2006年01月02日
ブログ引越し?のお知らせ
今まで、ご訪問して下さった方ありがとうございます。諸事情により、当ブログは、しばらく休止させていただきます。
このブログの記事は私の他ブログの『歴史』カテゴリーに随時写して行く予定ですので、そちらの方にコメント&トラックバックしていただけると嬉しいです。
『一言居士!スペードのAの放埓手記』
こちらの方は、随時更新していく予定ですので、是非是非遊びに来てください。
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2005年12月15日
『映像の世紀〜第9集ベトナムの衝撃』感想です!!
今、司馬遼太郎の『歳月』を読んでいるのですが、結構面白いです。江藤新平や佐賀藩のことはあまり知らなかったので新しい切り口で幕末維新を見る事ができます。
今日は、『映像の世紀・第9集〜ベトナムの衝撃』の感想です。
いきなりケネディ大統領の再登場でこのドキュメントはつくづく時系列がメチャクチャです。主にベトナム戦争とアメリカ黒人問題について描かれております。
段々カラー映像も増えてきて、僧侶焼身自殺や路上での射殺の瞬間など今では考えられないほど残酷な映像もあります。ケネディ暗殺の瞬間もあります。一般的にジャクリーンは、ケネディの飛散した脳を集めようとしたと言われておりますが、単に逃げようとしただけという説もあります。映像を見る限りでは、どちらかよく分かりません。
黒人問題では、マーティン・ルーサー・キング牧師とマルコムXという対称的な黒人指導者が現れます。前者の”I have a dream.”に対し、後者の”The government is responsible!(政府が悪い!)”の決め台詞は攻撃的です。
ベトナム戦争は、よく分かりませんが、要は反共という理由で関係の無いアメリカが介入します。今のイラク戦争にしても、関係の無いことに首を突っ込むのが、アメリカの正義なのかもしれません。
兵器や国力では問題にならないのに、ジャングルでのゲリラ戦ではアメリカ兵は全くかないません。最終的にサイゴン陥落で、アメリカが負けるわけですから驚きま
す。
ロバート・ケネディやキング牧師の暗殺シーンでは、タイミングよく加古隆の『パリは燃えているか?』が流れ感動的な仕上がりとなっております。でも、ケネディの遺体をずっと撮影しているカメラマンもどうかと思いますが...
昔、ミッチーサッチー問題で、「サイレンスマジョリーティ」という言葉が話題になりましたが、あれはニクソン大統領の”the great silent majority”から来てるのだと思われます。国が分裂していては、北ベトナムになめられて、和解交渉が進まないから反戦デモを止めてくれと、ニクソンは「サイレント・マジョーリティ」に訴えかけたわけです。(ミッチーサッチー問題の場合は、単に関心が無かったというだけかもしれませんが...)
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今日は、『映像の世紀・第9集〜ベトナムの衝撃』の感想です。
いきなりケネディ大統領の再登場でこのドキュメントはつくづく時系列がメチャクチャです。主にベトナム戦争とアメリカ黒人問題について描かれております。
段々カラー映像も増えてきて、僧侶焼身自殺や路上での射殺の瞬間など今では考えられないほど残酷な映像もあります。ケネディ暗殺の瞬間もあります。一般的にジャクリーンは、ケネディの飛散した脳を集めようとしたと言われておりますが、単に逃げようとしただけという説もあります。映像を見る限りでは、どちらかよく分かりません。
黒人問題では、マーティン・ルーサー・キング牧師とマルコムXという対称的な黒人指導者が現れます。前者の”I have a dream.”に対し、後者の”The government is responsible!(政府が悪い!)”の決め台詞は攻撃的です。
ベトナム戦争は、よく分かりませんが、要は反共という理由で関係の無いアメリカが介入します。今のイラク戦争にしても、関係の無いことに首を突っ込むのが、アメリカの正義なのかもしれません。
兵器や国力では問題にならないのに、ジャングルでのゲリラ戦ではアメリカ兵は全くかないません。最終的にサイゴン陥落で、アメリカが負けるわけですから驚きま
す。
ロバート・ケネディやキング牧師の暗殺シーンでは、タイミングよく加古隆の『パリは燃えているか?』が流れ感動的な仕上がりとなっております。でも、ケネディの遺体をずっと撮影しているカメラマンもどうかと思いますが...
昔、ミッチーサッチー問題で、「サイレンスマジョリーティ」という言葉が話題になりましたが、あれはニクソン大統領の”the great silent majority”から来てるのだと思われます。国が分裂していては、北ベトナムになめられて、和解交渉が進まないから反戦デモを止めてくれと、ニクソンは「サイレント・マジョーリティ」に訴えかけたわけです。(ミッチーサッチー問題の場合は、単に関心が無かったというだけかもしれませんが...)
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2005年12月13日
皇女・和宮〜綾も錦も君ありてこそ
孝明天皇の妹にして14代将軍徳川家茂の妻であった皇女和宮(静寛院の宮)ほど数奇な運命を辿った姫君も少ないと思われます。
和宮6歳にして有栖川宮熾仁親王との婚約が決まっていました。公武合体の為、和宮を将軍家茂に降嫁させようと画策したのは、以外にも大老井伊直弼の謀臣長野主膳です。当初は、安政の大獄の最中、朝廷を抑えつける人質としての和宮降嫁は、井伊暗殺により、朝廷にお願いするという形での公武合体と意味合いが変わっていくのです。
異人(当時の外国人に対する蔑称)嫌いの孝明天皇は、終生佐幕攘夷を貫き通しました。そんな孝明天皇に、悲願である攘夷を実行するには、日本国内人心の一致が必要不可欠と、幕府は和宮降嫁を説得します。更には、寵臣岩倉具視も、朝権回復のため、和宮降嫁で幕府に恩を売っておくのが得策だと、孝明帝に囁くわけです。
孝明天皇は、婚約も決まっている妹を、異人の徘徊する江戸にやるなどとんでもない、かわいそうだと散々逡巡しますが、悲願の攘夷の為、泣く泣く和宮降嫁を勅許します。
これを聞いた和宮は、「尼になってもイヤだ!!」と突っぱねるのです。しかし、孝明天皇の譲位のほのめかしや、島田左近らの、受けなければ実母が処刑されるといった噂を流す工作により、和宮もこれを受けるに至ったのです。
「御いや様の御事ながら、御上の為と思召、関東へ参らせ候〜」
「天下泰平の為、誠にいやいやの事、余儀なく御うけ申し上げ候」と、本当にイヤだったみたいです。
孝明天皇は和宮に対し、「家茂に攘夷をすすめよ」との手紙を渡して江戸に送り出しました。言ってみれば和宮は、単に家茂に輿入れしたわけではなく、時の天皇より重大な使命を帯びた「攘夷お姫様」だったわけです。
中山道を通っての和宮の大行列は、島崎藤村の『夜明け前』にも詳しく描かれております。
大奥に入った和宮を待っていたのは、御所と江戸の文化の違いより生じる軋轢、そして前将軍御台所の天璋院でした。一方、家茂との仲は、琴瑟相和すといわれており、和宮は家茂上洛の度にお百度を踏んでいたといいます。
和宮が大奥で苦労している間、時勢を移ろい、日に日に徳川家はその勢力を衰退させていきます。長州征伐の最中、大坂城で若い命を散らした家茂に対し詠まれたのが、
空蝉の唐織ごろもなにかせむ
綾も錦も君ありてこそ
の一句と言われております。家茂の遺骸と共に、頼んでいた土産・西陣織が届いたそうです。
家茂亡き後、和宮に残されたのは、『攘夷』しかありませんでした。和宮は新将軍徳川慶喜に対し、攘夷督促の手紙を送ります。しかし、当時慶喜は大久保一蔵(利通)との暗闘・朝廷工作に忙しく、攘夷お姫様の時代錯誤な手紙に返事すら出しませんでした。
兵庫開港問題では、「決して王城近海へ異人近寄り候事などこれなき様」との和宮の手紙に慶喜は兵庫開港決定をもって応えたわけです。
家茂も攘夷も失った和宮は、朝廷よりの打診もあり、京都へ戻ろうかと思っていた矢先に、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の戦いと怒涛のごとく時勢は急転し、慶喜が朝敵として江戸に戻ってきたわけです。
こうなると和宮の存在が大きくなっていきます。和宮は、勝海舟にとっては最強のカード、岩倉具視にとっては致命的なアキレス腱となるのです。
慶喜から朝廷への取り成しを依頼された和宮は、「此度の一件は兎も角も慶喜是れ迄重々不行届の事故、慶喜一身は何様にも仰せ付けられ〜」と、慶喜の命はどうでもいいが、何卒徳川家の家名を残してくれるよう官軍に頼み込みます。
「私事も当家滅亡を見つつながらへ居り候も残念に候まゝ、急度覚悟致し候所存に候」と、徳川家滅亡のさいには自害するしかないとも言っております。
当時西郷隆盛は、「(慶喜)是非切腹、静寛院(和宮)と申しても矢張り賊の一味〜」と、強行姿勢を崩しておりません。
和宮は既に上野寛永寺に謹慎している慶喜に対し、「さらに恭順を厳守すべき」と指示を出しております。
和宮は、官軍への手紙に「昭徳院殿(家茂)故ならどうなっても仕方ないと諦めもつくが、慶喜の為に朝敵となって命を捨てるとあっては御父帝様玉体を御汚し申し上げ不孝の至り」と、朝廷と徳川の板挟みへの苦衷を訴えるわけです。
結局、西郷と勝の談判により、徳川家は残り、和宮も自害することは無かったわけです。その後、和宮は京都にも戻り、平穏に暮らすわけですが、1877年・32歳で病死しております。
この長い雑文で、私が何を言いたかったというと、「女性からの手紙には、きちんと返事を書いた方が良い」という事です。
和宮6歳にして有栖川宮熾仁親王との婚約が決まっていました。公武合体の為、和宮を将軍家茂に降嫁させようと画策したのは、以外にも大老井伊直弼の謀臣長野主膳です。当初は、安政の大獄の最中、朝廷を抑えつける人質としての和宮降嫁は、井伊暗殺により、朝廷にお願いするという形での公武合体と意味合いが変わっていくのです。
異人(当時の外国人に対する蔑称)嫌いの孝明天皇は、終生佐幕攘夷を貫き通しました。そんな孝明天皇に、悲願である攘夷を実行するには、日本国内人心の一致が必要不可欠と、幕府は和宮降嫁を説得します。更には、寵臣岩倉具視も、朝権回復のため、和宮降嫁で幕府に恩を売っておくのが得策だと、孝明帝に囁くわけです。
孝明天皇は、婚約も決まっている妹を、異人の徘徊する江戸にやるなどとんでもない、かわいそうだと散々逡巡しますが、悲願の攘夷の為、泣く泣く和宮降嫁を勅許します。
これを聞いた和宮は、「尼になってもイヤだ!!」と突っぱねるのです。しかし、孝明天皇の譲位のほのめかしや、島田左近らの、受けなければ実母が処刑されるといった噂を流す工作により、和宮もこれを受けるに至ったのです。
「御いや様の御事ながら、御上の為と思召、関東へ参らせ候〜」
「天下泰平の為、誠にいやいやの事、余儀なく御うけ申し上げ候」と、本当にイヤだったみたいです。
孝明天皇は和宮に対し、「家茂に攘夷をすすめよ」との手紙を渡して江戸に送り出しました。言ってみれば和宮は、単に家茂に輿入れしたわけではなく、時の天皇より重大な使命を帯びた「攘夷お姫様」だったわけです。
中山道を通っての和宮の大行列は、島崎藤村の『夜明け前』にも詳しく描かれております。
大奥に入った和宮を待っていたのは、御所と江戸の文化の違いより生じる軋轢、そして前将軍御台所の天璋院でした。一方、家茂との仲は、琴瑟相和すといわれており、和宮は家茂上洛の度にお百度を踏んでいたといいます。
和宮が大奥で苦労している間、時勢を移ろい、日に日に徳川家はその勢力を衰退させていきます。長州征伐の最中、大坂城で若い命を散らした家茂に対し詠まれたのが、
空蝉の唐織ごろもなにかせむ
綾も錦も君ありてこそ
の一句と言われております。家茂の遺骸と共に、頼んでいた土産・西陣織が届いたそうです。
家茂亡き後、和宮に残されたのは、『攘夷』しかありませんでした。和宮は新将軍徳川慶喜に対し、攘夷督促の手紙を送ります。しかし、当時慶喜は大久保一蔵(利通)との暗闘・朝廷工作に忙しく、攘夷お姫様の時代錯誤な手紙に返事すら出しませんでした。
兵庫開港問題では、「決して王城近海へ異人近寄り候事などこれなき様」との和宮の手紙に慶喜は兵庫開港決定をもって応えたわけです。
家茂も攘夷も失った和宮は、朝廷よりの打診もあり、京都へ戻ろうかと思っていた矢先に、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の戦いと怒涛のごとく時勢は急転し、慶喜が朝敵として江戸に戻ってきたわけです。
こうなると和宮の存在が大きくなっていきます。和宮は、勝海舟にとっては最強のカード、岩倉具視にとっては致命的なアキレス腱となるのです。
慶喜から朝廷への取り成しを依頼された和宮は、「此度の一件は兎も角も慶喜是れ迄重々不行届の事故、慶喜一身は何様にも仰せ付けられ〜」と、慶喜の命はどうでもいいが、何卒徳川家の家名を残してくれるよう官軍に頼み込みます。
「私事も当家滅亡を見つつながらへ居り候も残念に候まゝ、急度覚悟致し候所存に候」と、徳川家滅亡のさいには自害するしかないとも言っております。
当時西郷隆盛は、「(慶喜)是非切腹、静寛院(和宮)と申しても矢張り賊の一味〜」と、強行姿勢を崩しておりません。
和宮は既に上野寛永寺に謹慎している慶喜に対し、「さらに恭順を厳守すべき」と指示を出しております。
和宮は、官軍への手紙に「昭徳院殿(家茂)故ならどうなっても仕方ないと諦めもつくが、慶喜の為に朝敵となって命を捨てるとあっては御父帝様玉体を御汚し申し上げ不孝の至り」と、朝廷と徳川の板挟みへの苦衷を訴えるわけです。
結局、西郷と勝の談判により、徳川家は残り、和宮も自害することは無かったわけです。その後、和宮は京都にも戻り、平穏に暮らすわけですが、1877年・32歳で病死しております。
この長い雑文で、私が何を言いたかったというと、「女性からの手紙には、きちんと返事を書いた方が良い」という事です。


2005年12月09日
その時歴史が動いた〜山本五十六
旧日本軍の軍人が評価されることはまずありませんが、比較的冷静で客観的な内容だったと思います。
山本五十六の写真をはじめて見ましたが、その穏やかで紳士的な風貌は真珠湾奇襲を立案・実行した軍神というよりも、生徒から慕われている田舎の分校の校長先生といった感じでした。
日露戦争にも参戦している山本は、駐米武官としてアメリカを視察します。摩天楼・膨大な石油・自動車の大量生産...どれをとってもまるで別天地で、目も眩むばかりの思いだったかもしれません。
山本にとって、対米戦論は、亡国論と変わらなかったでしょう。
アメリカとの軍縮会議で5:3の軍艦建造比率に憤る多くの軍部を尻目に、山本は、「これは日本を3に抑えているわけではなく、アメリカを5に抑えているんだ。国力の差からいえば、10:1になる」と軍縮に賛成します。
しかし、当時の情勢では、山本の意見が受け入れられるはずもありません。
日独伊三国軍事同盟にも反対する山本は、過激派に命を狙われ、遺書まで書いています。「この三国同盟が成立したら、東京は3度くらい丸焼けになる」という山本の卓見も受け入れられることはありませんでした。
アメリカの経済制裁に日本は、対英米戦已む無しかと追い詰められます。当時、連合艦隊司令長官だった山本五十六は真珠湾奇襲を立案するわけです。
当時の軍部の大勢は、日本海でアメリカ軍を待ち受けるというものでした。しかし、国力の差から長期戦では勝ち目が無いと踏んだ山本は、奇襲でアメリカに壊滅的な打撃を与え、戦意を喪失させる作戦に出るわけです。
しかし、本人も鵯越だの桶狭間だのと言っている通り、成功の見込みの薄い博打のような作戦に思われます。
山本も本当はこんな事はしたく無かったわけで、最後まで日米交渉の行方を見守るのです。
真珠湾奇襲成功に湧き立つ将兵に対し、山本は暗くうつむいていたといいます。その後の山本は、部下の反対も押し切り、すすんで前線に赴き、戦死するのです。
日米交渉をみていると、アメリカは一切の妥協を示さず、交渉する気があるとはとても思えません。日本の全ての利権を放棄せよとは、被占領国の中国や朝鮮に言われるならともかく、当時フィリピンを占領していたアメリカが言うことではないと思います。
あと、大戦中、旧日本軍の暗号は、ほとんど米軍に漏れていたという話を聞いたことがあります。何故、アメリカは最も重要な「ニイタカヤマノボレ」を傍受できなかったのでしょうか?
一説によるとルーズベルトは、真珠湾奇襲を知っていたが、対日参戦の国民の支持を得るためにわざと見捨てたというものがあります。つかこうへいの『広島に原爆を落とす日』は、この説によって書かれています。
山本五十六は、新潟県長岡市の出身です。長岡といえば、勝てないと分かっていて官軍と開戦した河合継乃介を思い出しますが、山本の祖父も北越戦争で戦死しているそうです。
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山本五十六の写真をはじめて見ましたが、その穏やかで紳士的な風貌は真珠湾奇襲を立案・実行した軍神というよりも、生徒から慕われている田舎の分校の校長先生といった感じでした。
日露戦争にも参戦している山本は、駐米武官としてアメリカを視察します。摩天楼・膨大な石油・自動車の大量生産...どれをとってもまるで別天地で、目も眩むばかりの思いだったかもしれません。
山本にとって、対米戦論は、亡国論と変わらなかったでしょう。
アメリカとの軍縮会議で5:3の軍艦建造比率に憤る多くの軍部を尻目に、山本は、「これは日本を3に抑えているわけではなく、アメリカを5に抑えているんだ。国力の差からいえば、10:1になる」と軍縮に賛成します。
しかし、当時の情勢では、山本の意見が受け入れられるはずもありません。
日独伊三国軍事同盟にも反対する山本は、過激派に命を狙われ、遺書まで書いています。「この三国同盟が成立したら、東京は3度くらい丸焼けになる」という山本の卓見も受け入れられることはありませんでした。
アメリカの経済制裁に日本は、対英米戦已む無しかと追い詰められます。当時、連合艦隊司令長官だった山本五十六は真珠湾奇襲を立案するわけです。
当時の軍部の大勢は、日本海でアメリカ軍を待ち受けるというものでした。しかし、国力の差から長期戦では勝ち目が無いと踏んだ山本は、奇襲でアメリカに壊滅的な打撃を与え、戦意を喪失させる作戦に出るわけです。
しかし、本人も鵯越だの桶狭間だのと言っている通り、成功の見込みの薄い博打のような作戦に思われます。
山本も本当はこんな事はしたく無かったわけで、最後まで日米交渉の行方を見守るのです。
真珠湾奇襲成功に湧き立つ将兵に対し、山本は暗くうつむいていたといいます。その後の山本は、部下の反対も押し切り、すすんで前線に赴き、戦死するのです。
日米交渉をみていると、アメリカは一切の妥協を示さず、交渉する気があるとはとても思えません。日本の全ての利権を放棄せよとは、被占領国の中国や朝鮮に言われるならともかく、当時フィリピンを占領していたアメリカが言うことではないと思います。
あと、大戦中、旧日本軍の暗号は、ほとんど米軍に漏れていたという話を聞いたことがあります。何故、アメリカは最も重要な「ニイタカヤマノボレ」を傍受できなかったのでしょうか?
一説によるとルーズベルトは、真珠湾奇襲を知っていたが、対日参戦の国民の支持を得るためにわざと見捨てたというものがあります。つかこうへいの『広島に原爆を落とす日』は、この説によって書かれています。
山本五十六は、新潟県長岡市の出身です。長岡といえば、勝てないと分かっていて官軍と開戦した河合継乃介を思い出しますが、山本の祖父も北越戦争で戦死しているそうです。
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