永遠の法 法シリーズ
大川隆法
幸福の科学出版
2016-03-11





『旧約聖書』にはヨブの話があります。あらゆる災難がヨブに降りかかってきて、とうとうヨブが神を呪うまでになったとき、神はヨブに対して答えました。
「ヨブよ、おまえは神の心を裁くことができるほどに賢明であったのか。もっと 謙虚 になりなさい。おまえは神の心がほんとうに分かっているのか」

(『永遠の法』大川隆法・著)


『永遠の法』で語られているヨブのエピソード。

あらゆる災難が降りかかってきたヨブは、神を呪うまでになってしまう。そのヨブに、神が答え給う。
その時のことばが、上の言葉だったのだという。

神を呪うが如き心境の時、ヨブは――人間は、神の御心を裁くほどに、賢明だということがあるのだろうか。その時、謙虚さはどこにあるのだろう。謙虚という気持ちを忘れて自惚れて、神を裁く傲慢な心。そんな心境にある人間が、神の御心をうんぬんできるほどの賢さが、あるわけもない。お前は神の心がわかっているのか。

この問いは、ヨブだけではなく、同じく、神に対して不信の言葉を投げつけ、思い上がっている人間すべてに当てはまってゆくテーマではないかと思う。


わたしが初めて読んだ「ヨブ記」は、下の岩波文庫版。20代のときに初めて読んでいます。




ウツの地にヨブという名の人がいた。その人は全くかつ直く、神を畏れ、悪を遠ざけた。


上のような文章で『ヨブ記』は始まる。

新改訳聖書では、次のような訳になっています。

旧約聖書 新改訳
新日本聖書刊行会
いのちのことば社
2014-05-21



ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は 潔白 で正しく、神を 恐れ、悪から遠ざかっていた。


ヨブはもともと、誰よりも心正しく、神を畏れうやまい、悪からは程遠いような人だった。
信仰心も篤く、悪から遠く、正しく正直に生きていた人であったことが最初の一文から伺えるし、

神の存在を疑うような無神論者ではないし、神などあるかといって嘯く懐疑論者でもなかったことに注意したいと思います。

敬虔なる信仰者であったのだ、ということ。
こういう人が、多くの災難に遭って、はじめて自分の信仰心をぐらつかせ、そのうえで神に対して不遜なる言葉を吐くまでになってしまったのだ。
という、その精神状態の変化に注目したいと思います。

疑り深い性格の人間が、自身に当てはめてヨブを気取っていいような話ではなく、自分の不信仰を正当化するためにヨブを自分に引き寄せていいわけではないのは、いちばん初めにある文章を見れば明白ですね。

まったき人だった。潔白な人だった。神を畏れる人であった。悪から遠ざかる人であった。

のちに神自身が、このヨブほどの正しき心の人はいないであろう、と述べているように、その信仰心の篤さは尋常ではなかったことを、見逃してはいけないんですね。

神の前に、悪魔が現れたときに、ヨブの心正しさを、神は悪魔に告げています。
岩波文庫だと、神=ヤハウェ、悪魔=敵対者、という訳になっています。
新改訳だと、このヤハウェ=主、と訳されており、敵対者=サタン、となっています。

以下は新改訳聖書からの引用文で読解を進めてみたいと思いますが、

ある日、神の子らが 主 の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
主 はサタンに 仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは 主 に答えて言った。「地を行き 巡り、そこを歩き回って来ました。」
主 はサタンに 仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を 留めたか。彼のように 潔白 で正しく、神を 恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」


ヨブの他には、あれほど全き、かつ直き人間はいない。神を畏れて、悪から離れている、と神さまがヨブの心の状態を語っています。

これを聞いたサタンが、ファウスト博士を唆したメフィストフェレスの如く、次のような言葉を神さまに返しています。

サタンは 主 に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を 恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、 垣 を 巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを 祝福 されたので、彼の 家畜 は地にふえ広がっています。 しかし、あなたの手を 伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに 違いありません。」 

主 はサタンに 仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に 任せよう。ただ彼の身に手を 伸ばしてはならない。」そこで、サタンは 主 の前から出て行った。


ヨブが神を恐れている(畏れている)のは、あなたが彼の繁栄を守っているからではありませんか。彼を祝福して、彼を豊かにしているからではありませんか。
もしそれらをすべて奪ってしまったら、彼ヨブとて、神のことを呪うに違いありませんよ。

これを受けて主=神は、ではどうなるか、やってみなさい。とサタンに答えています。ただ、ヨブ自身の身に手を伸ばす、危害を加えてはいけないぞ、との注意書きをつけて。


このあとで、ヨブに次々と災厄が襲いかかってきます。

飼っていた家畜が強奪者に奪われたり、若い働き手たちが殺されてしまったり、あげくには突如襲った天災によって、息子や娘たちがみな命を落としてしまい、ヨブをとりまく繁栄がすべて失われるかのような事態に陥るわけです。

しかして、その時のヨブは深く嘆きつつも、まだ神へのまったき信頼を失わないんですよね。強く深い信仰者であることが、このくだりを見てもわかります。そう簡単に退転するような、そんな柔な信仰者ではなかった。それがヨブという人の魂のもともとの器だったのだと思います。


「私は 裸 で母の 胎 から出て来た。   
また、 裸 で私はかしこに帰ろう。   
主 は 与え、 主 は取られる

主 の 御名 はほむべきかな


もともと私は、裸一貫でこの世に生まれ出てきた。だから、また裸に帰しても、元に戻っただけの話だ。
主がすべてを与えてくれたのだから、それを主が取り上げなさろうとも、それは御心のままであろう。
主の御名はほむべきかな。

なんという強い信仰でしょうか。

神さまが何ゆえに、かつての自分を豊かにしてくれ、そして今、その豊かさが取り上げられた、というか、失うことになったのか、その理由はわからない。

しかしそれもまたすべて、主の御心のうち、御心のままに、と言って、主の御名をたたえているんですよね。ほむべきかな、といって。

これは、イスラム教徒の信仰心の強さを思い出させられる、というか、アラビアンナイトこと「千夜一夜物語」などを読んでも、すべてはアッラーの思し召しなり! アラーは偉大なり! といって、自分に幸運がやって来た時の喜びの最中だけでなく、どうしようもない不運や不幸に見舞われても、アッラーは偉大なり! といって称える人間が多数出てきます。
これがわたしは、読んでいて一番の驚きでしたけどね。学生時代の読書で!


脱線しましたが、とにかくヨブは、家畜や使用人だけでなく、息子や娘たちがいきなり命を失ってしまっても、神を呪うことはしなかった、神をたたえて、御心のままに、という心境で生きている。
この心境のままであったなら、ヨブよお前に神の何がわかるのか、という叱責などは受けずに済んだかもしれません。

当初のヨブは、それほどの篤い信仰心を示していたことに注意したいと思います。

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、この時のヨブの態度を知って衝撃を受けた! と述べています。
これこそが信仰だ!と感じたと、正直に当時の気持ちを振り返って述べていました。

ちなみにまた話が脱線しますが、三浦綾子さんは、夫である光世さんが重病に陥り看病をしていた時に、なんと自分も疲れから大けがをしてしまい、ふたり並んで病床に伏すことになったそうです。
その時に、夫のである光世さんの母(義母)から勧められたのが『ヨブ記』だったそうです。




わたしたち夫婦が寝こんでいた時、三浦の母が看病にきてくれて、「ヨブ記をお読みなさい」とすすめてくれた。


以下、参考までに、三浦綾子さんによる『ヨブ記』の感想部分を引用しておきましょう。

聖書にはヨブを、 〈そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった〉  と書いてある。一体わたしたち人間は、「人となり全く、かつ正しい」といわれるほどのものを持っているだろうか。心から悪に遠ざかり、神を恐れているだろうか。恐らく、大方の人が完全でなく、よからぬこともし、神など忘れているのではないだろうか。ところがヨブは、「全く、かつ正しい」とされる人物であった。


ヨブは全く、かつ正しい人だった、と解説をしつつ、他のわたしたち普通の人間は、人として全く、かつ正しい、と言われるほどの生き方を果たしてしているだろうか、と自らに問うています。そして読者にも問うています。こういう読み方が凄いですね、三浦綾子さんの素晴らしさを感じます。自分を振り返る心、そういう心で宗教書を深く深く読んでいるんですよね。

心から悪に遠ざかり、神を恐れているだろうか、私たちは? という問いかけを、自身と読者に投げかけている。この読み方が大事なのだと思います。


ヨブは、人間として、可能な限り正しい人であり、かつ、神を恐れ 畏 む人であった。わたしたちは、少し自分が品行方正であると、神など信じなくてよいと思いがちなものである。その点ヨブは謙遜であった。


ヨブは、わたしたちと比べたら、遥かに心正しく生きていた人であり、神を恐れ畏む人であった。とあります。恐れる、畏れる、どちらも「おそれる」ですが、恐怖におののく、という意味ばかりではなくて、敬虔にもおそれいって自然とこうべを垂れる、そういう畏怖の気持ちの畏れ、おそれでもありますね。そうした気持ち、これをヨブは備えていた。

神など信じなくてもよい、と思いがちの人たちと比べたら、あるいは、自分は品行方正だと安易に自己規定している人に比べたら、よほどに謙遜な――神の前に謙遜であった人の姿がそこにある。
そう、三浦さんは解説してくれているわけです。


「わたしは裸で母の胎を出た。  
また裸でかしこに帰ろう。  
主が与え、主が取られたのだ。  
主のみ名はほむべきかな」  

初めてここを読んだ時の驚きを、わたしは忘れることができない。長い年月、ギプスベッドに釘づけされる中で、わたしは幾度この言葉を口ずさんだことであろう。


三浦さんは結核に侵され、脊椎カリエスになってしまい、13年だかのあいだをベッドに寝たきりの青春時代を生きたんですよね。回復の見込みや希望はまったくなく、そうした悲しい状態のなかで、苦しみの中にある自分の心の支えとして、ヨブのその篤い信仰心に打たれて、これを見習わねば、と思ったのかもしれません。


神が与え、神が取り給うのだ。神のなさることは、与えようと、取り去ろうと、すべてはよきことだ、とヨブは言うのである。 (これが信仰だ!)わたしはそう思い、どうせ神を信ずるなら、ここまで徹底した信仰を持たねばならぬと感動したものである。全くの話、すべては神が与えてくださるとすれば、すべては善いことなのだ。神は悪いことはなさらないお方なのだから。それが、人の目にはどのように見えようと、神のなさることはすばらしいはずなのだ。信仰とは信ずることだ。わたしは神を理屈で納得するのではなく、単純な信仰で信じたいと思っている。


「われわれは、神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」  
と答えたのである。わたしたちは、さまざまなことを神に祈り求める。聖書も、さまざまなことを神に祈るようにすすめている。が、わたしたちは、しばしば利己的な、一方的な願いだけに終わりやすい。わたしたちがもし、単に病気のいやし、商売の繁昌、家族の安全だけを祈って、神のがわからのすすめを斥けるとしたら、それは勝手な話であり、醜い姿といわなければならない。神の前に手を合わすには、もっと謙 で、無私で、清く、澄んでいなければならない。 「幸いだけは受ける、が災いは要らない」  
これが、わたしたち人間の、根深い本心ではあるが、まずこうした心を直してもらうように祈るべきであろう。そして、神への全き信頼を持つ時に、災いをさえ、心静かに受け取るのかもしれない。



後半、オリジナルの『ヨブ記』から転じて、それを読んだ三浦綾子さんが『ヨブ記』について語っている文章を引いて、ヨブ記の読解の参考とさせてもらいました。

以下、つづきます。







参考までに。
はじめて読んだのは、上の光文社文庫版。電子書籍での再読は、下の全集版で読んだりしています、わたし。