被服廠跡三万余人白骨の山

ことしの3月1日から5月8日まで、都立横網町公園内の東京都復興記念館において、「関東大震災写真展〜被災写真からたどる東京下町六区〜」と題した写真展が開かれていました。東京都慰霊協会は、大震災発災から90年目以降、100年目を見据えて様々なイベントを開催しており、写真展は来年令和5年に迎える100年目事業の一環です。

復興記念館には5,000枚以上もの関東大震災関連の写真(絵はがきを含む)が所蔵されているそうです。

私は、関東大震災の翌年に建てられたという都内の古民家に今も暮らす方から、当時の絵はがきや新聞を直に拝見させていただいたことがあります。ラジオすらなかった時代、絵はがきは壊滅状態となった帝都東京の悲惨な状況を生々しく伝える手段としてたくさん発行され、お土産としてもよく売れたといわれています。

戦前・戦後の流行作家で三島由紀夫とも交流があった林房雄は、東京帝国大学法科に在学中、帰省していた大分で大震災の報に接し、「朝鮮人が社会主義者とともに暴動を起こしたのではないかと想像した」と記しています。「富士山陥没す」「皇太子殿下御行方不明」といった荒唐無稽なデマが拡散され、地方在住者にとって、国の将来を危ぶみ、怖いもの見たさと同時に興味もあったのでしょう。

今回開催された写真展の中心は東京下町六区の被災状況です。現在の都立横網町公園はかつての被服廠で、この地で約3万8,000人が犠牲になったのです。折からの残暑で、遺体はみるみる腐乱したため、やむなくその場で火葬することが決まり、9月5日から東京市が行いました。初日には88人の人夫が雇われますが、酸鼻に耐えられず、午後には4人しか残らなかったといわれ、想像を絶するすさまじさが分かろうというものです。

当時の永田秀次郎東京市長は当初、棺を作って犠牲者一人一人を入れるように命じ、役所の職員を動員して一人一人氏名を確認していましたが、やむなく死体の山にガソリンを流し、合同荼毘に付したのです。氏は、夜中に執行された火葬の煙は何日も高く立ち上ったと書いています。このことを生涯忘れることはありませんでした。

その後、延べ3,695人で火葬を行い、火葬炉を設置したことで早くに終えることができましたが、それでも10日かかったとあります。

混乱のさなかにありながら、犠牲者の約半数の遺族や縁者が分骨を希望しました。仮納骨堂が建設され、10月19日には四十九日の追悼式が行われ、10万人の参拝者が訪れたとあります。何もかも失った被災者たちは、過酷な環境をどうやって生き延びるかが最大の関心事でありながら、当時の映像では、生花を手に参拝した人々の群れに、できる限り死者を丁重に葬ることで死者の生前を偲び、死を悼む姿を見ることができます。

永田秀次郎市長は大震災の翌年9月8日に市長の職を辞することになりましたが、7年後の昭和5年(1930)、被災者の冥福を祈るため、市長の退職金である私財を全て投じ、高野山真言宗総本山・金剛峯寺に霊牌(れいはい)堂を建立し、同年11月9日に約10万5,000人の犠牲者のうち、約半数の5万4,700人分の名前が記された「関東震災殃死者(おうし)簿」を納めたのです。「犠牲者名を1万年残すべし」として、名簿は故郷・淡路島の淡路焼タイルと和紙の2種類の素材で作成され、高野山奥之院に所在する関東震災霊牌堂に奉納され、保存されています。

一面焦土と化し、とてつもない絶望の中にあっても、芽吹いたシュロに復興の希望を見いだした永田秀次郎市長の句碑の隣りに、根拠不明な朝鮮人6,000人余殺害の碑を設置させた故美濃部亮吉元都知事の罪は枚挙にいとまがなく、腹立たしいことこの上ありません。(文責・佐藤)