横網町公園建設時に虐殺記念碑を建てる概念は全くなかった!

昨日に続き、横網町公園設立時に記された

被服廠跡 東京震災記念事業協会事業報告 / 東京震災記念事業協会清算事務所

について。

ここには、公園建設に至る経過が詳細に述べられている。

公園建設を巡っては、国民が塗炭の苦しみに陥り、国家も資金不足に陥ったため、慰霊に金をかけている場合ではない等の意見もあり、東京震災記念事業協会を設立し、国民に広くその必要性を説き、都議会に諮り、建設に至った、という経緯がある。

ちなみに、この公園に、虐殺記念碑の寄付(という手法の建設行為:記鈴木)を受けいれる時には都議会に諮っていない。都はその当時の書類はすでに破棄した、と言っている。

それはさておき、この東京震災記念事業協会が設立されたのが大正13年、震災の翌年だ。

この資料によれば、その時の経過を極て簡単に言うと、まず初めに、陸軍被服廠跡地であまりにも悲惨な最期を遂げられた3万8千人余の御霊を弔う場を建設するために協会が設立された。

慰霊場所は、多磨霊場などの案もあったが、焼かれたお骨が山のように積まれた場所であった陸軍被服廠跡地に参る人が日ごとに増え、収拾がつかなくなったことなどもあり、今後の教訓にするという事も加味し、ここを慰霊と惨事を記憶する公園にしたい、ということで国民の賛同を得た。

断っておくが、ここでいう教訓とは、「江戸っ子風に丸焼け覚悟で逃げ出し、消火活動もせず、家財道具を持ちだし、大混乱になった」ことを反省しようと言っている。(11ページ)

強調したいのは、この教訓の中に「虐殺を忘れるな」「朝鮮人6000人と中国人700人が天皇の軍隊によって殺された」「朝鮮は酷い植民地支配をされた」「誤った流言飛語と策動により殺された」などの概念は全くなかったこと。

当時の人々は、まさか、この公園に、50年後、6000人虐殺碑が建つなどとは、夢にも思っていなかったのだ。

最初にはなかった概念を、万機公論に決すこともせず議会の承認もえず、一部の議員だけでまぎれこませてしまったのだ。

このような碑を私たちはあたかも当時の国民の思いを代弁するものとして、次世代に残してよいのだろうか。

北朝鮮崇拝者だった美濃部都知事の負の遺産は、私たちの税金で保持されている。

つまり、私たちは自分で自分の首を絞めているようなものなのだ。

(文責・鈴木)
OA-0986_033
OA-0986_026


OA-0986_028
OA-0986_029
OA-0986_030