「申し訳ない〜6000人で正しうございます〜」と言わされるのか?

どこの世界に、自分達がやってもいない虐殺数を書き込んで、国民に「反省」を刷り込んでいる国があるというのか。
私たちは、東京都の記念碑に、書き込まれた嘘の数字を、
日本の未来の子供達に残す事を、命がけで阻止しようと活動しています。

この、嘘の数字を日本人に刷り込もうとしている人々から、尊敬され、中心的人物でもある加藤直樹氏の御著書
「虐殺否定というトリック」

この著書に、村田春樹氏が、
期待半分と不安半分。加藤氏が、完全に科学的に6000人を証明し、我々を完膚なきまでに叩きのめし、我々は「申し訳ない〜6000人で正しうございます〜」と言わされるのではないかと武者震いしながら、読まれた感想文があります。
面白いです!今年は震災百周年、再掲ですが是非お読み下さいませ。

(文責 鈴木)、




加藤氏の知的な容貌から、さぞかし緻密な論理の展開がされると期待したが、いきなり唖然。

氏は「虐殺はなかった説は、歴史学の世界ではまったく学説として認められていない」と繰り返す。それがどうした。そりゃそうでしょ、歴史学の世界は戦後レジームの氷が最もぶ厚いところ。そんなことはわかっている。勝者が歴史を書き、敗者が文学を書く、といわれるが、戦勝国が書いた歴史学が今の日本を支配している。


そよかぜも私もこの氷をすこしでも溶かしたいと、思っている。

ガリレオの地動説を裁く法廷で、バチカンの検事が「地球が動くなんて説は聖書に書いていない」と何回繰り返しても、ガリレオは納得しないだろう。それと同じことを加藤氏はしているのだ。いきなりがっかりした。

内容は読んでいてほとんど知っていることばかりで新味なし。私の興味は加藤氏が6000人をどうやって科学的に正当化するのか。の一点だった。

全部で170ページのうち74ページにいよいよ「約6000人をめぐって」という章に入った。

私の心は期待半分と不安半分だった。完全に科学的に6000人を証明し、我々を完膚なきまでに叩きのめし、我々は「申し訳ない〜6000人で正しうございます〜」と言わされるのではないかという不安である。

以下「 」は「トリック」から引用。( )は村田のつぶやきである。

「彼ら(村田ら)が騒ぐはるか前から虐殺数については6000人という数が正確とは言えないことは指摘されている。」

(ほう、我々の言う通りじゃない!明日の集会で参加者皆の前でそう言いなさい。)

「震災のとき虐殺された朝鮮人の数を正確に特定するのは不可能である。」

(ほう!これも言いなさい、6000人と彫ってある碑文を指しながら。)

「司法省報告では233人云々」

(これも参加者の前で言いなさい。)

「戒厳司令部の報告では朝鮮人日本人中国人合わせて266人云々」

(ほう!これも言えば。)

「実際はそれよりはるかに多いはずである。」

(おお!新証拠が発見されたのか!すごいなあ。わくわく)

「そもそも治安当局が把握していない殺傷行為が膨大にあったと推測されるからである。」

(はあ?なんだ推測か、がっかり。推測の根拠は?)

「朝鮮総督府が内部文書で被殺者の見込み数として掲げた813人がある。しかしその根拠は不明である。」

(ほう、して不明であるとする根拠は?要はわからないのでしょ。多いかもしれないし、少ないかもしれない。根拠が不明なのではない、事実が不明なんですよ。)

「これに対して冒頭に掲げた6000人という数は震災の翌月翌々月朝鮮人留学生らが警察の妨害をかいくぐって関東全域を踏破し調査した結果を(苦しいなあ)基に上海に本拠を置く独立運動機関紙「独立新聞」がその年12月に発表したものだ。」

(なーんだ。知ってますよそんなこと。大韓民国臨時政府でしょ。
その工作員が朝鮮人留学生と一緒に踏破して調査したのだそうだが。
まず踏破と言って賞賛しているのが嗤える。 どうやって科学的に調査したのだろうか。名簿もない、遺骨もない、流言蜚語にも惑わされず。

6661人と正確な数字の調査方法が知りたい。どんな調査でもその手法がわからず結果だけ信ずる莫迦はいない。調査員は何人の遺族や目撃者にいつどこで聴取したのだろうか。)


「この数字は虐殺に関しての歴史学的研究が始まった1950年代末以降最も有力な調査研結果と考えられてきた。」

(誰に?そちらの業界人だけでしょ。そもそも独立運動家が調べた(?)数字ほど信用信頼できないものはありませんよ。加藤氏は自分で言いながら非科学的だとわかっているはず。)

「同胞の死の真相を明らかにしようと熱意を持って行われ朝鮮人留学生の調査であるから一定の説得力を持つようになるのは当然だった。」

(わっはっは(^^)/おやさしいのね。熱意と正確さはなんの関係もない。熱意があればあるほど、数字は膨大になり過大な結果になるに決まっているじゃないですか。)

加藤氏は書きながらわかっていて、さぞかし苦しいだろう。嗤ってはいけないか。さすが良心が許されないのか、後段

「今でも「6000人が殺された」と書いている本が少なくない」

(ならば233人と書いてある本が多くなったらどうするのですか。)

「6000人を一つの推測として例示すること自体が明確な誤りだとまでは言えないだろう。」

(えらく謙虚になりましたね。苦しいなあ。なんとしても6000人にしておかないとあの追悼碑の存在意義がなくなっちゃうからね。)
お仲間には弁護士会の会長副会長がいるでしょうから、訊いてみてください。この2ページだけで6000人の下手人を有罪にできるでしょうか、有罪どころか逮捕も起訴もできやしない。

氏のこの著書「トリック」は「…だろう」とか「推測される」という曖昧な表現が多い。ま、随筆だから完璧を求めるのは無理だろう。加藤氏には「九月 東京の路上で」というエッセイもあるそうだ。きっと想像力が豊かなのだろう。

震災犠牲者の日本人への弔慰金16円、朝鮮人には200円だったそうである。
この大金に6000人の関係者が群がらなかったのは一体なぜなのだろうか。
加藤氏の想像力で解明していただきたいものだ。

それにしても6000人の根拠は独立新聞だけ?たったこれだけ?買って損したあ。

「熱意ある百年前の留学生」にこれほど感情移入できるのは素晴らしいが、感情移入しても真実から遠ざかるばかりですよ。やはり阿諛外主義なんですね、私は愛外主義だが、阿諛まではいかない。源義経が好きで好きで感情移入しすぎて、なんとジンギスカンにしてしまった人もいる。

外国人特にコリアンが好きで好きで感情移入しすぎて、233人が津軽海峡を渡って300人になり宗谷海峡を渡って500人。ついに間宮海峡を渡って6000人!加藤氏は判官びいきならぬ、コリアンびいきなのですね。

長くなった。私は日本帝国による犠牲者の数を、なにがなんでも多くしたい加藤氏らの情熱をみていてもの悲しくなってくる。日本国を日本人を先祖を徹底的におとしめて、国連等を通じてして「日本人はこれだけ悪かったんだぞー!」と叫んで喜ぶ日本人を、外国人はどう見ているのだろうか。唆す外国人は多いだろう。しかし外国人は内心は、自らの祖国民族を蔑む日本人を莫迦にしている。

加藤氏らは自分だけは、人間という汚濁に塗れた存在を超越して、自らを天使のような人間だと高みにおき、我々を見下して満足を得る。
こういうのを心理学ではマウントというそうだ。加藤氏は明日9月1日はマウントしまくってさぞかし気分がいいだろう。我々はマウントされ、最悪の気分になる。

(完)