June 26, 2016

ビブリオバトルに参加(ドナルド・キーン著「私が日本人になった理由」)

岩手県立図書館でビブリオバトルが開かれた。僕は今回、バトラーとして2回目の参加。ドナルド・キーン著「私が日本人になった理由」をバトラー本として紹介した。5分間のスピーチ、そして3分間のディスカッションである。以下は、スピーチ原稿である。



今回、紹介する本は、「私が日本人になった理由 日本語に魅せられて」という本です。
著者は日本文学者のドナルド・キーンです。

昨年、NHKスペシャルで「私が愛する日本人 ドナルド・キーン 文豪との70年」という番組が放送されました。昨年は戦後70年ということで、あらためて日本人とは何か、ということが問われていました。日本人とは何かを生涯のテーマとして追及してきたドナルド・キーンさんを番組では紹介していました。
キーンさんが日本文学と出会い、日本のことを真剣に考えるようになっていった人生を知ったとき、ひじょうに惹かれるものがありました。
 それで、ドナルド・キーンさんの本を読むことになったのです。

 ドナルド・キーンは、ニューヨーク生まれで、子どもの頃、日本のことは全く知らない生活を送っていました。第二次世界大戦がはじまり、ナチスドイツがヨーロッパじゅうに進出していた頃、アメリカでも戦争の影がしのびよってきて、不安の日々を送っていました。そんな時、18歳のキーンさんは、ニューヨークの古本屋で、偶然、英語訳の「源氏物語」を手にします。「源氏物語」を読むと、戦争とは無縁のきらびやかな世界が描かれていました。「こんなに美しい国があったのか」と日本への憧れを抱きます。
 キーンさんは、コロンビア大学に進学して、文学を専攻します。そこで日系アメリカ人の教授、角田柳作先生のもとで日本文学を学びます。そんなとき、太平洋戦争がはじまり、アメリカと日本は戦争をすることになります。

 キーンさんは、海軍に入り、日本語の通訳、翻訳の仕事をします。戦争に従軍して、日本兵が自ら命を断つ現実に出会います。「源氏物語」に出てくる日本人とは全く違う日本人の実際の姿にショックを受けます。日本兵が記した日記の翻訳を行い、日本人の生の声を聴くことになります。自ら命を捨てるのが日本兵と思っていましたが、日記に書かれている文章からは、仲間を思いやる温かい気持ちが伝わってきたといいます。戦争を通して、さまざまな日本人の姿をキーンさんはみます。
 終戦直後の日本を訪れ、廃墟となった東京を見て、アメリカと日本との戦争の事実に向かい合います。戦後は、京都大学に留学。実際に狂言を演じたり、京都の文化を学びます。三島由紀夫、川端康成など日本の作家と交流を深め、日本文学を次々と英語に翻訳して、世界に日本文学を紹介する仕事をしていきます。
 ドナルド・キーンさんの眼からみた日本人、日本文化が、とても新鮮で、キーンさんを通して日本を見つめることができます。キーンさんが日本と出会い、日本への思索を深めていった歩みはじつに感動的です。

今回は、最初にドナルド・キーンの本に入るのに、とても読みやすくて入りやすい本を紹介することにしました。
この「私が日本人になった理由」という本には、キーンさんから見た日本の美しさ、そして、日本人へのメッセージが簡潔に記されています。

 この本のなかで、キーンさんは、銀閣寺について書いています。
先日、仕事で京都に行く機会がありました。仕事の合間をぬって、銀閣寺に足を運びました。
 キーンさんによると、銀閣こそが、日本文化を象徴しているお寺だと言います。銀閣は室町時代、足利義政によって建てられたお寺です。足利義政は、芸術を愛する将軍で東山文化をつくりあげました。東山文化によって、いま言われている日本的なもの、日本文化というものが生み出されたとキーンさんはいいます。
 建築では、畳をしきつめた部屋や障子、床の間など和室の基本的な形がつくられました。他に生け花や茶の湯、墨絵も東山文化です。東山文化の集大成が銀閣です。
 今回、銀閣寺を訪れて、質素ではあるけれども、奥が深く味わいのある日本文化を肌で感じました。キーンさんの本を読んでいたからこそ、銀閣の美しさを感じとることができたのだと思います。

ドナルド・キーンさんの本を読んで思うことは、日本人である私が、日本文化をあまり理解していなかったということを学ぶのです。そして、日本文化がとても美しく、意味あるものということをキーンさんの眼を通して学ぶことができました。

アメリカ人日本文学研究者の眼を通した日本の姿を知ることで、世界のなかの日本のあり方も見えてくるようで、とても参考になります。
ドナルド・キーンさんの「私が日本人になった理由」をお勧めします。そして、この本を入り口にして、ドナルド・キーンさんの著作の世界に入っていくと、日本について、つまり私たちの国のことが、あらためて見つめ直すことができるようになると思います。「私が日本人になった理由」をぜひ一度、手に取って読んでほしいと思います。


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June 19, 2016

銀閣寺を訪れる

 今回の京都旅行は、日本言語聴覚学会京都大会の参加が目的である。仕事のために京都に来たのだけれども、寺を見てまわるのも自分のもうひとつの勉強と位置づけている。今回、銀閣寺の見学をいちばんの目玉としていた。

昨年、NHKテレビの戦後七十年特集のなかで、ドナルド・キーンを取り上げていた。その番組を見て、僕はドナルド・キーンのファンとなった。以来、ドナルド・キーンの著作に取り組むことになった。
ドナルド・キーンは足利義政に焦点をあてた研究を残している。足利義政が築いた東山文化は、現代につながる日本文化の根底となったとキーン氏はいう。畳を敷き詰めた部屋や障子、違い棚や床の間といった和室の様式は、東山文化によってつくられた。さらに、生け花、茶道、墨絵も東山文化を起源としているという。その東山文化の代表作といえるのが慈照寺、すなわち銀閣である。

今回の京都旅行の準備として、「足利義政と銀閣寺」(ドナルド・キーン著 中公文庫)を読んだ。足利義政が東山文化をつくりあげていった過程、慈照寺の成立が詳しく書かれている。花道、茶道、連歌、能が東山文化で生み出されていった様子も記されている。ドナルド・キーンは、銀閣に惚れ込み、「銀閣こそが日本文化だ、日本の美の原点」と主張する。その本の巻末には、日本中世史を専門とする東京大学教授、本郷和人氏の解説が載せられている。本郷氏は銀閣寺を見て、現在の私たちの生活には、床の間のある家は少なく、日々仕事に追われるなかで、お茶やお花は縁遠い存在と言う。
ドナルド・キーン氏と本郷和人氏の見方は対照的である。果たして、僕の眼にはどう映るのか。いくら本を読んだり、考えてもわかるものではない。実際に、その場に行って、現物を見て、肌で感じてわかるものだ。銀閣寺を、この目で見たいと強く思った。

さて、いよいよ京都旅行。花巻から飛行機で大阪空港へ。空港からバスで京都入りした。まず、京都駅周辺の寺まわりをしてから、銀閣寺へ向かった。
西本願寺を出て、タクシーを拾った。タクシーの運転手に「銀閣寺までお願いします」と行先を告げる。運転手さんは、「金閣じゃないの。銀閣でいいんですか」と言う。僕は「銀閣でお願いします」と答えた。「金でなくて、銀ですか」と、さらに運転手さん。「はい銀の方です」。そんなやりとりを何度かした。ちょっとしつこい。どうなっているのかと思った。僕は聞いた。「銀閣は人気ないんですか、みんなは金閣に行くのですか」と。すると、「そんなことはないんですが、間違ったら困るので」と言う。銀閣に連れていって「金閣だったのに」と言われたら大変だという気持ちがはたらいているのだろう。やはり豪華な金閣に皆は行くのかなと思った。地味な銀閣は人気がないのかもしれない。銀閣の前までタクシーは行けない。運転手さんは「ここの道をまっすぐ行くと銀閣だから、ここまでだよ」と言って降ろしてくれた。沿道には店がたくさん並んでいて。観光客がごった返していた。銀閣も人気がある。けれども、寺の敷地内に入っていくと、観光客の多くは外国人になっていった。日本人観光客はいることはいるけれども、割合は外国人の方が多い。わびさびの日本文化の神髄を見たいという外国人の思いがあるのだろうか。日本人観光客は黄金の金閣を好むのではないかと思った。

銀閣に足を踏み入れた。どう僕の眼に映るか。

総門から中門への参道は、銀閣寺垣と呼ばれる竹垣の道が続く。緑の生垣を歩いているとスタンリー・キューブリック監督の映画「シャイニング」のオーバールックホテルにある巨大迷路が連想される。冬、雪が降ると「シャイニング」のようなシーンが銀閣寺垣に現れるのだろうか。
銀閣寺垣を過ぎると、観音殿が目に入った。観音殿、すなわち銀閣である。一目見て、その小ささに驚いた。「銀閣って、こんなに小さいの」と。銀閣寺の前に、巨大な東寺、西本願寺と回ってきたせいもあるかもしれない。それを差し引いても、やはり小さい。というわけで、僕の眼には、古くささではなく、「小ささ」として映ったのである。

観音殿を過ぎると、東求堂の前にきた。東求堂も「小さく」感じた。折角、銀閣に来たのだから、一目、見た印象だけではなく、もっと鑑賞してみようと言う気持ちで、時間をかけて観音殿、東求堂を見た。角度を変えて、いろいろな方向から見ていく。繰り返し、繰り返し、見ていくうちに、吸い込まれていくような感覚に襲われた。
一見、小さく見える、銀閣だけれども、よく見ると、その精巧さは驚くべきものであり、計算しつくされた細やかさがある。銀閣の庭園を歩くと、庭師が手を入れていた。ここの庭園は、他とは違う。ものすごく細かいところまで行きとどいた庭園だった。銀閣のすべてが精巧さ、完璧さを追求してつくられている世界なのだ。
そこで僕が思ったのは、「縮み志向の日本人」(李御寧著 講談社学術文庫)の本である。「縮み志向の日本人」は、一九八七年、僕が札幌を離れる頃に読んだ本だ。当時、日本はジャパンアズナンバーワンと呼ばれていて、日本経済は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「縮み志向の日本人」は、日本経済の強さの秘密を日本文化が持つ特徴である「縮み」に着目する。小さく精巧につくるということだ。トヨタの小型車やソニーの電器製品(トランジスタラジオ、ウォークマン)がその象徴といえるだろう。

 銀閣は、まさしく「縮み志向の日本人」が語る、縮みの文化の原点だと僕は見た。ここは、計算しつくされた精巧さがある。精密機械工業にも匹敵する、当時の技の粋を集めたのだろう。事実、足利義政は、優れた芸術家であれば、身分に関係なく登用し、美をどこまでも追求したことで知られている。銀閣は、足利義政の生涯をかけた美の結晶であるから、完成度が高いわけだ。
 観音殿の足元には、砂でつくられた庭がある。砂に波紋を形づくる銀沙灘、白砂で富士山型の山を築いた向月台があり、銀沙灘と向月台のコントラストが、観音殿を一層引き立て味わい深いものにしている。わびさびの文化を表しているのだと思う。幽玄の美というだけではない奥深さ、現代の日本文化はゆうに及ばず、日本経済の形にまで及ぼす姿が、銀閣にはある。

ドナルド・キーンが夢中になるのも頷ける。高台に通じる道も整備されていて、高いところから銀閣を眺めることができる。高台から銀閣を見ると、ここは京都の中央からやや離れた緑の中にあることがわかる。喧騒から離れた落ち着いた環境なのである。足利義政は、静かな環境である東山に拠点をおいた。東山に政治機能をもたせ、そして自らの文化を成熟させ、銀閣をつくった。京都の中央から近くもなく遠くもない適度な位置、しかも緑あふれるなかで東山文化を育んだのである。高台からみる観音殿は格調高く、その美が際立っていた。

ドナルド・キーンは銀閣に日本文化の神髄をみる。日本文化は「これだ」と言いきる。僕はドナルド・キーンが指摘した、日本間、花道、茶道、能というよりも、銀閣に「縮み志向の日本人」をみた。日本が他国と比較した時、日本が持ち得るもの特徴である「縮み」がある。それは、「縮み」という言葉だけではなく、いろいろな言葉で言い換えられているが、日本人の技の優秀さということだ。その技が銀閣に見てとれる。足利義政は、政治家としては無能ではあったが、芸術に大変な力を入れた。その結晶が銀閣である。質素ではあるが奥深い、そして、どこまでも行き届いた美がある。その美は、精神世界に至る。日本人がこれから進むべき道も、やはり銀閣がさし示す文化にあるのだと思われた。



speechlanguage7 at 10:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)エッセイ 

第17回日本言語聴覚学会京都大会に参加

2016年6月10日~11日、京都で日本言語聴覚学会が開催された。会場はロームシアター京都、京都市勧業館みやこめっせ、の2会場。両会場とも岡崎公園にある。岡崎公園は、京都府立図書館、京都国立近代美術館、京都市美術館がある文化ゾーンである。傍には平安神宮もある。学会の合間に岡崎公園の探索も楽しめる好会場である。

さて、今回の大会テーマは「コミュニケーション知と技の融合」である。今回、演題発表よりも講演、セミナー、シンポジウムを中心に聴いた。
 
シンポジウム「急性期・回復期・生活期の失語症リハビリテーション」。失語症リハの基本をあらためて振り返るとともに、急性期、回復期、生活期の緊密な連携が必要であることを痛感した。

スキルアップセミナー「語の産出とその障害」。認知心理学的アプローチにもとづく失語症モデルを発話表出というところに絞り、詳しく説明された。モデルの理論が、実際の失語症リハにどう展開されるかまで話は及び、中身の濃いセミナーだった。

スキルアップセミナー「Dysarthriaの見方 マクロの目とミクロの目」。ディスアスリアをマクロ、ミクロの視点から考察。マクロの視点では脳卒中後の後遺症の患者が多く、高次脳機能障害、摂食嚥下障害を合併していることが多いなど分析され、マクロの視点によってディスアスリアの予後予測、介入目標や方法を検討できるとしている。ミクロの目では、実際の臨床方法が紹介された。ディアドコキネシスが臨床場面で多用される。/pataka/の他に、通鼻音、口音の反復である/nada/、口唇運動の反復である/pupi/など、具体的臨床技術が紹介された。すぐにでも使える方法ということで、とても参考になった。

会長講演「動詞の喚語訓練」。失語症の喚語訓練は名詞について行われることが多い。講演では動詞の喚語訓練に焦点を絞り、研究成果を報告された。動詞の喚語困難は非流暢性型の患者に多いが、流暢性型の患者にもみられ、動詞喚語訓練により発話の改善が得られるという。動詞の単語訓練および文訓練の方法とその結果が示された。動詞の喚語障害、文産生障害に対する訓練効果が検討された。

STの講演、セミナーは以上のものだが、今学会で、僕がとてもおもしろかったのは、他分野の先生方の講演だった。

特別講演「想像するちから」。副題はチンパンジーが教えてくれた人間のこころ、ことば、きずな。講演者はチンパンジー研究の第一人者である。チンパンジーを深く知ることで人間を理解する「比較認知科学」という学問である。チンパンジーも人間も、ともにヒト科に属する。チンパンジーと人間ではDNAでは2パーセント程度の違いでしかない。チンパンジーは人間を遥かに越える瞬間記憶の能力をもつ。人間は経験や知識を他者と分かち合うところに特徴があり、それが言語によるコミュニケーションの基盤となっている。それは、人間の赤ちゃんが「あおむけ姿勢」で育てられ、必然的に他者と非言語的、言語的なコミュニケーションをとらざるを得なくなったことに関連している。チンパンジーの赤ちゃんは、「あおむけ姿勢」はとらずに、いつも母親にしがみついて育つ。人間とチンパンジーの比較を認知という点から行う研究は、STにとってコミュニケーションの本質をみるようで、とても興味深いものである。

教育講演「ことばと生活とコミュニケーション」。副題は人は関係の網の目を広げていきる、である。講演者は、発達心理学が専門である。同時に裁判に関わり、裁判の心理学的分析をされており、その分野では日本の第一人者とされている。講演では、いわゆる発達心理学とともに、冤罪裁判における被告の心理学的な分析、アプローチが紹介された。そこで、それぞれの個人は、はりめぐされた人間関係の網のなかで生きているということ。人間関係の網からはずれると、人は生きていくことが難しくなるという話は、これまで思いもしないことだった。「ことば」というものが、人間関係の網の目によって育まれ、成立していることを気づかされた。

教育講演「社会コミュニケーションを支える脳」。講演者は精神医学の第一人者。人は社会的動物といわれる。他者からの情報をキャッチし、自らも情報を発信し、人間関係のなかで生きていく。このような社会性は「社会認知」と呼ばれる認知能力によってなされる。その基盤となる脳構造は「社会脳」と呼ばれる。たとえば、扁桃体は警告を発する装置として脳のなかで作用している。扁桃体によって人と人との距離をどうとるか、人を信用するかどうかが瞬時に判断されている。人間の行動、社会認知を脳の局在という視点からみていく。失語症の脳局在についての話はSTにとってはお馴染みであるが、社会認知についての話は、新鮮であり、とても興味深いものだった。また、自分自身の社会的な判断についても見つめ直すことができた講演だった。

というわけで、京都大会は、僕にとって、とても実りあるものだった。とくに、他分野の先生方の講演は、今学会では印象的で、帰ってからは、その先生方の読みやすく書かれた一般書を繙いてみたいと思った。

ST分野に関連する研究者の話を聴くことで、自らのST臨床にも幅が広がると思われる。これからのST学会でも、他分野の先生方の講演、セミナーをさらに取り入れてもらいたいと思いました。もちろん、STの演題発表が学会の中心に位置づけられ、その研究発表、討論が何より大切であることはいうまでもありませんが・・。


speechlanguage7 at 10:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)学会・研究会 

May 23, 2016

いわて摂食嚥下リハビリテーション研究会 第24回研修会に参加

 5月22日、いわて県民情報交流センター アイーナで、いわて摂食嚥下リハビリテーション研究会 第24回研修会が開かれ、聴きに行った。

 今回は、午前中は、特別支援学校における摂食嚥下について、午後は、摂食嚥下の姿勢づくりが話題。前半は、学校現場での摂食嚥下であり、教員、学校の栄養士の講演、午後はPTの実技を交えた講演だった。

 学校現場の摂食嚥下については、まだまだ研究がこれからの分野だと思う。ST学会でも、これからはSTが、教育の現場に飛び込んでいく時代である・・ということが語られていたことが思い浮かぶ。学校では、教員の方々が、悩みながら苦労を重ねつつ、摂食嚥下に取り組んでいる。その活動には頭が下がる思いである。発表ではVTRも紹介され、実際の児童への食事介助場面も見せて頂いた。とても勉強になる講演だった。

 午後の、摂食嚥下における姿勢づくりの講演は、明日からでも現場ですぐに使える知識と技術ということで、とても貴重なもの。STは、どうしても頭頸部ばかりに集中してしまい、全身をカバーしにくいところが弱点。PTの今日の講演と実技指導を自分のものとして、摂食嚥下リハに臨みたい。

第24回研修会も、内容の濃いものだった。いわて摂食嚥下リハビリテーション研究会のますますの発展を願うばかりである。


May 21, 2016

『世界から猫が消えたなら』を見て 

 映画『世界から猫が消えたなら』を見た。原作は、2012年のベストセラーとなった川村元気の小説である。

 物語は、郵便局に勤める青年「僕」が自転車で買い物に行くところからはじまる。突然、激しい頭痛に襲われ、転倒してしまう。「僕」は脳腫瘍のため医者より死を宣告された。余命いくばくもない。思い悩んでいた「僕」の前に「悪魔」が現れる。「悪魔」は、「この世界から何か一つだけ消すことで命が一日伸びる」と言う。「僕」は藁をもすがる思いで「悪魔」との取引に応じてしまう。「悪魔」は、この世の中から「電話」を消した。次に「映画」を消す。物がひとつずつ消えていくにつれて、「僕」がその物を通して関わってきた人との繋がりや思い出が消えていく。「悪魔」が「猫」を消そうと提案した時、「僕」は「猫」を巡る思い出に気付く。それは両親と過ごした日々だった。

 映画は繰り返し問う。世界から猫が消えたのなら何が変わるのだろう。世界から「僕」が消えたのなら何か変わることがあるのだろうか、と。そんな素朴な疑問を投げかけることで、私たちを取り巻く世界が少しずつ解きほぐされてくる。家族や友人との大切な時間が浮かび上がる。映画『世界から猫が消えたなら』は生きることはどういうことか見えてくるような不思議な経験をさせてくれる。映画を見終わった後、日頃、不平ばかり言っている自分が浅はかだったことに気づく有難い作品なのである。いい映画だった。

 さて、私にとって、映画『世界から猫が消えたなら』は、単なるいい映画ではない。特別な作品である。映画の舞台は、架空の街「晴海」となっているが、実際は「函館」である。主人公「僕」は函館で生まれ育つ。函館の物語なのである。私は、つい3か月前まで函館に在住していた。身近な場所である。

 2014年、私は函館生活一年目だった。休みの日は、函館の名所旧跡巡りをしていた。秋も深まってきた10月、高龍寺を訪れた。高龍寺は函館で一番古い寺である。寺町通りを歩いていくと、人だかりになっていた。映画のロケが行われていた。その映画こそ『世界から猫が消えたなら』だったのだ。木造の古い家をスタッフが取り囲んで撮影していた。家から俳優が出てくる。カメラは俳優の動きを逐一追っている。監督は俳優に指示を出していた。それは、主人公「僕」を演じる佐藤健が、実家のカモメ時計店から出てくるシーンだった。

映画を見て、ロケ現場に居合わせた私自身の姿が現れてくるような感覚に襲われる。映しだしている風景は、いずれも私が歩いた函館の街なみだった。函館で仕事をして、そこで楽しいことも苦しいことも味わい、生活をしていたのだ。映画の主人公「僕」と同じような感覚、気持ちで、函館の日々を送っていた。

だから、私にとって、映画『世界から猫が消えたなら』は、私の函館時代そのもの。私の人生の一部なのである。心に残る映画だった。10年くらい時間を経てから、もう一度、映画『世界から猫が消えたなら』を見てみたい。その時、映画から立ち現れてくる2014年の自分自身のイメージと向かい合うのだろう。何を語りかけてくるのだろうか。私の心に、どう映るだろうか。興味深いところである。


speechlanguage7 at 23:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)映画 

May 16, 2016

東北矯正歯科学会を聴く

5月14日、15日の両日、盛岡のアイーナで第32回東北矯正歯科学会が開かれた。
僕は14日の市民公開講座を聴きにいったのだけれども、とても勉強になったので、スタッフに学会を通して聴講したいむねを申し出た。すると、当日会員として、お金を払えばオーケーということだったので、参加したわけだ。

歯科の学会は、はじめての参加だったので、とても新鮮だった。STはいない。ほとんど全員が歯科医師の先生方である。

矯正歯科の分野とSTの分野との繋がりといえば、ST養成校時代の授業が思い返される。器質性構音障害という授業で、口唇・口蓋裂の小児の病態から手術、そして言語リハというところを学ぶ。また、形成外科学の授業も同様に、口唇・口蓋裂の手術例などを学ぶ。STなので、講義で机上の授業で話としてだけだが・・・。

さて、そんなST養成校時代の授業を思い出しながら、学会を聴いていった。

咬み合わせの悪さを、さまざまな手法を用いて改善していく症例を多く聴いた。とくに、僕が興味深かったのは、睡眠時無呼吸症候群についてである。

咬合の悪さから、口腔および咽頭のスペースが小さくなることにより、睡眠時無呼吸症候群になる。それに対して、矯正歯科学の治療技術を用いて改善を図る。もちろん、それですべて解決というわけではなく、CPAPなども併用していくことになる。

咬合の悪さが、発声、嚥下に悪影響を及ぼすことは、STであれば経験的に知っていることである。矯正歯科学では、治療によって、直接、咬合を改善していく。上顎と下顎の位置も適正に合わせていくわけだ。その治療は、長期間にわたって行われる。

咬み合わせの悪さは、様々な全身疾患を引き起こしていく要因にもなる。姿勢も悪くなる。矯正歯科学は、それに対して、治療技術を用いて、形態そのものを変えていく直接的な手法をとっている。STは、リハビリテーションとして、運動をさせたりすることで改善を図ることを目指す。

つまり、矯正歯科で形態を変えていき、STリハで運動を行うことで、機能の改善が図られるというわけであり、矯正歯科とSTとの関連は深いと考えられる。

ところで、今回の学会で、「超高齢社会の歯科医療を展望する」という特別講演があった。歯科の現状とこれからの課題、展望が語られた。

歯科は、う蝕を治したり、義歯をつくっていく、いわゆる治療をするのが主な仕事である。ところが、近年、う蝕は減少し、国民の歯科疾患は改善。それに伴い、歯科の収入は減少の一途をたどっているという。

しかし、高齢社会をむかえて、歯科に新しい需要があるという。それは、口腔ケアと摂食嚥下リハの領域だという。治療から、予防、リハビリにシフトしていく・・という話をされていた。

この話を聴くと、STの領域そのものである。狭い考え方ならば、STの領域に入ってくるということになろうが、発展的な考えをするならば、いまこそ、STが歯科の先生や歯科衛生士の方々と協力するべき時である。口腔ケアや摂食嚥下といっても、歯科医師や歯科衛生士とSTでは診る視点が当然、違ってくるので、お互いの強みを出し合えば、「いい仕事」ができる。

歯科とSTが協力することで、高齢者の口腔内環境は改善するであろうし、よりよい摂食嚥下リハを展開することができるだろう。いいことづくめじゃないか。

いまこそSTが社会的にさらに認知され、羽ばたく時なのではないか・・・そんなことを、この特別講演を聴いて、感じたのである。


speechlanguage7 at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)学会・研究会 

May 08, 2016

岩手県言語聴覚士会講演会「言語聴覚士の臨床とリサーチマインド」を聴く

5月8日、岩手県立療育センターで、岩手県言語聴覚士会総会が開かれた。
総会に先立って、講演会が開かれた。
「言語聴覚士の臨床とリサーチマインド」という題。

STをとりまく環境は時代とともに変化している。
少子高齢化社会の進展、医療医学の進歩、ニーズの多様化、権利意識の向上など、環境は変化している。

そのような中、STは確かな臨床能力が問われている。STだからこそできる専門性、さらに選ばれる専門職としてSTの能力の向上が求められている。

臨床の力の向上が、何より大切である、と講演のなかで繰り返し語られた。
それには、常に情報・知識の習得を心がける、問題解決を積み重ねる、関心をもって対象を見る習慣をつくる、深く考える習慣をつける・・・これらが臨床で観る力を養うことにつながっていく。

日頃、単位数を気にして、流されたリハビリになりがちだ。確かな臨床を行っていき実力をつけていくことの大切さを、講演を聴いて、思うのである。
貴重な講演、ありがとうございました。



speechlanguage7 at 19:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)県士会 

May 07, 2016

ホスピスセミナーを聴く

5月7日、盛岡市総合福祉センターでホスピスセミナーが開かれ、聴きに行った。
岩手ホスピスの会が主催している。今回が、はじめての参加。

緩和ケアについて、そして、岩手医科大学附属病院緩和ケアセンター、緩和ケア病棟についてのお話を聴いた。

緩和ケアは、1990年頃は、終末期医療と捉えられていたが、2000年代に入ってからは、緩和ケアは、終末期に限らないものとされている。つまり、緩和ケアは、痛みを取り除くことにより、生活の質、人生の質を高める。医療のベースとなる考え方となった。

身体的痛みのみではなく、心理社会的問題、スピリチュアルな問題も含めた苦痛を取り除き、QOLを高めていく・・・それが緩和ケアの考え方であるという。

そして、岩手県では7つめとなる岩手医科大学附属病院に緩和ケア病棟がつくられる。緩和ケアが充実することにより、ますます高度化する癌医療を支えることになる、患者さんのQOLを高める力となっていくことができる。

緩和ケアは暗闇の中で行く先を照らす灯台であるという。

緩和ケアについて、学ぶことができました。とてもよいセミナーでした。



speechlanguage7 at 21:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ダイアリー 

May 01, 2016

角館に行く

 ゴールデンウィークに角館に行った。盛岡から新幹線なら四十五分で着く。角館には武家屋敷が残されている。江戸時代を体験したいと思った。

 角館は、戦国時代は戸沢氏の本拠地として城が築かれる。江戸時代は、佐竹氏が秋田に入り、久保田藩領となっている。角館は佐竹氏の分家、佐竹北家の所領となる。佐竹北家の佐竹義隣の実父は京の公家だった高倉永慶であることから、京都の文化を角館にもたらしたと言われている。

 そんな百科事典からの情報を頼りにして、角館武家屋敷を散策する。武家屋敷群のなかで、青柳家が見応えがあった。青柳家は、佐竹北家に仕えた武士。屋敷は歴史村になっていて小博物館が並んでいる。鎧や刀といった武家道具だけではない。小野田直武の絵が飾られていた。

小野田直武は、青柳家と姻戚関係にある画家であり、平賀源内に師事、「解体新書」の挿絵を描いた。小野田直武が描いた解剖図が展示されている。オランダ医学書の解剖図と比較して説明されている。「解体新書」と言えば、蘭学の根幹にあたるものである。
中央から遠く離れた秋田の地が、日本の学問の最先端を走っていたと思うと、驚きである。

青柳家は、明治時代からは角館の地主となっていく。エジソンが発明した頃の蓄音機、ドイツの写真機といったアンティークコレクションが豊富に展示されている。外国の先進文化を取り入れようとする精神が感じられた。
 角館樺細工伝承館では、樺細工の伝統工芸が展示されている。ホールでは、雅楽の演奏会が催された。雅楽にあわせて舞が演じられている。

紛れもなく角館には京都の文化が移植されていると思った。同時に、学問と先取の精神が、もたらされている。現在のようにテレビもなければ、インターネットもない時代である。地方への文化の広がりの力強さに驚嘆するばかりであった。角館にまた行ってみようと思う。


speechlanguage7 at 19:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)エッセイ 

April 05, 2016

米坂ヒデノリ先生のこと

 米坂ヒデノリ先生の訃報をきいた。

残念でならない。

 米坂先生は、僕の釧路時代の出会いのひとつであり、忘れがたい。

 僕が司書として仕事をしていたとき、先生と出会った。

 先生は、彫刻家だが、視野の広い知識人だった。知識人といっても、知識だけではない、芸術家であるから、感性豊かなものの見方をされる人だった。

 先生は芸術家であるから、芸術全般にわたって造詣が深かった。
 映画ファンである僕は、先生と映画の話をしたことが、心に残っている。

 先生は戦前のフランス映画がとくに好きだった。戦後のヨーロッパ映画にも親しんでいた。

 アンジェイ・ワイダ監督の映画の話題なった。アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」の話になった。抵抗三部作の一本といわれる、当時の若者を体現しているような作品だ。僕も「灰とダイヤモンド」は見ていたので、先生と、その話に花が咲いた。

 けれども、僕は、1959年には生きていないので、懐かしの名画の一本としてとか見ていない。僕は、やはり1983年の「ダントン」こそが、アンジェイ・ワイダの作品だった。僕にとっての青春時代の1983年に映画館で見た「ダントン」こそが、アンジェイ・ワイダだったのだ。
 フランス革命が映像として蘇る、その圧倒的に映像の力は素晴らしい。そう「ダントン」について、僕が語ると、先生は「君は映画が本当に好きなんだね」と言ってくれた。その言葉が、僕の心に焼き付いていた。

 1991年だったか、先生とアンジェイ・ワイダの話をしたのは・・・。僕は、まだあの時、20代の若者だった。

 先生は芸術家であり、文筆家であり、いわゆる学者や文学者とは、また違った視点を持たれており、若かった僕は、とても先生の話を聴くのが好きだった。

 図書館司書の仕事として、彫刻作品を写真に撮ってスライドにして資料として記録、整理することを提案していた。自分は彫刻家として、できる限り、作品を生み出さなくてはならないので、そういうことをする時間がない・・・それが残念であると言っていた。芸術作品を記録して、後世に残していく仕事は、とても重要であり、そういう努力をしていかないと芸術作品は消えていくだろう・・だから、ライブラリアンには、そういう仕事をしてほしいと言っていた。これは、キューレーターの仕事だと思うけれども、先生は広い視点で語っていたのだ。

 先生は釧路の郷土史にも大変造詣が深く、釧路の歴史を独自の視点で語っていた。

 その言葉のひとつひとつが、僕にとっては、ひじょうに知的刺激を受け、いまでも、心に焼き付いている。

 僕にとって、米坂先生は、彫刻家である以上に、文筆家であり、優れた知識人であった。もっと先生の言葉を聴きたかった。僕の釧路時代の貴重な1ページとして、先生の言葉をこれからも心に刻んでいくことだと思う。

 



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