そよ風

マスコミの偏向報道、教育の場での自虐史観授業等に日本の危機を感じています。
先人達が命をかけて築きあげてきたこの素晴らしい国、日本を失わないため、私達は行動します。
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東京慰霊協会ってどんなとこ?

東京慰霊協会ってどんなとこ
(20170226)

CIMG2904

さて、東京都慰霊協会のお話です。
初めてこの名前を知ったのは東京横網町公園の「関東大震災朝鮮人
慰霊碑」のことを調べ始めてからです。
昨年8月28日(日)両国駅前でこの捏造碑についての街宣とビラまきを
した後、皆で横網町公園へ行ったとき、数日後に「慰霊祭」を控えた
公園には「東京都慰霊協会」と記した何張りものテントが立っていました。
気合を感じましたね。
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/cat_50051234.html?p=13

その足で入った「震災復興記念館」で私たちは驚くべき「関東大震災」の
展示パネルを発見しました。

image1
image2

日本人としてはとても承服できない日本語の展示パネルの下にあった
のは、さらに許せない「日本を野蛮な国」と貶める英語のパネルでした。
退館する私たちと入れ違いに入っていった若い外国人の男性。
とても放置することはできないと思いました。

翻訳とはとても言えない、原文を無視した創作・捏造のパネル。
私たちは東京都に申し入れ、話し合いの結果、英語のパネル「のみ」
変更になりました。
そのパネル製作などを含め公園を維持管理しているのが、東京都から
管理委託された公益財団法人「東京慰霊協会」でした。

http://tokyoireikyoukai.or.jp/kyoukai/

この英語パネルはそれまで2年間も展示されていたのです。
そのことについて、私は「東京慰霊協会」に電話してみました。

http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/cat_50051234.html?p=6

すごいですね。「自分たちは、業務の一環として翻訳会社に翻訳を依頼し、
その翻訳をパネルして展示した。そしてその内容について東京都から
指導があったので英文を変更して展示し直した。それだけのことだ」と
言い放ち、自分たちの運営費は「都民の税金」ではなく東京都から渡され
た時点で「単なる経費」に過ぎなくなると言いましたからね。

この東京都慰霊協会こそ、「たんけん『横網町公園』」を作成発行して
いるところです。「都立横網町公園(事業計画書 概要版)」には「東京オリン
ピック・パラリンピックのさらに先、関東大震災100周年を見据えた取組み
を展開します」と書かれています。「やる気満々」です。

要注意!

この「東京慰霊協会」の動きには注目しておく必要がありそうです。
私たち都民の税金でそんな勝手は許されませんから。


なお、3月2日(木)、都議会本会議一般質問の時間に、古賀俊昭先生が
「都立公園管理」についてということで質問されます。

http://www.gikai.metro.tokyo.jp/outline/audience.html

傍聴券は先着順です。

関東大震災の真実を伝える会   如月 圭

韓国大崩壊!?その時日本は



韓国大崩壊!?その時日本は

パネリスト:
 盪垣宜(コラムニスト)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・東京基督教大学教授)
 室谷克実(評論家)
 用田和仁(元陸上自衛隊西部方面総監 陸将)
 矢野一樹(元海上自衛隊潜水艦隊司令官 海将)
 渡邉哲也(経済評論家)
司会:水島総

出るわ出るわ捏造の証拠・群馬朝鮮人碑の小冊子

国鉄高崎操車場建設工事

    
■「追悼碑を守る会」が発行した小冊子の内容を要約すると・・・
(要約) 赤字:チェックポイント)
 北関東の鉄道の要衝と言われる高崎で1941年から操車場拡張工事が始まりました。 この工事にも1942年2月、100人の強制連行朝鮮人が送られました。 工事を請け負ったのはここでも間組でした。 高崎市双葉町、下之城町、倉賀野町の三カ所に今も残る地下通路、 佐野小学校東の上下線地下通路等もすべてツルハシ、スコップだけによる「勤労隊」(勤労報国隊の略称)という朝鮮人労働者によってつくられたものです。
<<< 検証してみた >>>

 間組が高崎操車場の工事を請け負ったのは昭和20年12月からだった

 「追悼碑を守る会」の小冊子によると、「高崎操車場建設工事」においても、「岩本発電所導水トンネルエ事」や「中島飛行機後閑地下エ場」を施工した間組が工事を請け負っていたので、ここでも朝鮮人労働者が働いていたかのように表現されています。しかし 『間組百年史』によれば、同社がここでの工事を請け負ったのは終戦後の昭和20年12月に受注した「高崎操車場機関車車庫増築工事」が最初で、 その後も昭和24年まで高崎操車場内の受注工事は続きました。したがって小冊子に書かれている1942年(昭和17年)の時点では、間組は高崎操車場内の工事を請け負っていません。 「強制連行」されたとされる100名の朝鮮人労働者が行っていた「高崎操車場」の工事とは一体いつのお話なのでしょうか・・・。

≪ 間組百年史. 1945-1989 88ページ 高崎操車場内の電気機関車庫ほか建設工事≫
3)高崎操車場内の電気機関車庫ほか建設工事
 昭和20年12月、当社は運輸省東京鉄道局高崎管理部から「高崎操車場機関車車庫増築工事」を特命受注し、 ついで翌21年3月「第二高崎電気機関車車庫新設工事」を受注して、高崎線の倉賀野−高崎間に横たわる広大な操車場の一角で、 機関車庫の建築工事に着手した。東京鉄道局高崎管理部から受注した高崎操車場内の工事の着工時と請負金額は別表のとおりである。 すべて特命工事であった。
 高崎操車場内の建築工事は、運輸省が戦後開始した鉄道施設の復旧と再建のなかでも、最も早く着手した上越線の電化に伴う関連施設の新設であり、 同時に高崎操車場の一部に既成機関区と隣接する「第二機関区」を新設する工事であった。
 高崎操車場は、戦時下の陸運強化策によって鉄道貨物の輸送量が急増したため、従来の大宮、長岡両操車場のもつ貨車の仕分け能力ではさばききれず、 それを補うため急ぎ新設されたものである。昭和16年に着工され、突貫工事の末に18年10月に「緊急開業」した。 そのため、戦後、路線要領・操車能力はたちまち限界に達し仕分け線の増設や設備増強の必要にせまられた。 加えて、上越線の電化工事も着手されたため、施設の大幅な改良が実施されることとなったのである。

  高崎操車場内の受注工事(昭和20〜24年)
 工事名 受注年月(昭和) 受注金額 
 機関車庫増築 20.12 82万9000円 
 第2高崎電気機関車庫新設 21.3 74万6000円 
 同上その12 21.8 132万8000円 
 官舎新築 21.8 140万7000円 
 高崎配電所新築 22.3 58万9000円 
 機関区事務室新築 22.3 190万1000円 
 電気機関車配電車庫新設 22.11 117万3000円 
 高崎工事区倉庫修繕 23.2 45万8000円 
 高崎操車場信号分区長詰所新築 24.2 164万2000円 
※「間組百年史. 1889-1945」には高崎操車場内の工事を請け負ったことを示す箇所はありませんでした。

------------------------------◆ 陸軍火薬工廠地下工場(沼田市)
    
■「追悼碑を守る会」が発行した小冊子の内容を要約すると・・・
(要約) 赤字:チェックポイント)
 この地下工場建設にも多くの朝鮮人が働いていたと思われます。しかし、その状況を示す資料は見つかっていません。 岩本発電所導水トンネル工事や中島飛行機後閑地下工場の建設と同じ間組が請け負っていたので、同じ朝鮮人が使われたということは十分に考えられます。
<<< 検証してみた >>>

 もう論外です・・・。


 この地下工場建設について、地元の『沼田市史』、『川田村誌』および『薄根村誌』、そして工事を請け負った間組の『間組百年史』には朝鮮人労働者が働いていたことを示す箇所はありませんでした。

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以上、頑張れ日本行動員会群馬支部さんのブログから
お借りしました。詳しくは下記をご覧ください。
http://nippon.daa.jp/gunma/kayakukojo.html

朝鮮人碑を建てる会の小冊子は嘘だらけ!


碑を建てる会は1999年2月に「『消し去られた歴史』をたどる 
群馬県内の朝鮮人強制連行」を刊行し、碑の建立に役立てました。
その小冊子を調べてみると、出るわ出るわ捏造の数々!
こんな嘘デタラメ刊行物によってつくられた朝鮮人碑を
日本の子供達に残して良いのでしょうか?。


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