6000という数字はあまりにも先人を愚弄していませんか。

ここで、何度もお伝えしていますが、そよ風は、都の虐殺記念碑の6000人という数字には科学的根拠がない、と抗議しています。

当時の政府の公式文書や、当時市長だった永田秀治郎の生涯をかけた調査結果をみれば、6000という数字が如何に馬鹿げているか分かります。

それは、
朝鮮人虐殺説を広めた学者の資料集(現代資料6 関東大震災と朝鮮人)からも読み取れます。

「現代資料6」関東大震災と朝鮮人。

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四、鮮人被災者救済状況
第五、震災被殺鮮人の数

自警団に殺害された朝鮮人の数は混乱の際であり、死体は一般の死体と共に火葬に付されたから、死因も弁別せず、したがって的確な数を得ることは困難であるが、朝鮮地方官憲で精細に調査した結果によれば、圧死者焼死者被殺者及び行方不明となった鮮人(ママ)は総体で832名ある。朝鮮人の居住場所と焼死者の多かった事実に徴し、自警団に殺害されたものはその2,3割を超過することはあるまいと推定せられるのである。

(現代資料6 関東大震災と朝鮮人より引用ここまで)

832人の2割は166人、3割249人である。これは、被災当時の東京市長・永田秀次郎が生涯をかけて調査し、私財を投じて高野山に建てた慰霊碑の説明板に書かれた、外国人200人に近い数字。

永田秀次郎は、亡くなられた方々全員(外国人も含めて)の名前を永久保存しようとして、地方政府の戸籍課、警察、大使館まで、あらゆる手段を使って、亡くなられた外国人を探したうえで(全員の名前までは判明せず)慰霊堂にその名前を収めています。

当時の政府も、地方官憲に行方不明のある遺族を調べさせ、更に、総督府の官報号外で、天皇から200円の下賜金が受け取れる者は、早く申し出るようにと、三年間にわたって、通告しています。

申し出の期限は大正14年11月15日であったが、実際には、この号外を出した、大正15年8月までは、まだ呼び掛けていたのだ。つまり、政府は、震災から3年近く、熱心に、被災地にいた被災者の全て(朝鮮人も当時は日本人)やその遺族に、恩賜金を受け取るよう、呼び掛けていたことになる。
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DSC_0354朝鮮総督府官報

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こうして、日本政府や東京市長が丹念に調べあげた数字200人余に比して、6000人が、いかに乖離しているか。

6000−200=5800人、この5800人はいったいどこの誰なのか。
なぜ、200円という大金を受け取らなかったのか。


当時の資料を読めば読むほど、先人が、血のにじむような努力で、1等国であることを示そうとしたことが、伝わってくる。どんなことにも、真面目に、誠心誠意、几帳面な記録を残しています。

ところが、現代の我々日本人は、ありもしない、適当な6000という数字を掲げ、先人を、どこか見下し、愚弄しているとしか思えません。

(文責・鈴木)