アメリカ人は真実を知るべき!

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トランプ大統領にハグを迫った元慰安婦・李容洙さん、
反THAADデモに参加していた!

さすが、マイク慣れした李さん、名調子。
 ミグッグ・ニョンノム미국년놈(アメリカの野郎)!
と言っています。
(但馬 オサム氏提供)

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日本人がサンフランシスコ議会で元慰安婦・李容洙証言を否定した
ところアメリカ市議が日本人証言者に対して
「恥を知れ!」と何度も発言。
アメリカ人こそ恥を知れ!
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ニューヨークの日本国連代表部
「日本政府が日本軍慰安婦を公式に認定して謝罪せよ」
請願書を提出
 

証言

1928年12月生まれの連行時の年齢

連行された年

連行された年齢

1993.7 破られた沈黙

1944年夏

16歳

満15歳、数え17歳
※不一致

1993.10 証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち

1944年秋

満16歳

満15歳、数え17歳
※不一致

1996.8 私たちと戦争責任1943年10月14歳満14歳、数え16歳
1998.8 英文中国日報1944年数え年16歳満15歳、数え17歳
※不一致
2005.4 証言集会(同志社)1944年韓国の年齢で16歳満15歳、数え17歳
※不一致
2007.2 JANJAN記載なし15歳******
2007.3 フランス ルモドン紙1944年秋14歳満15歳、数え17歳
※不一致
2007.8 戦争と性
(※西暦の記載は無いが、1946年春に帰郷して母が「私の娘は3年前に死んだ」と言っているので、おそらく1943年)
15歳******
【資料等】
年月資料名等著者出版社
内 容 等
1993.7写真記録 破られた沈黙 −アジアの「従軍慰安婦」たち伊藤孝司風媒社
1928年12月13日生まれ
大韓民国ソウル市在住
 
 私大邸で生まれました。家は貧しくて、国民学校に入学したもののすぐに夜学に移りました。
 1944年夏のある日、酒屋をやっていた友だちのお母さん「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。
 それから何日かすると、その友だちが私の家に来て手招きするのです。外に出ると、そこには軍服みたいな服を着た男がいて、3人の娘を連れていました。その男は私に包みを渡しました。友だちが「それは簡単服(ワンピース)と赤い靴が入っている」と言いました。私はこうした新しい物を生まれて初めてもらった嬉しさで感激しました
 この男に「一緒について来るように」と言われ、私と友だちも含めた5人の娘が連れられて駅に行きました。それまで私は汽車に乗ったことがありませんでした。汽車の中では、私は車酔いで泣いていました。(P.72〜73)

(※2007.4.23 追加)
1993.10証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集明石書店
 一九四四年、私が満十六歳の秋のことです。〜(中略)〜
 当時、私の着ていたものといったらみすぼらしくて話にもなりませんでした。それから幾日かたったある日、プンスンと川辺で貝をとっていたら、向こうの土手の上に見たことのない老人と日本人の男の人が立っているのが見えました。老人が私たちの方を指さすと、男の人は私たちの方へ降りて来ました。老人はすぐ何処かに行ってしまい、男の人が私たちに手真似で行こうという仕種をしました。私は怖くなりましたが、プンスンは知らんぷりをして反対の方に逃げました。
 それから何日かたったある日の明け方、プンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。〜(中略)〜行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。〜(中略)〜それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。(P.132〜133)

 船上で一九四五年の新暦のお正月を迎えました。〜(中略)〜このように強姦されたのは私だけではありませんでした。プンスンも他の娘たちも私と同じことを軍人からされたと言っていました。その後も私たちはその船の中で随時軍人たちにそういうやり方で同じことをされました。(P.135〜P.137)

 大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。(P.137)
1996.8アジアの声 第10集 私たちと戦争責任戦争犠牲者を心に刻む会当方出版
 私は、弟が四人と私の五人姉弟でした。どこでもそうでしょうが、私も一人娘ということで、父は自分が食べなくても、私に食べさせてくれました。そのくらいかわいがってくれていました。
 私はまだ幼い十四歳の時です。友達と川へ魚を捕りに行きました。その時堤防の上から、日本の人かどうか分かりませんが、軍服を着た男性二人が私たちを指さしました。私達が遊んでいるのに堤防の上から私達に対して指さしているのを見たら、まだ子どもだった私はもう怖くて、その場に父はいませんでしたが、「お父さん、お父さん」と言いながら一人で逃げてお父さんを呼びに行きました。逃げる途中に山があって、そこに小さい家がありました。中に入るとおばあさんが一人いたので、「おばあさん、かくまってください」と頼んだら、「この子は馬鹿じゃないか。いったい誰が捕まえに来るっていうのかい」と言われました。でも「捕まえに来るから」と言い張り、泣きながら「ちょっと外を見てきてください」と頼むと、おばあさんは「外には誰もいないから、早く帰りなさい」と言いました。それでも私はとても怖いので、黒いはかまを一着頭にかぶって、顔が見えないようにして走って家へ帰りました。
 その日からどのくらいたってからか忘れましたが、ある日明け方のまだ暗いうちに、だれかが私の家の透かし窓を叩きました。目を覚ましてみると、女の人がいて、「黙って出ておいで」と私を呼ぶのです。家の玄関には戸がなかったので、女は細い廊下に入ってきて、私を引っ張って連れて行きました。おかげで私は木で作られた靴を履くこともできず、裸足のままでした。私が女に韓国語でたずねると、女は「韓国語で話すな」と言いました。連れて行かれたのは堤防で、前に見た男がいました。その男はいつも帽子をかぶっていました。その男と女についていくと、踏切がありました。上を汽車が通り、下を車が通る、そして人がその横をを歩くようになっていて、そこの階段を上っていったら少女がすでに三人いました。その中にいた私の親友が赤いふろしきを渡してくれたので、触ってみると靴が入っているのがわかりました
 私たちは四人になり、駅に連れていかれたのですが、そこでは私が韓国語を使うと殴られました。(P.61〜62)

 今考えると、十月に連れていかれたのにもうとても寒い思いをする十二月になっていました。(P.64)

 朝、港から船に乗った時には、さすがに、何も知らない私でも今度はもう家に帰れない、どこかに連れていかれて殺されるだろうなと思いました。〜(中略)〜一九四三年十二月頃でした。(P.64)

 (※2007.6.19 追加)
1998.8.23英文中国日報*********
日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事〜(中略)〜1944年のある夜、韓国の故郷からどのようにして日本軍により誘拐され〜(中略)〜慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。
2002.6.26日本共産との会合*********
十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた
2004.12京都での市民集会*********
1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され〜(中略)〜日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。
2004.12.5京都新聞 ※リンク切れ*********
16歳でわけが分からないまま連行され、〜(中略)〜1944年ごろ、旧日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦として
2005.4.21証言集会(同志社大学)*********
私はいつも母と一緒に寝ていたのですが、ある日の夜寝ていたら、コソコソと音が聞こえました。起きて見てみたら、ある女性が首のほうに何かを突きつけられながら、こちらを覗いていました。それでそこをよく見てみたら、帽子を深くかぶった軍人が立っていました。その女性が、私を見て何も言わずに手振りで私を呼んでいたので、私は怖くなり、部屋を出て外の居間のところで座っていました。するとその女性と軍人が一緒に居間まで入ってきて、その女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。〜(中略)〜その時、私は韓国の年齢で16歳でした。
2005.8.11朝日新聞 ※リンク切れ*********
韓国の大邱から15歳ごろ連行された
2007.2.16中央日報「米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言」*********
1944年16歳の時に台湾に慰安婦として連行され
2007.2.26JANJAN「米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」*********
15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた
(※2007.3.24追加)
2007.3.6le Monde.fr 「Le combat de Lee Yong-soo, ancienne "esclave sexuelle" au service de l'armee imperiale japonaise」
※フランスのルモンド紙 リンク先はフランス語
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現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用売春宿に配備された
(※2007.4.4追加)
2007.4.30朝鮮日報「79歳元慰安婦、ハーバード大学で涙の訴え」*********
 「強姦しようとする日本兵に抵抗すると、足をメッタ切りにされました。血まみれになってもその痛さにも気づかず必死に“助けて”としがみつきました。しかし容赦ない日本兵は電気による拷問までしました。恐ろしさのあまり叫んだ“お母さん”という声は、今も耳に残っています」

 28日午後、米ハーバード大学ケネディー・スクール(行政大学院)の講義室。さまざまな人種の聴衆約100人が見守る中、時には感情を抑えきれず絶叫に近い声を上げる高齢の韓国人女性の話に耳を傾けた。16歳の時に強制連行された後2年間、日本兵の「慰安婦」をさせられたイ・ヨンスさん(79)は、ハーバード大の学生の前で同日、当時の「地獄の日々」について証言した。1944年に強制連行された後、繰り返し受けた無差別な暴行・強姦・拷問の悪夢を60年以上経った今でも忘れることのできないイさんの叫びに、聴衆は嘆き、目頭を熱くした。〜(後略)〜

(管理人:慰安婦をした期間を「2年間」と言っています。しかし、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、連行時の船上で「一九四五年の新暦のお正月を迎えました」と証言しており、この証言を信頼するなら慰安婦をしていた期間は約8ヶ月です。

(※2007.5.1追加)
2007.8戦争と性
韓国で「慰安婦」と向きあう
高柳美知子・岩本正光かもがわ出版
 ヨンスさんは韓国の大邸(テグ)の出身。一五歳の夏、友だちとよもぎをとりに行った。夕方になり、土手を見たら戦闘帽の男がいて、自分たちをめがけて降りてきたのであわてて家に帰った。何日かすると友だちが私の家に来て手招きするのでついていくと、戦闘帽の男と三人の少女がいた。怖くなって逃げようとしたが、友だちが「行こう」というのでついていった。男が風呂敷包みをくれた。中に赤い靴と洋服が入っていた。
 そのあと、わけもわからないまま列車や船にのせられ、慶州、平壌、大連、上海、そして台湾へ。恐怖にふるえる一五歳の少女ヨンスさんの姿が目に浮かび、胸が苦しくなった。
 ヨンスさんは語ります。「大連からの船には日本海軍の軍人約三〇〇人と二〇歳にもならない私たちが五人。想像してください。ある日、台湾の慰安所に連行され、軍人がやってきて日本人の姉さんに何かささやくと、姉さんが泣きながら着物を着せて化粧もしてくれ、『言うことをきかなかったら、あんた死んでしまうからね』と言った」。そして軍人は抵抗するヨンスさんの髪をつかんでひきずり、軍刀で足を切りさいた。その話をした時、ヨンスさんは突然立ちあがり私たちの前でスカートのすそをめくり、五〇センチほどもありそうな、たてに切りさかれた傷あとを見せてくれました。みんな、アッと息をのんでしまいました。切られたヨンスさんは数日間、気を失っていたそうですが、姉さんたちが自分の指を切った血で、“輸血”してくれたりして、やっと意識を回復したそうです。そしてそのあと毎晩のように「兵隊をとらされた」そうです。
 ヨンスさんはある日、二一歳の特攻隊員と出会います。彼は出撃の前夜、彼女のところへ形見の洗面道具を一式持ってきて、「オレは明日、死にに行く」と言い、そして星空を見上げてヨンスさんに言ったそうです。「あの星の中にオレもいるし、父も母もトシコ(ヨンスさんがつけられた日本名)もいる。お前は死なないで生きていてくれ。オレは幽霊になって、お前の恋しいおかあさんのところへお前を連れていってやるから、死なないでくれ」
 彼が出撃して三日間というもの、ヨンスさんは何も食べず、「死にに行った」という意味もわからずに、二人で星空を見上げた大きな木の下で毎日彼が帰ってくるのを待っていたそうです。(P.59〜61)

 イ・ヨンスさんは日本の敗戦によって解放され、一七歳一九四六年春、帰還船で帰国。テグの母のもとへ走って帰ったものの、誰にも被害体験を語ることが出来なかったといいます。(P64)

 一九四六年にテグに帰り着いた彼女が「オンマー・ヨンスです」と言っても、「私の娘は三年前の夜に死んだ」といって彼女の顔も見ず、「幽霊だ」といって部屋に入ってしまったお母さん。(P.65)

(管理人:連行時の内容は、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」と近いものになっている。

また、軍人に軍刀で足を切りさかれた後、姉さんたちが指を切って輸血をしてくれたと言う、ワケの分からないエピソードが追加されている。)


(※2007.8.28追加)