滋賀県砂防課
2008年06月27日
25-3.昭和水難之碑
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建立者/多羅尾自治会
建立年/昭和32年8月15日
写真提供/滋賀県 砂防課
昭和28年8月15日未明、滋賀県信楽町の多羅尾地区を豪雨が襲った。多羅尾地区は急峻な地形であるところから各所で山津波が発生。大規模な土石流となって貴生川から多羅尾に至る一帯は土砂で埋まってしまった。雨量については300ミリとも400ミリともいわれるが、彦根測候所の雨量計は300ミリまでしかなく、正確な雨量はわかっていない。
この災害での多羅尾地区の被害は、死名44名、重軽傷者約130名、家屋の全半壊72戸という甚大なもので、田畑や遠路はほとんど全滅であった。災害から5年が経った昭和32年8月、地元自治会が復興を記念してこの石碑を建立した。
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建立者/多羅尾自治会
建立年/昭和32年8月15日
写真提供/滋賀県 砂防課
昭和28年8月15日未明、滋賀県信楽町の多羅尾地区を豪雨が襲った。多羅尾地区は急峻な地形であるところから各所で山津波が発生。大規模な土石流となって貴生川から多羅尾に至る一帯は土砂で埋まってしまった。雨量については300ミリとも400ミリともいわれるが、彦根測候所の雨量計は300ミリまでしかなく、正確な雨量はわかっていない。
この災害での多羅尾地区の被害は、死名44名、重軽傷者約130名、家屋の全半壊72戸という甚大なもので、田畑や遠路はほとんど全滅であった。災害から5年が経った昭和32年8月、地元自治会が復興を記念してこの石碑を建立した。
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25-2.砂防恩碑
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建立者/滋賀県
建立年/昭和19年3月
写真提供/滋賀県 砂防課
滋賀県の旧甲西町公民館の前庭には2つの大きな石碑がひっそりと佇んでいる。この2つの石碑のうち、大きい方が砂防恩碑である。
昭和19年3月に建立された石碑には、明治44年から33年間にわたって行われた砂防事業に対する感謝の思いが刻まれており、この地域での砂防の歴史を物語っている。
もう一方の造林の碑と、この砂防の碑が一体となって建てられていることを考えると、当時の人々が造林以上のものとして砂防に感謝の思いを抱いていたことが思い偲ばれる。そしてこの思いは現在、はげ山に緑を取り戻すための山腹工に受け継がれている。
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建立者/滋賀県
建立年/昭和19年3月
写真提供/滋賀県 砂防課
滋賀県の旧甲西町公民館の前庭には2つの大きな石碑がひっそりと佇んでいる。この2つの石碑のうち、大きい方が砂防恩碑である。
昭和19年3月に建立された石碑には、明治44年から33年間にわたって行われた砂防事業に対する感謝の思いが刻まれており、この地域での砂防の歴史を物語っている。
もう一方の造林の碑と、この砂防の碑が一体となって建てられていることを考えると、当時の人々が造林以上のものとして砂防に感謝の思いを抱いていたことが思い偲ばれる。そしてこの思いは現在、はげ山に緑を取り戻すための山腹工に受け継がれている。
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2008年06月26日
25-1.砂防工事記念碑(宇曽川上流域)
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建立者/不明
建立年/大正元年
写真提供/滋賀県 砂防課
琵琶湖に流入する、宇曽川の上流域の山々は、古くから樹木が育成・繁茂せず荒廃が進んでいた。このため、土石の流出が著しく、度々氾濫を繰り返す「暴れ川」であった。
これに対し、明治23年に砂防工事が始められた。山腹工には、地元泰荘町の砂防の先人、西川作平が発見・推奨したヒメヤシャブシが主として用いられ、黒松との混植により成功をおさめたのである。石碑は、宇曽川砂防工事竣工を記念して、大正元年建立されたものであり、今日では見事な緑の山が復活している。
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建立者/不明
建立年/大正元年
写真提供/滋賀県 砂防課
琵琶湖に流入する、宇曽川の上流域の山々は、古くから樹木が育成・繁茂せず荒廃が進んでいた。このため、土石の流出が著しく、度々氾濫を繰り返す「暴れ川」であった。
これに対し、明治23年に砂防工事が始められた。山腹工には、地元泰荘町の砂防の先人、西川作平が発見・推奨したヒメヤシャブシが主として用いられ、黒松との混植により成功をおさめたのである。石碑は、宇曽川砂防工事竣工を記念して、大正元年建立されたものであり、今日では見事な緑の山が復活している。
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2008年06月25日
25-4.砂防百年の碑
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建立者/建設省琵琶湖工事事務所
建立年/昭和49年11月8日
写真提供/滋賀県 砂防課
万葉の時代にはヒノキ、スギ、カシの美しい林を持っていた滋賀県田上山は、江戸時代末期になると、「東西に一里半、南北に一里、一本の木もなし」といわれるほど、荒廃がすすんだ。
明治5年(1872年)滋賀県が、続いて明治11年には国が施工する砂防事業に着手し、120年を経過して、ようやく山に緑が回復されたのである。
この田上山を流れる瀬田川を含む淀川水系の治水工事は、明治政府がオランダからヨハネス・デ・レーケなど、治水技師を招きその指導のもとに着手してから、昭和49年(1974年)に100年を迎えた。
これを記念して、大津市枝の田上公園入口に「砂防百年」の記念碑が建てられた。
先人の努力を讃え、偉大な業績を後世に伝えるものである。
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建立者/建設省琵琶湖工事事務所
建立年/昭和49年11月8日
写真提供/滋賀県 砂防課
万葉の時代にはヒノキ、スギ、カシの美しい林を持っていた滋賀県田上山は、江戸時代末期になると、「東西に一里半、南北に一里、一本の木もなし」といわれるほど、荒廃がすすんだ。
明治5年(1872年)滋賀県が、続いて明治11年には国が施工する砂防事業に着手し、120年を経過して、ようやく山に緑が回復されたのである。
この田上山を流れる瀬田川を含む淀川水系の治水工事は、明治政府がオランダからヨハネス・デ・レーケなど、治水技師を招きその指導のもとに着手してから、昭和49年(1974年)に100年を迎えた。
これを記念して、大津市枝の田上公園入口に「砂防百年」の記念碑が建てられた。
先人の努力を讃え、偉大な業績を後世に伝えるものである。
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