長野県
2009年04月13日
20-48.慰霊碑(上松町)
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建立者/上松町消防団
建立年/昭和35年7月20日
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
古沢幸雄君
昭和二十八年七月二十日
豪雨のため十王沢氾濫
家屋流失三、半壊三の被害あり
君は水防作業中、此の地にて殉職
その遺徳を顕彰し全消防団員により建立
昭和三十五年七月二十日
上松町消防団
建立者/上松町消防団
建立年/昭和35年7月20日
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
古沢幸雄君
昭和二十八年七月二十日
豪雨のため十王沢氾濫
家屋流失三、半壊三の被害あり
君は水防作業中、此の地にて殉職
その遺徳を顕彰し全消防団員により建立
昭和三十五年七月二十日
上松町消防団
20-47.震災慰霊碑(王滝村)
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建立者/王滝村
建立年/昭和60年9月
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
王滝村は霊峰木曽御嶽山の岳麓に在りて、山高く、水清き景勝の地として其の名諸方に冠絶せり。しかるに突如長野県西部大地震が起こったのは、昭和59年9月14日午前8時48分のことである。
一瞬にして山は崩れ、谷は埋まり、家は傾き、道壮絶する惨状を呈した。
殊に別記する29名の諸子は、襲来せる濁流によって尊き生命を失い、誠に人生は朝露の如き感を深くしたものである。
ここに再び、秋風の声を聞き一年を迎えるに当たり、慰霊碑を建立して一つには諸子の霊を慰め、一つにはこの地の鎮めとして永久に霊峰の雲端に聳え清流の間断なく人心を潤さんことを願うものである。
昭和60年9月14日
長野県西部地震殉難者慰霊碑建立実行委員会
願主 大滝村長 家高卓郎
建立者/王滝村
建立年/昭和60年9月
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
王滝村は霊峰木曽御嶽山の岳麓に在りて、山高く、水清き景勝の地として其の名諸方に冠絶せり。しかるに突如長野県西部大地震が起こったのは、昭和59年9月14日午前8時48分のことである。
一瞬にして山は崩れ、谷は埋まり、家は傾き、道壮絶する惨状を呈した。
殊に別記する29名の諸子は、襲来せる濁流によって尊き生命を失い、誠に人生は朝露の如き感を深くしたものである。
ここに再び、秋風の声を聞き一年を迎えるに当たり、慰霊碑を建立して一つには諸子の霊を慰め、一つにはこの地の鎮めとして永久に霊峰の雲端に聳え清流の間断なく人心を潤さんことを願うものである。
昭和60年9月14日
長野県西部地震殉難者慰霊碑建立実行委員会
願主 大滝村長 家高卓郎
20-46.◆36災◆ 災害移住記念碑
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建立者/中川村
建立年/
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
昭和36年6月27日豪雨大災害に遭い集団移住特別処置法に基き四徳の耕地宅地を一括買い上げ四徳部落は四百年余の歴史に名残を告げ全戸他へ移住せり時に由緒ある先のものと共有地とし存置す
四徳神社境内及山林
七十五社山の神跡山林
湯之権現境内及山林
剣滝不動尊境内及山林
右管理者を后記委員五名
中 川 村 長
建立者/中川村
建立年/
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
昭和36年6月27日豪雨大災害に遭い集団移住特別処置法に基き四徳の耕地宅地を一括買い上げ四徳部落は四百年余の歴史に名残を告げ全戸他へ移住せり時に由緒ある先のものと共有地とし存置す
四徳神社境内及山林
七十五社山の神跡山林
湯之権現境内及山林
剣滝不動尊境内及山林
右管理者を后記委員五名
中 川 村 長
20-45.◆36災◆ 四徳学校蹟
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建立者/四徳学校同窓会
建立年/昭和49年5月3日
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
明治6年9月1日第23区一小区四徳三楽学校として開校し昭和36年6月未曾有の梅雨前線の大災害を受け部落全住民集団移住により閉校するまで約一世紀に及ぶ四徳住民を育てた教学の場所である学校跡に碑を建て之を記念する
昭和四十九年五月三日
四徳学校同窓会建之
建立者/四徳学校同窓会
建立年/昭和49年5月3日
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
明治6年9月1日第23区一小区四徳三楽学校として開校し昭和36年6月未曾有の梅雨前線の大災害を受け部落全住民集団移住により閉校するまで約一世紀に及ぶ四徳住民を育てた教学の場所である学校跡に碑を建て之を記念する
昭和四十九年五月三日
四徳学校同窓会建之
20-44.◆36災◆ 復興記念碑(中川村)
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建立者/中川村
建立年/昭和56年6月
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
昭和36年6月27日伊那谷を襲った梅雨前線豪雨は史実伝承をこえる未曾有の災禍を招いた。前線は台風6号の影響も加わって活発になり伊那谷は朝から強雨域に包まれ飯田測候所は翌朝6時までに325ミリの雨量を記録した。村内の大小河川はことごとく氾濫し山は崩れ谷をつぶし橋を流し田畑を埋め家や尊い人命まで奪った。
災害による死者18名、全壊又は流失家屋97戸、被災者465名、住建物半壊53戸、浸水家屋164戸、農耕地の流失埋没405ヘクタール、土木耕地林務の被害額25億円余。国は直ちに災害救助法を適用し村は災害対策本部を設けて救助活動と復旧工事に着手した。
早期復旧の施策により再建は着々と進んだ。しかし生活の基盤を失い墳墓の地を捨てた四徳部落の全戸移住をはじめ156世帯が村外移住を余儀なくされた。
あれから20年緑豊かに蘇ったこの村にあの爪痕の面影はない。しかし今日ある姿は国県をはじめ各方面から寄せられた指導援助と村人のたゆまぬ努力の結果である。
ここに災害二十周年を迎えるに当たり往時を偲び犠牲者の冥福を祈ると共に復旧に献身された方々の功徳を顕彰しこの碑を建てる。
昭和五十六年六月二七日 中 川 村
建立者/中川村
建立年/昭和56年6月
写真提供/長野県砂防ボランティア協会
<碑文>
昭和36年6月27日伊那谷を襲った梅雨前線豪雨は史実伝承をこえる未曾有の災禍を招いた。前線は台風6号の影響も加わって活発になり伊那谷は朝から強雨域に包まれ飯田測候所は翌朝6時までに325ミリの雨量を記録した。村内の大小河川はことごとく氾濫し山は崩れ谷をつぶし橋を流し田畑を埋め家や尊い人命まで奪った。
災害による死者18名、全壊又は流失家屋97戸、被災者465名、住建物半壊53戸、浸水家屋164戸、農耕地の流失埋没405ヘクタール、土木耕地林務の被害額25億円余。国は直ちに災害救助法を適用し村は災害対策本部を設けて救助活動と復旧工事に着手した。
早期復旧の施策により再建は着々と進んだ。しかし生活の基盤を失い墳墓の地を捨てた四徳部落の全戸移住をはじめ156世帯が村外移住を余儀なくされた。
あれから20年緑豊かに蘇ったこの村にあの爪痕の面影はない。しかし今日ある姿は国県をはじめ各方面から寄せられた指導援助と村人のたゆまぬ努力の結果である。
ここに災害二十周年を迎えるに当たり往時を偲び犠牲者の冥福を祈ると共に復旧に献身された方々の功徳を顕彰しこの碑を建てる。
昭和五十六年六月二七日 中 川 村