そよ風講演会
来る一月二十九日(土曜日)午後二時から
豊島区民センター六階
そよ風講演会は開催されます。(マスク必着)
動画配信なし!
会場でしか聞けない土屋氏覚悟の講演会!

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関東大震災日本人の良い話を語り継ごう!
略して 「よいばな百周年」 その1

政府防災会議によると、今後三十年以内に、70〜80%の確率で、南海トラフ沿いの大規模地震(M8からM9クラス)が、発生すると言われています。
百年前、関東大震災(M7.9)の大災害に襲われた時、私たち日本人は、どのように行動し、なぜ、あの地獄のような瓦礫と屍の中から、不死鳥のように、立ち上がることが出来たのでしょうか。
どうか、私達日本人がどのような民族なのか、頭の隅にでも記憶しておいて、思い出して下さい。そよ風は、「よいばな百周年」シリーズをお送りします。
しばらくお付き合いくださいませ。(文責・鈴木)


以下つむじ風様の投稿を参考に

関東大震災の被害を受けた横浜の様子を記録した
米国人クララ・D・ルーミスの言葉


「人々は黙々と忍耐強く荷を運んだり仮小屋を作ったりしていた。私が見たのは静けさと秩序と相互の助け合い以外の何物でもない

以上 出典 神奈川新聞

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「 1923 年に大震災が起こった時の献身的な日本人の使用人たちの話もたくさんあります。

例えば、自分の命を投げうってまで、白人の子供を助けようとしたとか、その子どもを抱 えたまま安全な場所まで何マイルも運んでくれたとか。

火事場泥棒のようなことをした人 間は、おそらく刑務所から逃げてきた人か、極貧で食べ物に飢えていた人か、着るものを 必要としていた人に違いありません。

私の所有物や、私の多くの友人の所有物は大変なリ スクを負ってまで、日本人によって守られ、丁寧に持ち主に返されました。」


「小包や傘を見知らぬタクシーの運転手に持ってきてもらったことも何度もあります。

人力車の車夫は、アメリカから着いたばかりの女性を、私の東京にあるおじさんの家で一晩 過ごすために連れていったこともあります。人力車で半時間ほどかかる所でした。

次の朝、 その運転手がまたやって来て、自分が乗せた客に面会を求めたのですが、すでに朝早くの 電車で出て行ったことを知らされて、とてもがっかりした様子でした。

叔父は、質問して いるうちにわかったのですが、この運転手は人力車のなかに 5 ドル金貨があるのを見つけたので、女性にどうしても返したかったとのことでした。

結局、その金貨は叔父の方から 送ってもらうことになりました。5 ドルといえば、運転手にとってはちょっとした大金の はずなのですが。」


「日本人の友人がいる人なら誰でも、日本人は親切にされたことに対してどんなに感謝す るかを知っています。そしてそれを何年経っても覚えていることも。大勢のアメリカ人が帰国した時の感動的な出来事が 1941 年 5 月 7 日の手紙に記されています。

神戸と横浜の港 での光景は決して忘れることはできません。文字通り何千人もの日本人が、アメリカ人の 友人を見送りに来てくれました。

アメリカと日本の国旗を打ち振りながら、歌と涙と贈り 物で溢れていました。小柄な白髪の女性など、ランやその他の花々に埋もれてしまいそう なほどでした。
「鎌倉丸」の日本人の船長さんが、おいしい食事を宣教師のグループにふる まってくれた時、こんなに露わににした感情表現は今まで見たことがないと言っていまし た。今まで宣教師が日本人にとってどんなに大切であったかがわからなかったとしたら、 この光景はおそらくそうしたことが一目で分かったはずです。」


以上 出典:クララ・デニスン・ルーミス女史が 日米開戦直前に語った日本人像 ─
それが日本研究にもたらした影響─
福 井 七 子 FUKUI Nanako
untitled (kansai-u.ac.jp) クララ・D・ルーミス女子写真付き論文
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以下神奈川新聞

関東大震災 ルーミス宣教師の記録 寄贈

東大震災の惨状克明に記録、
米女性宣教師の手記など開港資料館へ寄贈/横浜
 
関東大震災の被害を受けた横浜の様子を記録した米国人クララ・D・ルーミス(
1877〜1968)が残した資料が27日、在日米国大使館から、横浜市中区の横浜開港資料館(上山和雄館長)に寄贈された。がれきの山と化した横浜の街や復興に努力する人たちの様子が克明に記録されており、地震防災を考える貴重な資料となりそうだ。

 同資料館によると、ルーミスは女性宣教師で、共立女学校(同市中区山手町、現・横浜共立学園)で35年にわたって校長を務めた。群馬県内滞在中に関東大震災の発生を知り、3週間後に横浜に戻ったという。

 寄贈資料は震災から復興する横浜の様子を記録した自身の手記のほか、知人の手記など、文書5点。自身の手記には、当時の横浜駅周辺や海岸通り、山手の様子などが細かく記録されている。

 震災を横浜で経験した知人の手記には「人々は黙々と忍耐強く荷を運んだり、仮小屋を作ったりしていた。(中略)私が見たのは静けさと秩序と相互の助け合い以外の何物でもない」などと書かれている。

 資料は米国大使館で保管されてきたため、研究者の間でも知られていなかったという。上山館長は「震災当時の外国人の様子が分かる新発見といえる」と話している。

 同日、開港資料館で式典が開かれ、寄贈を発案した在日米国大使館のジェームス・P・ズムワルト首席公使が資料を上山館長に手渡した。

 2013年の震災90周年に合わせた展覧会の目玉として、公開される予定。 

(2011年5月28日 神奈川新聞)

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横浜開港資料館 U.S.EmbassyTokyoBlog

(2011年6月17日)

横浜開港資料館の上山館長(左)に歴史的文献を手渡す私

 在日米国大使館で去年、職員が資料の整理をしていると、偶然、驚くべきものが見つかりました。それはタイプライターで打った手記でした。共立女学校(現・横浜共立学園)の第4代校長を務めた米国人宣教師のクララ・ルーミスが1923年に書いたもので、今から50年以上も前に、別の米国人宣教師の手を経て、横浜にあった当時の米国総領事館が保管を託されたものです。

 手記に目を通すと、ルーミスさんは1923年の関東大震災の発生当日、群馬県で保養中だったようです。彼女は横浜の外国人居留地を襲った大震災と火災の直後に見聞きした様子を書き記しています。震災の惨状を描き出す彼女の言葉に心を打たれ、涙が出てしまいました。

 貴重な手記だけに、大使館で保管したまま日の目を見ないのはあまりに忍びないと思い、横浜開港資料館に手記を寄贈したいと打診してみたところ、快諾を得られました。手記は同館が保存し、歴史学者の研究材料になります。

1923年の関東大震災の英国人犠牲者を悼む追悼式の写真を使った当時の絵はがき

 手記を渡すため、私が横浜開港資料館に出向いたのは先日のことでした。資料館では一葉のモノクロ写真の複製をいただきました。この写真は、震災の犠牲者を悼むため、1923年に横浜の英国領事館で行われた追悼式の様子を撮影したものでした。ルーミスさんが手記の中で書き記していたのはまさにこの追悼式のことだとすぐに分かりました。彼女が克明に描写した追悼式の写真を目にし、私は心が動かされました。

 横浜開港資料館の上山館長によると、当時の横浜の外国人居留地についての文献は非常に珍しいそうです。資料館ではこの手記の内容を分析し、2013年の震災90周年展で一般公開する予定だそうです。この歴史的文献の落ち着き先がようやく決まり、私もほっとしています。