変態毎日はヘイトスピーカー(不逞鮮人)の元祖だった!


「不逞鮮人」という言葉が国内の新聞の見出しに最初に登場するのは大正8年(1919 年) 4月 25 日付『大阪毎日新聞』である。


これは、関原正裕氏の論文(関東大震災時の朝鮮人虐殺における国家と地域 ―日本人民衆の加害責任を見すえて一橋大学大学院社会学研究科)に書かれていることだ。

関原氏の論文は、関東大震災の虐殺事件を通して、日本人に植民地支配の加害責任がある事を、彼独自の歴史観で、徹底的に追求している。私には、全く、客観的な論文とは思えないが、それはさておき、この論文の後部に、変態毎日にも、その加害責任があると書かれている。

関原氏は、「不逞鮮人」の由来を調べ、なんと!この言葉を最初に使用し、拡散させたのは毎日新聞だと結論づけている。

当ブログでも、当時の新聞が、国民に不安を煽ったことを何度も指摘して来た。その上、新聞社は、自分達の先輩が書いた記事を全くなかったこととして、私たちに、ヘイトとも言える言論弾圧をかけている。

しかし、皮肉にも、あちら側の人間が、そよ風の主張を裏付けてくれた。
さらに、関原氏は、研究第一人者の山田昭次氏の「日本の新聞は朝鮮人の独立運動を報ずる場合、たいていこれに陰謀とか、暗殺、放火、 強盗といった「レッテル」を貼った」という言葉を引用している。
変態毎日さん、そよ風をヘイト集団認定する前に、まず、ご自分達の過去に向き合わなければいけないのでは?。
(文責・鈴木)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
以下関原氏の論文(関東大震災時の朝鮮人虐殺における国家と地域 ―日本人民衆の加害責任を見すえて)から引用


「不逞鮮人」観を拡散させた新聞
そもそも「不逞鮮人」とは、1919 年の 3・1 独立運動以後、独立闘争をたたかう朝鮮人を 凶暴なテロリストと表象する言葉としてつくられたものである131。在郷軍人が地域に持ち 125 前掲、山田昭次編纂『関東大震災朝鮮人虐殺裁判資料』1、69 頁、72 頁。なおこの資料集には被告の 氏名は削除され´◆弔犯峭罎派充┐気譴討い襦8貿圭については最も重い実刑判決だったので,庫之 助であることが特定できる。 126『東京朝日新聞』1923 年 11 月 9 日前掲、『かくされていた歴史』194 頁。 127『東京日日新聞』1923 年 10 月 31 日前掲、『かくされていた歴史』191 頁。 128『東京日日新聞』1923 年 10 月 31 日前掲、『かくされていた歴史』192 頁。 129『東京朝日新聞』1923 年 11 月 9 日前掲、『かくされていた歴史』194 頁。 130『東京日日新聞』1923 年 10 月 24 日前掲、『かくされていた歴史』189 頁。 131 アンドレ・ヘイグ「中西伊之助と大正期日本の『不逞鮮人』へのまなざし」『立命館言語文化研究』 46 込んだ「不逞鮮人」観をセンセーショナルに報道し拡散させたのが新聞であった。 京都大学付属図書館による「戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索」で「不逞鮮人」を検 索132すると、「不逞鮮人」という言葉が国内の新聞の見出しに最初に登場するのは 1919 年 4月 25 日付『大阪毎日新聞』で「不逞鮮人の潜入/元京大学生安、林二名、内地の鮮人労 働者を扇動す/大阪府に潜伏せる形跡あり」との見出しである。その後の「不逞鮮人」記事 件数は、1919 年は3件、1920 年は 48 件、1921 年は 27 件、1922 年は 20 件となっている。 記事は「爆弾を投ぜんとした不逞鮮人」とか「不逞鮮人の陰謀暴露す」「不穏文書配附の 犯人は不逞鮮人か」などと煽情的な見出しが多く、「不逞鮮人」を「爆弾」「陰謀」などの言 葉と結びつけて報道している133。 実際に、第 2 節で触れた 1920 年 10 月 2 日の琿春事件についての『東京日日新聞』の報 道を例に見てみたい。まず、事件の第1報は「馬賊爆弾を投じ 琿春領事館焼く」という見 出しで「特に日本人襲撃を目的とせる所を見れば不逞鮮人も之に加はり居れるものゝ如し」 134と「日本人襲撃」を目的としているので「不逞鮮人」も加わっているだろうと想定した表 現で報道している。 その後、「不逞鮮人在り 琿春領事館襲撃の馬賊団」「毒手に斃れし邦人九名判明す 安田 警察署長も殺さる 馬賊の死四、不逞鮮人一」135と「不逞鮮人」が襲撃に加わっていたこと が事実であると報じられる。さらに、現地を視察してきた前田朝鮮憲兵司令官の報告が報道 されるが、そこでは「今回のものは我が領事館内を始め他にも火を放ち爆弾を投じ且領事館 より足を一歩外にある邦人は悉く虐殺された」のだから「彼等の中に不逞鮮人が混入してゐ る事も亦確実」であり、その上「馬賊や不逞鮮人が赤化された」136から警戒しなければなら ないとしている。共産主義思想の影響下にある「不逞鮮人」が馬賊に加わっていたから単な る略奪行為だけでなく、日本人に対するはげしい残虐行為に及んだと報道しているのであ る。そして極めつけは、以下のようなセンセーショナルな残虐行為の報道である。 本社通信員は琿春に入れり 同胞慘殺酸鼻の極 ◇尼港事件に劣らぬ兇暴さよ 過激派露国将校五名 不逞鮮人 支那工兵…〔中略〕…邦人と見れば直に慘殺し弾丸に当 りて倒れし者には突創無数にてして又手足耳の取去られ死体あり、幼児の頭蓋骨を割 られたるものあり、婦人の弾丸に倒れし上更に縊り殺されたるあり、…〔中略〕…六歳 第 22 巻第 3 号、2011 年。 132 http://www.zinbun.kyotou.ac.jp/~mizna/cgibin/shinbun/shinbuns.cgi?midashi 2016 年 1 月 6 日閲覧 133 山田昭次は「日本の新聞は朝鮮人の独立運動を報ずる場合、たいていこれに陰謀とか、暗殺、放火、 強盗といった「レッテル」を貼った」と述べている。前掲、山田『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』 142 頁。 134 『東京日日新聞』1920 年 10 月 3 日。 135 『東京日日新聞』1920 年 10 月 5 日。 136 『東京日日新聞』1920 年 10 月 11 日。 47 の小児の父母は賊に殺され自身も亦左足を弾丸に撃れ137 「過激派露国」つまり革命ロシアと結びついた「不逞鮮人」によって日本人に対する残虐 行為が行なわれ、それは日本人と見れば、子どもも女性も手当たりしだい虐殺に及ぶという テロ行為であったというのだ。この記事は、事件発生から 10 日後の通信員の現地報告であ るが、事件に関わる伝聞を脚色して報道している可能性も否定できない。このような意図的 と思われる記事によって「不逞鮮人」に対する「恐怖心」は増幅されていったのである。 在郷軍人からの情報に加えて、「不逞鮮人」は日本人と見れば見境なく殺害する凶悪なテ ロリストだとする新聞報道によって、地域の日本人には「不逞鮮人」に対する「恐怖心」が 刷り込まれていったのである。琿春事件とその報道は、3 年後の関東大震災時、自警団員を 朝鮮人や社会主義者への迫害、虐殺に駆り立てる作用をはたしたともいわれている。