空(クウ)の告白

1型糖尿病から末期慢性腎不全になり、人工透析を受けなきゃ生きられなくなったあたし。かかりつけの病院で受けた実態を書き残したいと思い、意を決して始めることにしました。

2011年03月

『金沢病院』1

もうろうとしながら、何とか病院にたどり着いた。かなり昔から開業しているあの地域では大きな総合病院だった。泥亀(でいき)というちょっと駅前から離れた場所にあったが、歩いて何とか行くことが出来た。
初診だったので、しばらく待たされたが、内科の受診を受けた段階で、「血糖値が高い」という話しになった。すぐに血糖値の精密な測定が始まったが、当時は機材の関係から、せいぜい測定出来ても500までしか測定出来なかった。

主治医は女医の年配のドクターだった。恵比寿から通っているというドクターで、とても親身になって私に対応してくれた。
「今、インシュリンという注射を打ちますから、1時間ほど近くを歩いて、もちろん何も食べないで、喉が乾いたら、お茶か水を飲んで、また戻ってきてください。また、測定して血糖値が下がっていないようなら、糖尿病です。すぐ入院しないと命に関わるとこまで、あなたきてますから。すぐ、ベッドを確保しますので、覚悟しててください。…しかし、よくここまで酷くなって生きていた、というのは不思議な位なんですよ」
という話しだった。

「えっ…。糖尿病?それってじいさん、ばあさんがなる病気じゃないの?」とあの頃の私は思った。
インシュリン注射を打ってもらい、医師の指示に従い1時間程病院の近くを歩いた。もうろうとしていたので、休み休み歩いた。時期的に8月になる頃だったので、暑かった。喉が乾き汗も出たので(元来私は汗っかきだ)、ペットボトルのお茶を自販機で買い、ガードレールに腰掛けながら喉を潤した。
指示通り1時間程過ぎたので、また病院に戻った。

当時は検査器械も今程進歩していなかったので、せいぜい検査で測定出来る数値は血糖値の場合500が上限だった。
インシュリンを打ち、1時間歩いて又、測定しても結局は500以上の数値だった。大体、糖尿病に関して全く無知だった私に取っては500という数字がどの位危険数値なのか、全く把握出来ていなかった。加えて、もう意識がもうろうとしていたので、考える思考能力も薄らいできていた。

金沢病院での主治医になった女医の名前は所澤先生という、当時60代の先生だった。
「すぐに病室の調整をするから、8月3日に入院の準備をして来て下さい。あなた…よくこの状態で生きてたわね」と。
「はぁ…」という位しか、私が返せる言葉は無かった。
そして、帰宅してから、両親が住む千葉県にすぐ連絡をした。
母親は慌てて、とにかく急いでそっちに向かうから、と言った。

もう、かれこれ24年近く前の話になる。
ここから、今現在、人工透析に至る話が始まるのだが、金沢病院での親切な対応、良心的な看護師の方々、適切な治療を今でも私は感謝している。
「まだ、若いんだから、大丈夫、がんばりましょう」と毎日、励ましてくれた看護師さん達、時間を見ては外来から飛んで来てくれていた所澤先生、そして同じ病室の患者さん達の励まし。
病院に入院するのが初めてだった不安ばかりの私には、どんなに心強かったことか。今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

両親に連絡し、母親がやってきたのは翌日だった。
あらかじめ病院から入院に必要な最低限の持参するものを書いたプリントを見ながら、荷造りが始まった。

(次回に続く…)



『有給休暇』

前職でもあったが、結局消化すること無く退職したので、私には初めての有給休暇だった。
しかも、10日もある。遊んでいてもお金が頂ける。すごい!と最初はウキウキだった。何をしようか、友達にも久々に会えるだろう、ええっと…。いろいろな期待が私の気持ちの中に膨らんでいた。

しかし、実際は想像していた事とは違ったものになって行ったのだった。
友達とも休みが合わず、結局のところひとりで有給休暇を過ごす事になった。最初は良かった。久しぶりに寝てだらだらと過ごそう、そう決めて初日は本当にだらだらと過ごしてしまった。
次の日は、チャリで2-30分も飛ばせば野島崎(だったろうか)そんな名前の野鳥公園があったので、平日の人気の無い公園でのんびり日向ぼっこをしたり、そこから見える東京湾を眺めたりしていた。また、もう少しチャリを飛ばせば横須賀にたどり着く事も知り、横須賀までの遠出のサイクリングを満喫した。

三日目あたりになると、目の前にある海の公園に行き、ただ、ぼ~っとしながら人工の海岸を眺めていた。
好きな音楽を聴いたり、読書や映画(当時はまだビデオの時代だった)を見たり。そんな気休めの休暇を過ごしていた。
ただ、その辺り位から、仲々夜になると寝付かれなくなっていた。うとうと寝てると、決まった真夜中の時間に目が覚めてしまい、寝つけないから、何となくで酒を飲んだりしてみたり、だが、よけい寝つけない状態になっていった。
意味の無い不安感が浮かんできて、あの百貨店で何か言われているんじゃないか…、そんな思いが出てき始めていた。

そんな頃、先述した他社に新しく来た新人さんから電話がきた。
Aさん「どうしてるのかと思って。具合悪くしたのかと思って、
代わりに来てる人に連絡先聞いたんだ。大丈夫?」
私の事を心配してくれた。
わたし「具合悪くしたんじゃないんだけど、うちの会社の担当
さんが、有給消化してリフレッシュしてみたらって言
ってくれたから、思い切って休ませて貰ったんだ。
あの環境はかなり私には重すぎるというか…」
Aさん「そうだよね、ここは酷いわ。私なんてターゲットになっ
てるよ。あの社員の子も相変わらずやられてるよ。そう
そう、今度会わない?まだ、休んでる間に。考えといて
よ。それ言いたくて電話したの」
わたし「えっ、ほんと?ありがとう。私もAさんと話し、したい
って思ってたの。うれしいよ」

そんなやり取りが急に入り、私はAさんと横浜西口のダイエー(今もあるか不明だが)の前で待ち合わせを約束して、会う事にした。
丁度、百貨店が休みの水曜日に併せてAさんと会った。
Aさんは相鉄線沿線から来てる、という話しだったように記憶している。サバサバした性格で、裏表が無いんじゃ?と思わせるいい感じの人だった。Aさんもメーカーから派遣で来てる、という話しで、ただ、私の会社のように条件は必ずしもいい、とは言えない感じだった。世間話なんかもあれこれした。
別れ際に突然Aさんが、「やっぱさ、いろいろ考えたんだけどね、私にはあそこは合わない気がしてきたの。今までも派遣で幾つか回ったけど、あんな酷いとこは無かったんだよね。幻滅した。というか、やる気が起きなくなってきちゃってるの。だから、今月にはまた別なとこ探してもらう事、話してあるんだ」

やっぱりね…。いくら気が強そうなAさんでも、しばらくいたらあの連中の酷さに参ってしまうはずだ。当然だ。気に入らないのはとことん潰す。課長とか部長とか、チーフみたいなお偉いさんだって見て見ぬふりだもの。

いつだったか、そのお偉いさんの目の前で初老の男性が堂々と、うん万円もするスーツのセットを万引きした。用意してきた紙袋に堂々と詰め込んでいるのだ。気づいた私を含めて数人が近くにいたお偉いさんに言いに走った。
お偉いさんは警備を呼ぶでもなく、ガサガサと袋に詰め込んでる老人を押さえるでもなく、ただ、見てるだけで、まんまと逃がしてしまったのだ。
あれには唖然とした。いくら紙袋に入れてもあきらかに万引きと、見てて分かる男性だった。
ひとこと「何をしているんですか?」くらい言うのかと思っていたのだが、会計場所も寄らず(あたりまえだ。万引きなんだから)、さっさとエレベーターで消えてしまった。
警備にも連絡しない。なんて怠慢なのだろう、と無責任さに呆れた。

時代が時代、バブルの真っ只中だったのか、たかが数万のスーツくらい、という感覚だったのか、今以て謎だ。

その頃から、私の体調にも異変が急激に起き始めてきた。
もちろん、過食症は収まる気配を見せず、それがしばらく続くと、今度は食べる事への執着心が無くなる。その繰り返しが半年くらい続いただろうか。
妙な体のだるさ、それに加えて体重がやたら減ってきていた。
私は身長は169cmある。今40代だが、私の年ではデカイ方だ。体重は当時62kgほどだった。多少太っていたかもしれないが、厳密に計算で肥満か否か割りだすと、標準の範囲に入っていた。

それが、なんと半年の異変で体重が46kgまで落ち込んでいた。元々体重計を持っていなかったので、なんか痩せた?くらいにしか思っていなかった。それまで11号か服によっては13号だったのが、9号の服を来ても余るのだった。
真冬に電車に乗っても、ひと駅すら立っていられなくなった。変な動悸と生汗が出て、駅を降りてはベンチで休み、また電車に乗る、というのを繰り返していた。

顔色も青ざめて、目の周りにある動脈だろうか、血管がいくら化粧をしても浮き出て見えてきた。ふらつきも異常だった。
これは何かおかしい。もちろん、その頃から尿にも異常が現れてきていた。変な甘いような匂いと、ビールの泡のような残留物が出るようになってきていた。

そして、やたら喉が乾く。ただ、乾くのでは無い。唾液自体が無くなる、と表現したらいいか。10分起きに水分を含まないと、喉に舌が巻きつくような苦しさと、吐き気が襲ってきたのだ。

休暇も終わりになる頃、もう私の体は限界にきていた。
私は、休暇が明けても、あの百貨店には行くのを拒んだ。百貨店からは、無責任だとか社員から連日、いや、1時間事に電話が鳴りっ放しだった。まるで借金取りの催促の電話か、嫌がらせの電話なみの攻撃だった。

私物は、制服として購入した服しか置いてこなかったので、私は会社に辞める話しをした。止められたが、もう限界だと話した。出社拒否反応が出てしまった。

そこまで異常になっても、私は元来病院というのが苦手だったので、病院にも行かず、だるい体をただ横たえていた。
有給休暇が終わる頃、悪夢が私の気持ちに蘇ってきた。
行きたくない。その一心だった。そんなことするのは社会人としてのルール違反だと、あえて承知で、私は連絡も百貨店にせず、派遣の会社にも連絡せず、バックレる事を選んだ。
連日、百貨店からはしつこい電話が鳴りっ放しだった。まるで闇金の借金取りのようだった。
電話の線を引っこ抜いて、次のまともな仕事先を探そうと決めた。
そこそこの手取りで生活に困らない程度であれば、いいや。だった。
あの頃は、履いて棄てる程仕事が溢れていた時代だった。

が、しかし、あの頃から体に異変を感じながら、まだ大丈夫、だと思い込み、病院に行かなかった事があとあと、取り返しのつかない事態になるとは思いもよらなかった。
書いたように私は病院が嫌いだったからだ。

バックれて転職先も見つけた。あるメーカーのレディースのブティックだった。横浜駅のダイヤモンド地下街にその店はあった。
人間関係も従業員も思ってたより、いい人ばかりだった。店長さんも気さくな人柄で、楽しかった。

が…、そこで働き始めて数日した頃から、異常な喉の乾きに襲われ、開店前に試着室でポカリと栄養ドリンクを飲んでいたら、ものすごく気分が悪くなり、とても普通に仕事が出来る状態ではなくなったので(要は倒れてしまった)、店長さんがすぐ帰宅して病院に行って!という事だったので、私は多少残ってる与力を使い、金沢文庫までなんとかたどり着き、地元の総合病院、金沢病院に行くことにしたのだった。

そこで、想像だにしなかった病名を告げられ、私の人生が変わってしまったのだった。第一期の変革の時期、とでもいうのか。

(まだ、まだ、始めに、は続きます)


過食症の恐怖は経験した人にしか分からないだろう。

実際、病院に行って「あなたは過食症ですよ」と診断されたわけではない。
自己分析、調査で「これは、あきらかに過食症だ…」と判断したにすぎない。
その当時、まだ一般的に「心療内科」は普及していなくて、私が当時住んでいた金沢文庫にある大きな病院でも、心療内科は無かった。いくら横浜といえど、都心に数件あるか無いか、の時代で今ならネットを使えば簡単に、どこにある、というのを調べられる時代だが、あの当時はネットさえ一般人には普及していなかったので、調べる術が無かった。
人づてに調べるか、本で調べるか、かかりつけ医に相談するか(と言っても医師によっては相談を拒む医師もいる)、諦めるか。それくらいしか選択肢は無かった。

食欲、つまりはお腹が空いていないのに、常に食べ物がそばに無いと不安でしょうがなくなってきた。
これが、突然前触れもなくやってくる。
食料を買わないと、不安で不安で怖くなるのだ。
少しは自炊もしていたので、休みには駅前の大型スーパーに行っては買い物をしていた。
そんなに沢山買い置きをしなかったので、ほとんどはコンビニの弁当か外食というパターンだった。
過食症の症状が出始めてきた時、コンビニに行くと信じられない程の買い方をした。
弁当は4,5個、1L紙パックのジュース、コーヒー牛乳、ポテチなどのお菓子をカゴに入りきらない位詰め込む。
一回に買う金額が5、6千円。
それを帰宅して目の前に広げると、妙な安心感に襲われる。

そして、その食品を何かに取り憑かれたように一気に食べまくる。
涙を流しながら、泣きながら食べる。そして、一気に嘔吐する。
そこで、私は安心する。
実に奇妙な現象だった。

これが、週に数回から段々とエスカレートしていき、買う金額も1万円近くまでになった事もあった。
でも、仕事は休めないので、何食わぬ顔をして働いていたが、もう、私にとっては百貨店での仕事が苦痛でしかなくなっていた。
行くたびに、いじめを目の当たりににし、それに対して何も出来ない自分にも嫌気がさしていた。

そんな事が半年近く続いた頃だったろうか。
別のメーカーにやはり派遣で新人さんが来ることになった。彼女も私と同じ年だった。彼女は少し気の強いところがあった。ので、いやがらせをされた時に、なにやら反撃したようで、すぐに噂で広がった。彼女をシカトする、という話しが始まった。ターゲットをいじめていた社員から、派遣の新人に変えたというわけだ。
私もその頃から、あまり、あの馬鹿としか言えない先輩方とはあまり話しをしなくなった。距離を置くようにした。めんどくさくなったのが事実だ。

ある日私は、私の会社の担当者に相談した事があった。
こんなに酷いの初めてなんですが…。と。担当者は一瞬顔色を変えて「やっぱり分かっちゃいましたか…」と済まなそうに言い出した。
私の前任者もこの百貨店の人間関係についていけず、辞めたという話しをした。
「できるだけのサポートはしますから、辞めないでください。有給残ってるから消化しませんか?」
そう言ってくれた。

「そうだよな…、有給があったんだよね…」と思った。
仕事は百貨店の開店する1時間前には入店し、閉店後もなんだかんだと、結局8時に百貨店は閉店しても自分が帰るのはやはり9時を回っていた。横浜駅から京急で金沢文庫まで帰宅するのにも時間はかかっていたので、いつも10時を回っての帰宅だった。
休みは週に2日はあったが、仲々友達と休みが合わず、結局疎遠状態になっていた。
しばらく休んで気分を変えなくちゃダメだ。
こんな環境にはまってしまっては。
そう思って、会社の担当者が言ってくれた『有給』を消化する事にした。

(続く…)


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