2008年09月29日

34-14.大正15年特急列車転覆大惨事鉄道遭難者追悼塔

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建立者/鉄道遭難者追悼塔設立発起人会
建立年/昭和2年11月23日開眼式
写真提供/砂防ボランティア広島県協会



 大正15年(1926)9月11日と23日の二度にわたり畑賀村、中野村は集中豪雨に見舞われた。
 11日に畑賀村では死者36人、田畑流失という大災害が発生し、23日には山陽本線中野駅西方300m地点で東京發下関行三等特急列車(一部二等車連結)が転覆し、死者36人重軽傷者39人という大惨事が発生している。
 死亡者名には、上野篤鹿児島市長(45才)同篤孝(5才)親子、東洋捕鯨会社のノルウエー人(50才)、日本メソチスト教會傅導局長、海軍関係者、鉄道関係者等々の名がみえる。
 この刹那を目撃し、負傷者を第一に救助した中野村消防小頭秦豊吉(44才)の談に、「雨と共に刻々と畑賀川が増水し、また大洪水のおそれがあるので、(中略)午前三時すぎ畑賀鐵橋の所まで来るとすでに上方の假堤防は崩壊し、線路に沿った水害地は大きな池となり、鐵橋に押し寄せる水は、橋桁に白波を跳ねていたが、間もなく上り貨物列車が通過したので前方中野駅の方に歩いて行くと、線路堤防が二間(約3.6m)流出しているので危険だと思う間もなく、特急列車が轟々と募進して来たので、私は危険―危険と兩手をあげて大聲で叫びつゝ、(中略)その刹那實に間一髪の際堤は再び崩落流出したのと、列車が突入顛覆したのと同時でした。私は堤を駆け下り、救助の聲を頼りに數名助け出したのですが、(後略)」とある。
 また、機関助手として乗車していた井上栄一氏(平成3年当時88才で山口県大島町に健在)は「思い出したくない大惨事である、当日は朝から豪雨であったが徐行の連絡は入っていなかったので時速80キロで瀬野駅を通過し、中野の一里塚のカーブで上り貨物列車と出会たので、事故前二分までは豪雨のために土砂流出はなかったと思う。ゴトンと音がしたかと思うと頭を強く打たれ、そのまま気を失い気がついた時、列車は脱線転覆し機関手と同僚の助手と折り重なっていた。(中略)当時の新聞記事や記録では、列車転覆事故は午前三時頃となっているが、私の記憶では広島駅に六時で事故は五時四五分頃死亡原因は上手から押流されて来た濁流のためにおおくの溺死者がでたのではないかと思っている。(後略)」と語っている。
 この遭難者の遺体が専念寺境内に収容安置され、10月3日には追弔会が執行されている。
 こうしたことから当境内に鐵道遭難者追弔塔が建立され、犠牲者を永久に弔うこととなった。
 同年11月の鐵道遭難者追弔塔建立發起人会(發起人總代は縣會議員肥田辰之介、村長三戸松登他25名)で、以下のとおり設立方針が決定された。
 ○仏像は青銅製  ○台石は花崗石  ○全高一丈五尺五寸 仏像高九尺五寸 台石九尺 幅石九尺  
 ○敷地面積は三坪  ○碑文は専念寺十四世静雄住職
 建立資金は鉄道省、門信徒の賛助を受けることと遭難記念絵葉書(八枚組)頒布利益金を充当と決定し、収入5,987円16銭、支出5,466円20銭、残金520円96銭となっている。

(「専念寺」(専念寺が修復記念として平成3年発行の本)から引用)


spc_mapping at 12:00│Comments(0)TrackBack(0) 昭和元年〜 | 砂防ボランティア広島県協会

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