大東亜戦争肯定論で有名な作家・林房雄氏は、若い頃は急進的な共産主義思想にかぶれていました。関東大震災が起きた大正12年の4月に東京帝大法学部政治学科に入学しましたが、大震災の発災時は郷里の大分に帰省中で、地方新聞の全紙面は途方もない記事で埋められていたと書いています。

「帝都一瞬にして焼け野原と化す」
「富士山陥没す」
「社会主義者にひきいられた朝鮮人大部隊、軍隊と交戦中」
「江東方面に紫外線、当局鎮圧の見込みなしと語る」
「皇太子殿下御行方不明」

現代人は「噴飯物」と一笑に付すでしょうが、通信も途絶えた中、遠い関東圏で想像を絶する天変地異が起こったことで、人々がどれほど動揺したか分かります。と同時に、「東京に市街戦、即ち革命が起こったことであった。同士達は武器をとり、バリケードを築き、赤旗をかざして、帝国主義者の軍隊と戦っている。朝鮮人と東京の全労働者と被圧迫民衆が革命軍に参加している」と思いを巡らせ、田舎で細々とオルグ運動をやっている自分が情けなくなり、居ても立ってもいられない心境だったことがうかがわれます。昭和48年刊『文学的回想』8ページから9ページです。

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林房雄氏は、朝鮮人が社会主義者とともに暴動を起こしたのではないかと想像したとあります。当時、共産党は非合法の秘密結社であり、大震災の混乱に乗じて、発災から3カ月に満たない12月27日、虎ノ門で皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件が起こり、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責辞任を余儀なくされたのです。

『文学的回想』は大震災から50年後に、出版社の薦めで書いた自叙伝です。革命が起きたというのが九州の田舎町にいた極左かぶれの若者の妄想であったとしても、今こんなことを書いたら、「差別だ」「ヘイトだ」という批判が巻き起こるでしょうが、当時の大衆の社会主義者や朝鮮人に対する恐怖感がよく表れていると思います。


昨日、当ブログで再紹介した『関東大震災講話資料 第1輯 / 関東大震災情報部編』は、関東大震災からちょうど1年たった大正13年9月1日に発刊されました。発刊といっても、未曽有の大震災で印刷所のメッカである神田の工場は延焼に巻き込まれ、山の手の工場も活字が散逸したため、やむを得ず謄写版で発刊したものですが、発刊にあたり、誤りは訂正したと断り書きがあります。

関東大震災は未曽有の自然災害であると知った政府は、大混乱の中、直後からできる限り詳細な記録を残すことに決めたことでおびたたしい記録が残されています。何もかも失われた中で、遺体の処理、救護や衛生管理、治安、復興とやることが山ほどある中で、よくもこれだけの記録を残せたと感嘆します。公文書は国会図書館のデジタルコレクションで読めますが、多くの新聞記事も残されています。その中で、「所謂鮮人騒動は是れ」の部分は、『荘内新報』が発災後、1カ月半後に発刊した新聞記事の元原稿です。『関東大震災講話資料』は巻頭に山本権兵衛内閣総理大臣名の詔書も挿入されており、謄写版印刷ながら正式な公文書と見なすことができます。


荘内新報

「日本人は悪」とばかりに日本憎悪を煽動してやまない反日極左報道機関や学者たちは「無辜の朝鮮人6000人余が虐殺された」と主張していますが、無辜の民ばかりではなかったのです。

4年前のそよ風の慰霊祭で御挨拶をしてくださった墨田区の大瀬康介区議会議員は、『荘内新報』をソースにTBSテレビの取材に応じたのに、その部分をカットした報道姿勢批判をしていますが、今一度このサイトを読むと、改めて既存メディアは人々をミスリードする意図を持った政治活動団体だと思います。結論ありきの姿勢では取材に応じられません。
報道姿勢に疑問

折も折、日本と日本人に多大の迷惑をかけ続けている植村隆元朝日新聞記者の慰安婦報道記事が捏造と信じる根拠があると最高裁でも認められたことでも、極左メディアの偏向は立証されました。(文責・佐藤)