映画評論家
July 13, 2008
淀川長治、荻昌弘、水野晴郎
昨日、荻昌弘さんについて書いたので、その続きを・・・。
淀川長治、荻昌弘、水野晴郎。映画評論家の、この3人。共通点がある。映画ファンでなくとも、多くの人が知っているという点である。
従来、映画評論家は映画雑誌などで映画評論を書く人たちであり、広く一般に知られる存在ではない。淀川長治、荻昌弘、水野晴郎の3人はテレビの映画解説者として、活躍した。
テレビで映画を語ることで、誰にでもわかる平易な言葉で、より親しみやすく、様々なジャンルの映画を多くの人に紹介した。決して、映画宣伝会社のような宣伝文句ではなく、彼らの言葉で映画を語ったのである。
それは、たんに映画スターの名前を並べ立てるのではなく、確かな眼で映画評論家としての見識があってはじめてできることである。
名画を名画として推奨する真の意味での映画の見方を教えてくれたのが淀川さんであった。荻さんは都会的で洒落たセンスと理知的な面から映画を教えてくれた。水野さんは映画の楽しさを教えてくれた。水野さんは、映画を見る観客の人生と映画との出会い・コミュニケーションの魅力をよく語っていた。
1988年に荻昌弘、1998年に淀川長治が逝き、2008年に水野晴郎が逝ってしまった。ひとつの時代の終わりなのかな、とも思うが、何とも残念である。
1998年に淀川長治がこの世を去ってから、テレビから映画評論家による映画解説が消えてしまった。あれから10年。映画情報が氾濫しているいま、映画解説は、もう必要ない、とのことなのかもしれないが、それは逆であると思う。情報が氾濫しているからこそ、優れた映画解説が求められているのである。
皮肉なことに、近年の映画はCGばやりで退屈な映画が多くなってきた。メジャーの映画がCGオンパレードになっていくとき、本当の見ごたえのある映画を紹介すること、映画の奥深さを紹介するのが、映画評論家であり、映画解説者の役割であると思う。
水野晴郎が逝ってしまった今年、彼らの後継者が現われるのか、それとも映画解説はもう永遠にないのか、そんな時代は終わってしまったのか・・・残念な気持ちでいっぱいである。
淀川長治、荻昌弘、水野晴郎。映画評論家の、この3人。共通点がある。映画ファンでなくとも、多くの人が知っているという点である。
従来、映画評論家は映画雑誌などで映画評論を書く人たちであり、広く一般に知られる存在ではない。淀川長治、荻昌弘、水野晴郎の3人はテレビの映画解説者として、活躍した。
テレビで映画を語ることで、誰にでもわかる平易な言葉で、より親しみやすく、様々なジャンルの映画を多くの人に紹介した。決して、映画宣伝会社のような宣伝文句ではなく、彼らの言葉で映画を語ったのである。
それは、たんに映画スターの名前を並べ立てるのではなく、確かな眼で映画評論家としての見識があってはじめてできることである。
名画を名画として推奨する真の意味での映画の見方を教えてくれたのが淀川さんであった。荻さんは都会的で洒落たセンスと理知的な面から映画を教えてくれた。水野さんは映画の楽しさを教えてくれた。水野さんは、映画を見る観客の人生と映画との出会い・コミュニケーションの魅力をよく語っていた。
1988年に荻昌弘、1998年に淀川長治が逝き、2008年に水野晴郎が逝ってしまった。ひとつの時代の終わりなのかな、とも思うが、何とも残念である。
1998年に淀川長治がこの世を去ってから、テレビから映画評論家による映画解説が消えてしまった。あれから10年。映画情報が氾濫しているいま、映画解説は、もう必要ない、とのことなのかもしれないが、それは逆であると思う。情報が氾濫しているからこそ、優れた映画解説が求められているのである。
皮肉なことに、近年の映画はCGばやりで退屈な映画が多くなってきた。メジャーの映画がCGオンパレードになっていくとき、本当の見ごたえのある映画を紹介すること、映画の奥深さを紹介するのが、映画評論家であり、映画解説者の役割であると思う。
水野晴郎が逝ってしまった今年、彼らの後継者が現われるのか、それとも映画解説はもう永遠にないのか、そんな時代は終わってしまったのか・・・残念な気持ちでいっぱいである。