空(クウ)の告白

1型糖尿病から末期慢性腎不全になり、人工透析を受けなきゃ生きられなくなったあたし。かかりつけの病院で受けた実態を書き残したいと思い、意を決して始めることにしました。

2011年02月

人間関係の複雑さと、ドロドロした関わりが私には重荷になってきていた。
仕事だったら割り切れるが、休憩時間だけは仕事とは別じゃないか、と思っていたからよけい私には精神的に負担になってきていた。

その頃百貨店の社員に私の年齢と同じ位の女子がいた。
休憩の時いつも話しの輪に入れてもらえず、端っこにいて黙っていた。年も同じという事もあって、私は他に一緒に休憩を取るメンバーよりは、その子と話す方が気楽だった。
彼女はおとなしい性格の子で、見た目も悪くはないがド派手な感じでもなく、地味な感じの子だった。
だが、日によって休憩のメンバーは変わるのだが、彼女と一緒の日が多く、見ていると何故かみんなは彼女を無視する、シカトしているのが段々見えてきたのだ。

「なんでだろう…?」という不思議な疑問が私の中で出てきていた。

そんな頃だった。彼女がいないメンバーでの休憩の時だった。食堂で食事を済ませると別の階にある喫茶室のような部屋に移動して、そこでタバコを喫煙したり、くだらない話しに付き合う、というのが慣例だったので、その日もそうしていた。
ある有名なアパレル・メーカーから来ていたCさんがおもむろに彼女の事を話題にし始めたのだ。

Cさん「あの子さぁ…、はっきり言ってドン臭いんだよね。今日は一緒に休憩じゃなくて良かったよ」
一同、大爆笑。
私、笑えずただ、何をこのオッサン言い出してるの?だった。
他にも百貨店のベテランに近い当時30歳近い女性社員も、一緒にいた。
D女性社員「そうなのよ、全くあの子、やること遅いし、見ててイライラするだけなのよ」
一同、爆笑。
だったらさ、普通さ本人に仕事をもう少し早くやろうね、とか、先輩としてのアドバイスすればいいんじゃないの?なにも本人がいないとこで、陰口叩く事じゃないじゃん。怖い。
と、私は段々、その百貨店で働く事が怖くなってきてしまっていた。

実際、売り場に出て彼女への対応を遠目で見ていると、あきらかに「いじめ」に近い事をいい年した大人が平気でやっているのが、あからさまに見えてきたのだった。
酷い。彼女性格悪くないよ。ただ、確かに仕事は遅いかもしれないけど、それは百貨店の教育の問題、教え方の問題、責任なんじゃないの?と思った。
そんな事を言ったら、大変な事になるから、私はよそから派遣で来てるだけだから…、と彼女への辛辣な対応をただ、見ているしか出来なかった。

それと共に、私は高校時代にいじめに遭った経験があったので、絶対こんなのがいる地元で就職なんてするものか、と上京を選んだ過去がある。
2年近く仲良くしていたグループから、突然翌日シカトが始まった。無視され続けた。
理由は簡単だ。グループのリーダー格の母親と私の母親が同じ職場だった。リーダー格の家庭は離婚していて母子家庭だった。私の母親が「スーパーに行ったら醤油が安かったから、一緒に買ってきたから」とか、そんなおせっかいでリーダー格の母親によく物を渡していた。
うちも経済的に人さまにおごるような事は出来なかったのだが、母親のおせっかいが飛び火したのか、リーダー格は変なプライドの高さがあったので(幼い頃顔に火傷をおい、その傷跡が残っているというコンプレックスもあった)、積もり積もった気持ちが爆発炎上したのかな、と今思えば、それしか思いつかない。
2年もの無視ほどキツイものは無かった。加えて女子だけのクラスだったので、仲良しグループ、まぁ派閥みたいなのもあって、私は他のクラスメートとは話したりしていたが、普段の仲間とは違うので、自然と孤立してしまっていた。学校も行くのがバカバカしく思えてきて、単位を落とさないように、あと商業高校だったので、頻繁に資格検定があった。この検定を落とさないように、それだけを計算して後はバイトばかりしていた。コンビニのバイトだった。

そんな忘れていた事が、百貨店の彼女を見ていて段々蘇って来てしまったのだった。
ある日、私は思い切って喫煙可能な休憩室に移った時、彼女はグループの輪にも入れてもらえなくなっていたので、窓際のテーブル席にひとりでぽつんと座っていた。
くだらない話しで盛り上がっている最中を狙って、私は彼女の席に移動した。私が移動してもくだらない連中は気づかないようで、まだ、ゲラゲラ笑っていた。

彼女に私は聞いてみた。
「なんで、あんな露骨な事するんだろうね。酷い人達だと思わない?よく我慢してるね」
と。
すると彼女は、ちょっと不思議な顔をして私を見てこう言った。
「しかたないですよ。私が仕事遅いのがいけないんだし。私でも、この仕事が好きだから」と。
そう、彼女は百貨店の仕事が好きだから、頑張ろうってドジ踏んでも、バカにされても我慢して働いていたのだった。
「気にしないほうがいいよ…」くらいしか私は言えなかった。
「大丈夫ですよ。気にしてませんから」彼女は笑顔で応えたが、顔は疲れた顔つきだった。

そんな事が半年近く続いた頃だったろうか。
食欲が無くなってきていた事に気づいたのは。
仕事をしている時は嫌でも昼はグループで食事を摂らなければならない。仕事の日はお昼を摂っても、朝は食べなかったので、最初の頃はお昼はすごくお腹が空いて、よく食べてしまっていた。でも、この頃から、お昼の定食でも半分も食べればいいや…という感じで、ほとんど残すようになってしまった。
まぁ、私が残しても他の人は、さして気にも止めずバクバクと自分の食事をたいらげていた。
夜も帰宅してもいつもは、滑りこみのコンビニだったのに、寄る事もせず「とにかく寝たい。休みたい」という気持ちになっていた。
食べる事を拒否するような状態が半年位続いた。特にお腹も空かない。紛らわすのにはジュースやお茶といった飲料で間に合っていた。ふらふらだった。確かになんだか少し痩せたかな…、という具合だった。
そこまでなら、な~んだダイエットじゃない、で済まされていたと思う。

しかし、その後今度は過食症が襲ってきたのだった。
過食症の恐怖が私に襲いかかってきたのだった。
(またまた…続く)

これから、書き始める内容に関して、この数年悩みに悩んだ。
果たして、書いていいものだろうか…、という葛藤もあった。が、私の余命を考えたら、何もしないで仮に死んだとしたら、私が受けた医療過誤?と思われる事が私と共に、闇に葬られるだけだと思った。
決して許せない事を私はされ、その後遺症に今も苦しんでいる。
誠実に患者のためを思い医療に従事している、医師や看護師なども大勢いる。が、地方の開業医になるとそうでもない。
「適当」なのが多いのが実態だ。
処方する薬に関しての知識すら疑うような医師もいる。
そういう話しをこれから、まとめて私のこの8年のデータと共に告白という形で暴露したいと思った。

もう、私は今年で8年目を迎える難病を患ってしまった。
まさかの『慢性腎不全』による『人工透析』という生き方を選択しなくては、生き延びては行けない人生を歩く事になってしまった。

そもそも、私は21歳の時に始めて転職をした。その職場は横浜にある某有名百貨店へのテナントの派遣、という仕事だった。もう、かれこれ20数年前の話になってしまうが、当時の私は健康だった。それ以前に務めていた会社での定期健康診断でも、血圧が低い位で、尿糖も尿蛋白も陰性、体重はややオーバーしていたが、身長から計算するとさして肥満体型、という程オーバーはしていなかった。
いたって健康そのものだった。

21歳の時に転職した横浜の某有名百貨店への派遣は、メンズ売り場だった。原宿に本社があった会社から派遣、という形で職に就いた。当時は世の中まだ景気のいい時代で、特にデパート関係の給与、その他の条件もずば抜けて良かった。初めて異色の職業にトライしたのだ。それまでの仕事は社会に出て初めて社会人として就職した会社だった。六本木にある老舗の高級レストランのウエイトレスだった。そこもかなり条件はずば抜けて良かったのだが、いつまでも続けるつもりは無く、いつかまだ持っていなかった自分の夢を探そうと思い、転職をしたわけだ。違う世界が見たかった。それが本音だった。

就いて早々まだ仕事に慣れない段階で、有給休暇が10日も有り、社会保険こそ加入はなかったが、給与も時給計算ではあったが、月の手取りで軽く20万は頂けていた。ただ、派遣という事で売り場は売り場らしい場所では無く、ワゴンをひとつかふたつ与えられて、その場所がテリトリーというお粗末な扱い。ブランドな会社では無かったので、百貨店からの扱いもお粗末だった。
朝は9時前にはその「売場」と言われてるテリトリーに行き、全体の有名どころのメーカーさん達と百貨店のメンズ担当の偉い人と朝礼が始まる。その時点で各社の前日の売上が粗利の段階で読まれていく。
売れた商品のタグを取り置いて、そこに書かれてる隠語のような暗号みたいな数字(これが売価の数字)をノートに書き込み、前日の売上を朝礼後に各メーカーにレシートの形で渡され、それと照らし合わせて、前日の売上をノートに書き込み、週1程度で原宿から来る私のメーカーの担当者に渡す、という感じだった。
その時在庫のチェック、それまで在庫が足りない場合は担当者に連絡し、納品してもらうか急ぎでない場合は、担当者が抱えて持って来ていた。

担当者も派遣先の会社も、原宿というのに、アットホームで、社長さんもいい人だった。月に1回ミーティングがあり原宿まで行ってたが、お昼をしながら雑談交えてのミーティング。
ド素人の私にも先輩方は親切だった。担当者もいい人だった。
すごく気を使ってくれたから、最初はそういうものなのかな…と思っていたのだったが、どうやらそれには理由があったからそうしていた、というのが後々わかったのだった。

百貨店ではいくらカジュアルなメンズの売り場でも、一応制服を着用しなくてはならなかった。百貨店からの支給では無く、自分で揃える、という感じだった。ベージュを基本にしたブラウスにスカートという格好で、特に更衣室など与えられなかったので、試着室で着替えていた。百貨店から指定されてるような服を仲々探せなくて、それに近い格好をしていたが、百貨店の社員からはちょっと違うんだけど…みたいな事を言われた。
でも、派手でもなく地味でもなく、ただスカートの生地が指定されたものが探せなかったので、若干浮いていたかもしれない。

そんな感じで、私の第二の社会人生活はスタートした。
それまで、都内に住んでいたが思い切って生まれ故郷の横浜に引っ越したのだった。遠い親戚もいるので、親戚に住む場所を探してもらったが、結局幾つか物件を見たが、落ち着いたのが金沢文庫だった。海の公園の前のワンルームマンションだった。
まだ、海の公園も工事が半分入ってる頃だった。もちろん八景島シーパラダイスなんて無かった頃の話だ。モノレールは建設し始めていただろうか。

仕事は朝9時から閉店する8時まで。閉店しても清算作業など雑務があるので、結局帰り着くのは夜10時を回っていた。
住宅街という事もあって、駅前には大型のスーパーもあったが、コンビニらしいものは無かった。滑りこみで通勤途中の住宅街の中にひっそりとあった7-11(ほんとに夜11時で閉まってしまう7-11だった)で、残り物の弁当とか食料品をとりあえず買って帰宅してた。
そんな日々が数日続き、休みの日は私に代わり、本社の担当者が売り場に出る、というのだった。

段々、仕事が慣れてくると、近くの有名所のアパレルの販売員さん達とも話すようになった。自然の成り行きだ。
お昼の休憩とお茶の休憩は、百貨店側からグループを決められて嫌でもその人達と一緒に行動しなくてはならなかった。
グループの中には百貨店の社員さんもいた。10人位で交代で休憩を取る。その間、売り場を他のメーカーさんが見ててくれる、というのだった。レジは共有だったので、私が直にレジを動かす事は無かった。これは百貨店の社員さんの持ち場だった。

しかし…。
人間関係がなんとまぁ、えげつないというか、ウソっと思う位に衝撃的だった。たった今目の前で、例えばAさんがBさんの事をベタ褒めして舞い上がらせていたのに、Bさんが「ちょっと先に行くね」と目の前から消えたかと思うと、残ってるメンバーはBさんの事をボロクソに叩くのだ。しかも、私のような新入りを前にして、Bさん(女性)の男関係の話し、性格がどうとか、もうここに書けないような事を笑いながら話すのだ。
で、ふいにBさんが戻って来たら、また何もなかったように、持ち上げる。
「えっ…」と二十歳そこそこの私にとっては、いい年した年上の大人が、しかも、名のあるメーカーから来てる人達や百貨店の社員が、「なに…、これは…」と衝撃的だった。
Bさんでさえ、あんなに言われているのだから、新入りの私なんかもっと言われてるんだろうな。と思った。怖くなった。

それまで働いていた会社でも、人間関係はいろいろあった。でも、仲間意識が強く、一緒にがんばっていい仕事、会社の名前に恥じない仕事をしよう、と家族的とまでは言わないが、ある程度腹を割って話すような会社だった。2年ほど働いていたし、初めて社会に出てそういう環境だったので、それが当然だと誤解していたのだった。

今でこそ免疫ができたから、何を他人に言われても、言いたい奴には言わせとけて!という気持ちが出来たが、あの頃の私には衝撃的だった。
反面、私はこんな大人には絶対なってやるもんか!と思うようになった。

しかし、毎度、毎度の休憩時間が日が経つに連れ苦痛でしかなくなってきてしまっていた。この腹黒さはいったいどこから来るのか?不思議だった。加えて百貨店の社員の傲慢さと高飛車な態度。時代は百貨店全盛期だったからだろうが、お客様の前と裏の顔は全然違う、というのに私は精神的に苦痛になってきていた。

その頃から、お昼の休憩でも広い大きな社員食堂があり、安く食べられるのだが(特にラーメン系は絶品だった)、ほとんど食欲がわかなくなって来てしまっていた。どうせならひとりで休憩して、ゆっくり休みたかった。グループで休憩を行動しなくてはならない、というのが苦痛になってきていたのだ。
毎回、毎回、今目の前で仲良く話しをしていた人が、先に行き消えると罵倒が始まる。それを笑い話にしてタバコをふかしている。

段々、あの頃から私の中で異変が起きてきていたのだった。
(続く…)






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