カナダのほうが数量的に上回っている。しかし、多くのアメリカ人にとって――一般の人々だけでなく、政策決定者や学者も含めて――日本の貿易と投資は、国際経済学の議論の的になっている。

 もちろん、日本に対する焦点の多くは、魅力と妬みのまぜあわさったものだろう。魅力――なぜなら、日本は比較的後進国の位置から、また敗戦のショックから、金融のリーダー国、そして技術的なリーダー国へと、めざましい躍進をみせたからだ。妬み――なぜなら、日本の台頭は、アメリカの優越が次第に低下していったこととはっきりとした対照を示しているからだ。それにともなって、多くのアメリカ人の生活水準は、停滞しているか、さらには低下しているありさまである。日本がアメリカ人にとって目立ってしまうのは、ある程度、それがアメリカの不足の象徴になっているからであり、アメリカ経済が本来与えるべきものを与えてくれないことへの失望を表しているからである。

 しかし、「日本問題」には、世界第2位になった国に対するアメリカ人の妬み以上のものがある。日本は世界経済の周辺国から中心へと踊り出てきたが、それにもかかわらず、依然として他の先進国とは違ったルールでゲームを行っている、と多くの人が感じているのである。それが正しいにせよ、間違っているにせよ、アメリカの多くの有識者が、日本の経済は他の産業国とは違う方法で動いている――その結果、従来のアメリカの対外経済政策は、日本がマイナープレイヤーであった時代には有効だったが、もはやうまく機能しなくなっている、という考えをいだくようになってきている。そのうちのいくらかの人は、日本バッシング専門家になっていて、アメリカに正面突破せよ、とせきたてる。またいくらかの人は、日本を賞賛するだけになっている。アメリカも日本システムと言われるものを見習ってほしい、というわけだ。

 問題は、アメリカと日本との貿易―投資関係は、過熱した議論をたくさん生み出しているが、データと信頼できる分析がまだ足りない、ということだ。最近の日本の輸出と投資の増加にばかり注目して、次のような基本的な疑問に答える議論ができていないのだ。どのような点で、日本の経済システムは他の産業国とは違っているのか? その違いは、どのような影響を与えているのか? それは、友好な経済関係に障害をもたらすか? この対立を解消するために何ができるのか?

 1989年の秋に、日本とアメリカの参加者が、両国の経済関係にとって重要な問題のいくつかを議論するために、全米経済研究所で国際会議を開催した。この本はその結果である。このイントロダクションで、この議論が行われた背景と、その会議で明らかになった主要な問題の概観を示してみたいと思う。

日本問題を定義する

 日本の政府官僚や多くのエコノミストや他の人々にとって、日本の異質性に対するアメリカの執着は、支持されていないようだ。従来の国際経済学の指標で見れば、日本はそれほど例外的ではないからだ。農業は手厚く保護されている。他の産業国と比べて、ほとんどの指標でそうである。しかし、日本は大きな農産物輸入国であるので、日本の農業保護主義は、ヨーロッパの農業政策の巨大な輸出補助金に比べて、貿易問題として対立を生むことは少ない。いっぽう、輸入工業製品に対する日本の関税は、他の先進国同様、きわめて低い。また、日本は、アメリカやヨーロッパへの工業製品の輸出量を制限する、という輸出制限の協定を結んでいない。私たちは、日本の貿易政策の制度上の構造だけを見れば、日本の官僚が――彼らがしばしば主張するように――日本はアメリカよりも自由貿易を維持している国だ、と主張するのを聞いても驚かないだろう。

 しかし、アメリカの政策決定者の中で、このような日本に都合がいい解釈を受け入れる人はいないだろう。そのうちいくらかの人は、日本は一枚岩的な「ニッポン株式会社」"Japan Inc." である、という考えをいまだに抱いている。しかし、より一般的な通説は次のようなものである。日本の市場は、貿易に対する法律上の障害は比較的少ないにもかかわらず、他の国の市場のように競争的になっていないので、事実上保護されている。企業と、カルテル化した流通セクターの両方を含むグループが、グループ内で結託しているため、多くの海外の生産者は、日本の市場から事実上締め出されている。日本製品よりも安い製品をつくっても、あるいは(かつ)、いい製品をつくっても、そうである。同様に日本の企業の協力が得られないので海外直接投資を行うことができない(訳注 例えば、日本に生産拠点をつくろうとしても、日本の部品会社が「系列」内で結託しているので、部品の調達ができるかどうかわからない。そのため、海外企業は日本に生産拠点をつくろうと思わない)。日本に子会社をつくることができないので、日本への輸出ができない。そして、新しい重要な技術を扱う産業や製品になると、このような結託システムがとりわけ強くなる。そのために、すでに外国の企業がリードしている場合でも、日本の企業が新たな市場でシェアを獲得するチャンスが出てくる。

 このような日本に関する通説の根拠は何だろうか? その多くが依拠しているのは、逸話である。例えば、どう見ても優れた製品が日本で売れなかった、ということを主張するビジネスマンの話である。カレル・ヴァン・ウォルフレンのような、影響力がある日本に関するコメンテーターは、アメリカやヨーロッパの自由奔放な個人主義とは非常に異なる日本社会というイメージを提供することで、そのような逸話を説得力のあるものにしてきた。しかし、経済学者にとって、それでは十分ではない。逸話は有益である。しかし、それを結論とすることはできない。とりわけ、逸話の語り手は、自分の利害と切り離して見ることができないからだ。いっぽう、社会学が重要になるかもしれない。しかし、経済学者は、ある社会的要因のために、利益を得る機会を社会の全員がふいにする、という考えに懐疑的である。言葉を変えて言えば、経済学者は、日本に関する通説に説得力があると認めるなら、次の点について確かめる必要があるのだ。第一に、逸話的な証拠がさらにより事実に基づいた、できれば数量的な証拠によって証明されること。第二に、日本の消費者がより値段が高い国内製品を好むという想定にそれなりの経済的意味がある、と証明されることである。

 1980年代を通して、日本のパフォーマンスに関する経済議論は、どちらかといえば単純な疑問に集中していた。日本は工業製品を異常なほど少ししか輸入しないのか? というものだ。数字だけで見れば、日本はこの点で他の先進国と大きく異なっている。日本の1988年の工業製品の輸入は、GNPの2%にすぎなかった。それに対してアメリカは7%、EC諸国の平均は14%である。この数字だけを見れば、日本の市場は閉じているという逸話は正しい、という印象を受けるだろう。しかし、多くの経済学者、とりわけ Bergsten と Cline が指摘しているように、そのような数字だけの比較は不公平である(1)。アメリカは資源が豊かな国である。そのため石油の輸入を農産物の輸出で支払うことができる。いっぽう、日本がそのような輸入原材料を買わためには、製造業で貿易黒字を生み出さなければならない。そのために工業製品の輸入は少なくなるのだろう。いっぽう、ヨーロッパの国々はお互いに生産した工業製品の半分以上を貿易する。しかし、日本は近隣に先進国を持っていない。

 多くの経済学者は、このような要因を考慮して、それでも日本は「異常な国」なのか、という疑問に答えようとしてきた。この疑問を検証するためのモデル自体も論争の的になっている。Srinivasan と Hamada は、日本の異常さを検証するすべての方法に問題がある、と主張している(2)。しかし、日本は、本来日本のような国に対して期待されるより、少ない量しか輸入していない、という主張は、依然として妥当なようだ。その点に関してとりわけ重要な点を指摘しているのは、Lawrence の論文である。彼は、日本の資源の少なさと地理的位置を考慮しても、日本はそのような状況で期待されるより、半分を少し上回るぐらいの輸入しかしていない、と指摘した(3)。

 日本は閉じた経済である、という通説を支持するもうひとつの証拠は、海外直接投資の少なさである。アメリカでは、外国人所有の企業が現在GNPの約4%を生産し、工業製品の付加価値の10%以上を生み出している。ヨーロッパの国々ではその値はさらに高くなるだろう。しかし、日本では、海外直接投資の役割は無視できるほど小さい(訳注1)。

 したがって、全体の議論を通して見れば、通説は大まかな検証テストをおおむねクリアしている、と言えそうである。しかし、そうなるとさらに疑問が生じる。どうして制度上は開かれている経済が、どちらかと言えば閉じた状態になってしまうのだろうか? そのような日本人の行動には、経済的合理性があるのか? あるいは、将来は、日本も他の産業国のようになっていくのだろうか? という疑問である。

(1)C. F. Bergsten and W. Cline, THe United States-Japan Economic Problem (Washington, D.C.: Institute fro International Economics, 1987)
(2)T. Srinivasan and K. Hamada, "The U.S.-Japan Trade Problem" (Yale University, 1990, mimeographed).
(3)R. Lawrence, "Imports in Japan: Closed Markets or Minds?" Brookings Papers on Economic Activitiy, no.2 (1987).

(訳注1) 2008年のデータでは、対内直接投資(海外企業による直接投資)のGDP比は、日本3.67%、アメリカ18.33%、イギリス46.89%、ドイツ27.43%、フランス37.93%、韓国10.49%。日本の数値は依然として著しく低い。
http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/investmentq_a/html/questions.html

1分でわかる(?)クルーグマンの「復活だぁっ!」モデル

 (時間があるかたはこちらをどうぞ。)

 クルーグマンの「復活だぁっ!」("It's Baaack!) 論文の解説みたいな記事を前に書いていましたが、長々とごちゃごちゃ書いているので(そのうち整理しようと思っています。実は、1回目(1)を修正しています。ラグランジュ方程式を修正しました)。
 ここで、できるだけ簡潔に要約しておきます。
 クルーグマンが8月2日のブログの記事(「モデルとメカニズム」、拙訳はこちら)でヒントを与えてくれましたし。

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13080922



 添え字は 1 が現在を表わしていて、2 は将来を表わしています。流動性の罠におちいっていると想定して、名目利子率は動かないと想定します。またクルーグマンの論文では効用関数は危険回避度一定の効用関数でしたが、ここではより単純化して対数型の効用関数とします(インプリケーションは変わりません)。

 クルーグマンは上記の「モデルとメカニズム」で次のように書いています。

「たしかに流動性の罠の状態でも、デフレが短期的だと予測されれば、デフレによって将来のインフレ期待が高められるので、デフレでも経済は拡張的になりうる。」

 「デフレが短期的であると予測される」ということは、現在の物価水準 Pは一時的に低下し、相対的に将来の物価水準Pは上昇するということです。したがって、P1 が低下し、Pは上昇するので、P/ Pは低下します。
 そうなると上記の方程式が成り立つたつように、左辺の現在の消費 Cが増加します。クルーグマンが言うように、デフレが短期的だと予測されれば、拡張的になるわけです。
  Pは、将来の期間において確定する変数ではなくて、現在から見た将来の物価水準の期待値です(上のクルーグマンの文章では「将来のインフレ期待」に対応する)。

 しかし、クルーグマンが問題にしているのはこういうケースではありません。デフレが長期にわたって続くことです。そうなると、人々は将来も物価水準は低下していくと期待します。したがって、現在の物価水準 Pが低下しているとしても、それに比べて将来の物価水準 Pはさらに低下すると期待されます。つまり、P/ Pが増加することになります。
 その影響により、上記の方程式が成り立つように、このケースの場合は、左辺の Cは低下します。つまり、現在の消費(支出)は削減されることになるのです。

(*均衡実質利子率の議論が抜けているので正確な説明になっていませんが、エッセンスはこういう内容になると思います)。

3分でわかる(?)クルーグマンの「復活だぁっ!」("It's Baaack!) モデル: 誰かさんのせいで1分のおまけ付き

(時間がないかたはこちらをどうぞ。)
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   (1)


 クルーグマンの論文 ("It's Baaack!)  で中心になっている方程式(一般にオイラー方程式と呼ばれています)は、単純化して表わせば上記のようになります(クルーグマンの論文では効用関数は危険回避度一定の効用関数でしたが、ここではより単純化して対数型の効用関数としています。また、以下の議論では割引因子Dの影響は考慮していません)。
 添え字は 1 が現在を表わしていて、2 は将来を表わしています。

  この関係から、将来の消費 Cが現在の消費 Cに比べて増加するなら、実質利子率(右辺の r )は大きくなり、将来の消費 Cが現在の消費 Cに比べて減少するなら、実質利子率 r は低下する、ということがわかります(将来の消費は、現在まだ確定していないので人々が抱く期待値になります。つまり、人々が将来の消費は増加すると「期待したなら」、実質利子率が上がるのです)。つまり、実質利子率は、現在の消費水準と人々が期待する将来の消費水準との比で決まってくる、ということです。

 この実質利子率は、均衡実質利子率あるいは自然実質利子率と呼ばれます。これは、現在の消費と、人々が期待する将来の消費との関係から決まってくる架空の実質利子率です(架空と言うのは、経済指標として明示的に示すことができないものだからです)。

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 いっぽう現実の世界では、債券市場の関係から(つまり債権と貨幣との関係から)名目利子率 i が決まります。そして、現在の物価水準 Pと、人々が期待する将来の物価水準 Pとの関係から実質利子率が決まります。この関係はフィッシャー方程式と呼ばれています。
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   (2)

 (1)式の均衡実質利子率と(2)式の実質利子率は、通常、だいたい一致します。
 しかし、名目利子率 i には 0 より低くならないという限界があります。そのため、実質利子率 r が低下していくと、あるところから(例えばマイナスになると)、1+r と(1+i)P/ Pが一致しなくなる状況が生じることになります。

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 (1)式の均衡実質利子率と、(2)式の実質利子率を対応させると以下のようになります。

 ①      ②               ③
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 そこで、バブル崩壊のような需要に対するショックを考えてみます。あるいは人口減少が予想されたと想定してみます。そして人々が将来の経済は縮小すると期待した、と想定します。
 まず期待される将来の消費 Cが低下し、①の C/Cが低下します。次にその影響で、②の均衡実質利子率が低下します。それに対応して、③の実質利子率と名目利子率が低下します。
 しかし、i = 0 となってしまうと、③の実質利子率は動かなくなってしまいます。
 ただしP/Pの関係が変化すれば、つまりP/Pが低下するなら③の実質利子率は下がることになります。だから経済は③の実質利子率を下げようと、現在の物価P を下げます(デフレになります)。しかし、現在の物価が低下していると、将来の物価 Pも同様に低下すると期待されます。そうなると P/Pの大きさは変化しません(この部分は、こちらの記事のほうがわかりやすいと思います)。したがって③の実質利子率も変化しません。

 そうなると②の均衡実質利子率と③の実質利子率との間にギャップができてしまうのです(均衡実質利子率<実質利子率 となる)。クルーグマンが問題にしているのはこれです。
 そして、③の実質利子率が高くなっていれば、現在の消費を押し下げる働きをします(実質利子率が高いということは、消費をより多く現在から将来に回すことを意味するからです。(1)式の関係)。本来(1)式の関係から将来の消費が減少すると期待されているのに、現在の消費を減らして将来の消費に回しているのです。そのために慢性的な需要不足の状態が続くのです。

 問題は、②の均衡実質利子率と ③の実質利子率のギャップにあります。②<③ の関係になっているので、③の実質利子率を下げないといけないのです。
 そのためには、人々が将来の物価水準 Pが上がると期待することが重要であり、それを達成するための金融政策が重要になる、というのがクルーグマンの結論です。
 Pが上がり③の実質利子率が下がれば、現在の消費 Cを増加させるように働きます。

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 おまけ
 日銀の黒田総裁は、8月24日のカンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウムで、現在日銀が行っている金融政策は、実質金利を下げるだけでなく、自然利子率(=均衡実質利子率)を上げる効果ももっていると述べています。
言うまでもありませんが、金融政策の効果は、実質金利と自然利子率の差によって決まります。したがって、金融緩和効果を生じさせるためには、自然利子率を所与として実質金利を引き下げるという方法と、実質金利を所与として自然利子率を引き上げるという方法の2つが考えられます。

日本銀行の量的・質的金融緩和は、実質金利の引き下げと自然利子率の上昇という2つの側面から、効果を発揮しつつあるものと考えられます。
(中略)
そもそも自然利子率とは、企業が実物投資を行うことで得られる予想リターンに相当します。日本銀行の量的・質的金融緩和は、人々の間に定着した「デフレマインド」を打ち破り、日本経済が本来持っているダイナミズムを取り戻そうとするものです。その政策的帰結として、日本の潜在成長力が回復すれば、投資機会が増え、自然利子率の上昇という形になって現れてくると考えられます。

 ここで実質金利を下げる効果と言われているものは、上記の(2)式で言えば、将来の物価水準 Pを上げることで ③ 実質金利を下げることです(これが現在日銀が行っている金融緩和が目指していること、と通常想定されているもの)。
 いっぽう、「自然利子率を上げる」というのは、①の将来の消費水準 Cの期待を高めることにより、②の自然利子率(均衡実質利子率)を上げることを指しています。
(ただし、黒田総裁が指摘しているように、こちらが先に来ることはないでしょう。つまり、将来の物価水準が上がると期待されることで、現在の需要がまず増え、次に将来の消費(支出)が増加すると期待される、という順番になると思います)。



クルーグマン、「モデルとメカニズム」

http://krugman.blogs.nytimes.com/2013/08/02/models-and-mechanisms-wonkish/
"Models and Mechanisms (Wonkish)"

 クルーグマンの8月2日のブログです。7月15日のブログ(拙訳はこちら)と関連しています。

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モデルとメカニズム(専門的) "Models and Mechanisms (Wonkish)"

 確かに交通というのは不思議だ――そう、ちょうどトム・バンダビルトを読んだところなんだ。先週は真昼間にコネチカット横切ろうとして渋滞と格闘していた。今日は金曜日の午後遅くだというのにほとんど遅れず、すんなりマンハッタンに入ることができた。それで今日は少し時間ができた。

 そこで今日は少しわがままになって、マクロ経済学の理論について書いてみたい。

 サイモン レン-ルイスが、ある部分は日本に関する、ある部分は利子率のゼロ下限に関する、またある部分は、僕は見逃していたんだけど、クリス・ディロウによる、経済分析のモデルとは矛盾する重要なメカニズムについての指摘に関する記事を書いている。

 いったいそりゃ何だって? 実際、ディロウが指摘しているほどはっきりと区別することはできないと思うけど、彼が言っていることは理解できる。すべての経済学のモデルで最も広く使われているモデルを例にとってみよう。つまり、供給と需要だ。確かに、これはモデルであって、自然の法則でも謎めいた真実でもない。僕らが供給と需要について語るときには、僕らはだいたい、価格は上昇したり低下したりして、人々が売りたいと思っている量と買いたいと思っている量とを均衡させる、という考えについて語っている。僕らはさらにこれを「価格のメカニズム」"price mechanism" と呼んでいる。モデルとしての供給と需要はさらに、価格はこの均衡を達成するために上昇したり低下したりする、という仮定につながっていく――しかし、この仮定は価格のメカニズム自体と同じではない。供給と需要が均衡するためには、価格のメカニズムを通して作用しなければならない、ということを忘れているエコノミストは目も当てられない。

 そこで僕は、経済学で言われているメカニズムはそれ自体がモデルだ――つまり、人々がどのように行動するかを単純に表現したものだ、と主張したい。こういう定義でお手上げだと思わないでほしい。ディロウとレン-ルイスは2人とも、経済学の知識の重要な部分は、実際の経済で作用していると思われるメカニズムについて考えることだ、と指摘している点で正しい。一方では、これらのメカニズムは、ある特定のモデルだけに特有なのではないかもしれないし、他方では、どんなモデルでもその中に説得力のあるメカニズムを持っていなければならない、そうでないとそれは役に立たない、ということである。

 このような議論はマクロ経済学の問題に関連してくる。

 Econ101の授業の教科書(僕の教科書も含めて)では、長期と短期を区別するときに、次のような図を提示するのが標準的になっている。

13080301












   図1


 典型的な短期/長期の図である。ここでADは総需要曲線である(これについてはもう少し後で説明する)。SRASは短期の総供給曲線である。これは、価格と(あるいは)賃金のある部分が粘着的であるために右上がりになると想定できる。LRASは長期の総供給曲線である。これは、長期においては価格粘着性がなくなっていると想定できるので垂直になっている。

 総需要が何らかの理由――例えば世界的な金融危機――で低下したと想定しよう。次に起こるとこととして教科書が教えることは、赤い矢印で示されている。最初に経済は収縮し、それから時間がたつと、物価が低下するにつれて、経済は拡張する。そしてこれが、需要側の議論はすべて価格粘着性の想定に結びついている、という考えにつながり、そして今度は、レン-ルイスが指摘しているように、粘着的な価格が成立するために必要になる完全な合理性からの逸脱という考えを消化できないエコノミストが、リアルビジネスサイクル理論を信奉するようになる。

 しかし、再びレン-ルイスが指摘しているように、「粘着的な価格なんていうものは信用できないし、少なくとも短期を除いて、そんなことは起こらない。だから経済はほとんどいつでも完全雇用の付近にいると思う」と言う前に、伸縮的な価格が経済を完全雇用に回復させるという場合、それがどのよのうなメカニズムで起こるのかを考えてみるべきである。上に描いた図で言えば、答えはAD曲線上を(訳注 AS曲線[SRAS]が)下にシフトするからだ(訳注1)。しかし、どうしてAD曲線は右下がりになっているのだろうか? 妥当だと思われる答えは、利子率のためだ、というものになる。名目貨幣供給が固定されていて、実質貨幣供給が増加すれば、利子率を下げる。あるいは、中央銀行による安定化政策を想定してもいいだろう。

 しかし、もちろんこの議論のポイントは、僕らが現在、利子率のゼロ下限に直面しているということだ。AS-ADに関しては、これはその図が次のようになることを意味する。

13080302












   図2


 ゼロ下限がある場合のAS-ADである。物価の低下は利子率を下げることができない(訳注 ゼロ下限に直面しているので)。だからAD曲線が右下がりになると想定するのは難しい(以下の警告を見ること)。そして実際、物価の低下は、債務の実質的負担を悪化させるので(訳注2)、AD曲線は「まちがった」方向に(訳注 左側に)下がっている可能性が高い。この場合、価格の伸縮性は経済を完全雇用に回復させない。実際、価格が伸縮的になれば、それだけ経済の収縮が悪化する(訳注3)。

 そして、ゼロ下限というのは仮説ではない――それは現実の世界で実際に起こっている。だから、「粘着的な価格なんて信用しない。だから需要ショックなんていうものも信用しない」と主張するのは意味がなくなる。じゃあ、伸縮的な価格が完全雇用を回復させるとあなたが想定する場合、それはどのようなメカニズムで起こるのか?

 現実的には、価格そしてとりわけ賃金は粘着的である――そのために、どんどん進行するデフレが起こっていないのである。粘着性が失業率をどんどん上昇させるものでないならば、粘着性とは、僕らが現実に見ている現象を理解するためにモデルに導入しなければならないものにすぎない。

 しかし、どうも多くのエコノミストはここで混乱しているようである。とくに若いエコノミストたちは、ルーカスとその仲間たち(Lucas and co) が、価格粘着性という概念に「ミクロ的基礎」"microfoundation" がないと言って激しく批判したことを何となく意識している。だから彼らは、需要側に問題は起こらない、ということが「証明済み」"proved" だと考えてしまう。そのために彼らは、そういう議論が流動性の罠に直面すると無意味になる、ということが理解できない。

 そこで前にちょっと言った警告について。たしかに流動性の罠の状態でも、デフレが短期的だと予測されれば、デフレによって将来のインフレ期待が高められるので、デフレでも経済は拡張的になりうる。しかし、リアルビジネスサイクルの理論家でこれを彼らの議論の中心に据える人がいるなら、僕は僕のミクロ的基礎を食ってやる(訳注4)。

 元の議論に戻ろう。モデルとメカニズムの区別が非常にはっきりしたものかどうか、と議論してもいいだろう。それについては問題ない。しかも、いつでも、いや特に現在の状況では、もし誰かエコノミストが経済についてある仮定を言い出したら、「じゃあ、正確にはそれはどのように作用すると想定できるんですか?」と聞いてみるのがいいだろう。答が返ってくることはめったにないから、あなたはびっくりするかもしれない。


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訳注1)
you slide down the AD curve.
「AD曲線を下にシフトさせる」という意味ではないと思います・・・。本文中の注に書いたように、AS曲線がAD曲線上を下にシフトする、とならなければなりません(価格や賃金が下がるということは、AS曲線が下に移動することです)。図1からわかるように、AD曲線が下にシフトしていっても、完全雇用レベル(LRAS上)に到達できません。

訳注2)
「実質的な債務を増加させる。」 実質的な債務が増加する=実質利子率が増加する、ことになります。

訳注3)
「この場合、価格の伸縮性は経済を完全雇用に回復させない。実際、価格が伸縮的になれば、それだけ経済の収縮が悪化する。」
この部分は上の図2に描かれていません。それを付け加えると、以下のようになります。

13080303












   図3



 価格が伸縮的になれば、AS曲線(短期のAS曲線SRAS)が下にシフトしやすくなります。図2の状況で、SRASが下にシフトすると(上の図のようにSRASにシフトすると)、経済は左に動き、Real GDP は低下し、完全雇用から遠ざかります。

訳注4) 
if there are any real business cycle theorists using this as the core of their argument,
I’ll eat my microfoundations.

I'll eat my hat [hands, boots...] if ... という表現が元になっています。「もし・・・だったら、自分の帽子(手)を食ってやる」 = 「そういうことはありえない」 という意味です。

プロフィール

沢ひかる

貧乏人。

経済学「部」とは無縁です。

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