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目からビーム!10 金城哲夫と愛国者・小原國芳

2024年3月31日 20:29

 ウルトラマンの創造主のひとり・金城哲夫と、昭和35年、時の社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺した右翼少年・山口二矢は意外な共通点をもっている。ともに玉川学園に学び、初代学長・小原國芳の強い薫陶を受けていることだ。金城は高等部で二矢(早生まれ)の4年先輩で、二矢の事件のときは玉川大学文学部の4年生となっていた。
 亡くなった金城哲夫の書斎の本棚には小原國芳全集が並んでいたという。また、父が自衛官という関係から小学校の頃から転校が多かった二矢は、玉川学園を今まで通った学校の中でもっとも自分に合った学校といい、逮捕後の供述調書の中でたびたび小原への敬慕の念を示している。
 小原が成城高等学校校長の職を辞し、自らの教育理念に基づく理想の学園として東京・町田の地に玉川学園を設立したのは昭和4年のことである。クリスチャンでもある小原の教育理念とは自由主義と平等思想による人間創生で、なによりも生徒の自主性を望んだ。
 小原はこれを全人教育と名付けている。というようなことを書くと、どこか左翼好みの教育者を想像されそうだが、どっこい、小原は愛国の人だった。  
 金城哲夫は塾(寮)の窓から見える丘に毎朝、塾生によって掲揚される日の丸の青い空に泳ぐ姿を学園の原風景としている。山口二矢は小原の口から「日教組の教育は間違っている。教育勅語は復活すべきである」という言葉を聞き、わが意を得たりと強い感銘を覚えている。

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小原國芳。二矢の事件後、つめよるマスコミに対して「私の大切な教え子には変わりない」と信念を通している。

 こんなエピソードもある。薩摩男児で武道を好む小原は「テニスなぞ男のするものではない」と公言してはばからなかった。また女子のスコート姿を嫌っていたが、一連の皇太子殿下(今上陛下)のテニスコートのロマンス報道で、美智子妃のスコート着用を知ると、一転、学園でこれを解禁。自らテニス部の顧問となって、生徒たちにテニスを奨励し始めたという。
玉川学園には金城哲夫をはじめ多くの沖縄からの“留学生”がいた。小原國芳と沖縄の関わりについては次回に書かせていただきたい。

(初出)八重山日報

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目からビーム!11 小原國芳と屋良朝苗

2024年4月1日 16:27

 玉川学園園長・小原國芳と沖縄との関わりについては、金城哲夫の評伝『ウルトラマン昇天』(山田輝子/朝日新聞)にくわしい。著者の山田は玉川学園高等部で金城哲夫の一学年先輩にあたる人である。本項も同書に多くを依拠していることを最初にお断りしておく。
 小原は明治20年鹿児島川辺郡に生まれている。いうまでもなく歴史的に薩摩と琉球はあさからぬ関係にある。小原の生家の庭先からは入江に出入りする琉球船が見えたという。
 その小原と沖縄をさらに結びつけたのは講演活動だった。教育者としての小原は、精力的な講演活動でも知られており、戦前は内地にとどまらず、朝鮮、台湾、満州にまで足を延ばし、自らの教育論を熱く説いた。小原が沖縄教職員会の招きで軍政下の沖縄を訪れたのは昭和27年6月のこと。彼を出迎えたのは、のちに沖縄祖国復帰運動の象徴的存在、そして精神的支柱となる屋良朝苗、かれの右腕でもあった喜屋武真栄以下、教職会の幹部たちだった。筆者はくしくも先日、仲村覚氏が主宰する日本沖縄政策研究フォーラムの講演会で、昭和28年2月の衆議院文部委員会で祖国復帰を訴える屋良朝苗の演説の全文に触れ、深い感銘を覚えたばかりである。紙面の都合上、ここに紹介できないのが残念でならない。
 小原國芳と屋良朝苗、この二人の偉大な教育者は広島高等師範学校時代の先輩後輩(小原が一年年長)で旧知の仲だったという。二人が沖縄の地でどんなことを語り合ったか、もし記録が残っているのなら、ぜひ拝読したいという思いにかられる。
 小原は、講演の傍ら、沖縄各地の学校を見て回り、草ぶきの馬小屋の校舎、図書室はおろか教科書やノートも満足にない、その教育現場の惨憺たる現状に心を痛めた。帰郷した小原はさっそく、玉川学園刊の百科事典や図書を沖縄各地の学校に贈り、本土での講演では義援金を募った。また映画『ひめゆりの塔』の収益の一部を沖縄の学校教育のために寄付するよう東映にかけ合ったという。
 小原が寄贈した図書は子供たちだけでなく大人たちも貪るように読んだ。敗戦ですべてを失った沖縄で、誰もが活字に飢えていた。那覇に住む主婦・金城つる子もその一人だった。金城哲夫の母である。

(初出)八重山日報

(追記)一箇所、訂正があります。小原が屋良の一年年長と書きましたが、これは間違い。小原は明治20年(1887年)生まれで、大正2年(1913年)広島高等師範卒。屋良は明治35年(1902年)生まれで、昭和5年(1930年)同校卒。したがって、二人は同窓ではあるが、同時期に在籍した事実はない。しかし、懇意にしていたのは、確かなようで、小原の著作に屋良の名前がたびたび登場する。
昭和31年、金城哲夫を隊長として玉川学園沖縄慰問隊が米軍政下の沖縄を本門しているが、そのとき金城は小原國芳の紹介状をもって琉球政府公選行政主席だった屋良朝苗に面会している。後年、金城夫妻の結婚式の媒酌人を屋良が務めることになったのは、これが機縁だったと思われる。