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タグ:DocumentaLy

サカナクションの「仮面の街」を聴いて。

DocumentaLy(通常盤)CD
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2011-09-28


今回はサカナクションの2011年9月28日に発売されたアルバム「DocumentaLy」に収録されている「仮面の街」を取り上げてみたいと思う。この曲はサカナクションの曲の中でも、かなりわかりやすい楽曲と言えると思うし、(サカナクションを好むような人には特に)共感できるような内容なのではないだろうか。筆者が今になってこの曲を取り上げようと思ったのは、この曲の歌詞がこのコロナ禍において、より一層のリアリティをもって迫ってくるように感じたからだ。もともとこの曲の中で描かれているような人々の傾向はあったが、コロナ禍においてより如実に表れてきたような気がする。表面的には外面よく、同じ仮面(マスク)をしている人は仲間、同調圧力、他人をばい菌扱いするような心理…人間の心の中にある、目を背けたくなるような側面。コロナ禍でその名の通り”仮面の街”と化した現代社会に何を思う?

※参考 ベストアルバム「魚図鑑」
魚図鑑
NF Records
2018-03-28


2018年に発売されたベストアルバム「魚図鑑」においては、中層、昼行性の魚として紹介されている。解説によると、メンバーが上京したての頃、知人の結婚パーティーに参加した時のエピソードがもとになっているとのこと。業界人の集まる場所やパーティーが初めてのことで、戸惑いを隠せなかった心象を歌にしているらしい。

※参考 雑誌『MUSICA 2011年11月号』


アルバムの全曲解説インタビューが掲載されている号。この曲に関する部分を一部引用してみる。(発言者部分は筆者アレンジ)
(山口)「そうです。歌詞の内容もシニカルだし。……僕は誰かと接する時に、ガチで接したい人間なんです。でも、人と出会う機会が多いと、やっぱり接触で終わっちゃうことのほうが多くて。それがずっとフラストレーションになってて、そういう気持ちを歌詞に書いたんですよ。そしたら、初めてメンバーから『歌詞が嫌だ』って言われた」
(インタビュアー)「それはこの歌詞が意地悪過ぎるってこと?」
(山口)「そう。でも僕は自分が日常で感じたことしか歌えないし、ポジティヴなことだけ歌うのは絶対嫌だし。ネガティヴなことを歌うほうが表現に近いと思ってる節もあるしね。だから僕の中では自然に書いたんですけど、みんなには結構パンチがあったみたい。まぁたぶん心配になったんだと思うんですけど……でも、嫌だって言われたことは凄い嬉しかった。初めて言われたから。みんながちゃんと歌詞に対して考えてくれてんだっていうのを感じたんですよね。」

●「仮面の街」(2011年9月28日発売アルバム「DocumentaLy」収録曲)

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コロナ前はたくさんの人が集まるパーティで表面的なあいさつや名刺交換をし、”機会があればよろしく”などと言って握手を交わすシーンは東京のそこかしこにあったものと思われる。2021年現在、そういう機会はめっきりなくなってしまったし、今後またそういう世界が現れるのかは未知数だ。アルバム「DocumentaLy」が発売されたのは2011年、タイトル通り、”時代を切り取ったドキュメンタリー”のようなアルバムとのことだったが、今後人が集まることや人と人とが接触することが制限されるのが当たり前になってくると、”あの時代はそうだったね…”と思うようになるのかもしれない。まさかこんな未来が来るとは思いもしなかったが、2021年に振り返ると、非常に当時の”時代”を感じる曲であり、また、あり得ないほどのリアリティを持って共感もできるというのは面白いものだなと思う。

「つまらないのに僕は笑って 慣れた手つきで身振り手振りさ
 さよならで振った手のひらを降ろさず次の誰かと握手

 矛盾だらけの街は夕暮れ 満員電車を追いかけ飛ぶ鳥
 仮面被ったスノッブばかり 僕は眠りたいんだ

 笑って 笑って 笑ってたのにな
 笑って 笑って 笑ってたのに泣いていたんだ」(1番Aメロ、サビ)

歌詞はわかりやすいので解説不要かと思う。1番Aメロはまさにパーティーにおける人々の”表面的”な振る舞いと、自分もその空気に触れると同じように振る舞ってしまう、そのことへの嫌悪感や違和感を表現しているように感じた。

続くAメロ「矛盾だらけの街は夕暮れ」とある。この「矛盾」とはどんなことだろう?一つは、「僕」自身の「矛盾」、すなわち違和感を感じつつも自分も業界人のように振舞ってしまうことへの「矛盾」、本心ではやりたくないのにそうしてしまうということではないだろうか。もう一つは、そういった”表面的”な振る舞いには「矛盾」があるということ、つまり本心では違うことを考えているのではないかという「矛盾」のことだろう。タイトル通り「仮面」を被っているということだ。

「満員電車を追いかけ飛ぶ鳥」という部分からは、「満員電車」という東京や都会の風物詩とも言える描写と、自由に大空を「飛ぶ鳥」という対比が読み取れ、この「僕」「満員電車」内から「飛ぶ鳥」を見ていたとすると、人が多い都会への戸惑いや、鳥を”自由でいいなぁ…”と思ってしまうような、そういった気持ちが感じられた。

「仮面被ったスノッブばかり 僕は眠りたいんだ」の部分はかなりキツい歌詞だと思うが、言いたいことはよくわかる。「スノッブ」というのは、”俗物”や”気取った人”といった意味で、ネガティブな印象の言葉である。”表面的には素晴らしい人のように振舞っていても、中身は俗物なんだろ”、という気持ちなのだろう。慣れないパーティでどっと疲れてしまった「僕」

自分はきれいで他人は汚い?そういう態度がトゲになるんじゃ…?!

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「傷がついたらそれでさよなら 売れ残ったりんごになるだけ
 トゲがある手で触らないでと言いたげな人の手にトゲ

 矛盾だらけの街は夕暮れ 満員電車の遅延にも慣れ
 仮面被ったスノッブばかり 僕はもう死んだんだ

 笑って 笑って 笑ってたのにな 
 笑って 笑って 笑ってたのに泣いていたんだ」(2番Aメロ、サビ)

2番もきつい歌詞が続く。冒頭「傷がついたらそれでさよなら 売れ残ったりんごになるだけ」とある。この部分はミュージシャン(や俳優など表に出る人全般に言えることだが)が、持ち上げられもするが、ひとたび「傷がついたらそれでさよなら」となってしまうこと、つまり、売れる=利益になると判断されれば綺麗な「りんご」として売り出されるが、用なしになれば「売れ残っ」てしまうということを言っているのだと思う。ミュージシャンも「りんご」と同じ商品のように扱われるものなのかもしれない。

「トゲがある手で触らないでと言いたげな人の手にトゲ」の部分はとても秀逸で、コロナ禍においても非常にしっくりくる歌詞だ。今風に言えば「トゲ」はウイルスだろうか?自分のことは棚に上げるような態度や、他人をよく知り、見もしないで、偏見で判断するような態度のようにも見える。そういう態度が他人を傷つける「トゲ」になりうるし、そういう人々によって傷のついた「りんご」になってしまった人も大勢いるのではないだろうか。

続くAメロもかなりきつい。「矛盾だらけの街は夕暮れ 満員電車の遅延にも慣れ/仮面被ったスノッブばかり 僕はもう死んだんだ」とあり、1番から状況がより一層進んだことが伺える。「満員電車の遅延にも慣れ」てしまった「僕」。都会のマナーに染まってきてしまった。ついに「僕はもう死んだんだ」とまで言っている。「死んだ」「僕」というのは、表面的な振る舞いを嫌い、人とちゃんとぶつかりたいと思っていた「僕」だろうか。いつしか違和感を感じることもなく、心も無になり、仮面も本音もなくなってしまうのだろうか…。

自分らしくない自分の振る舞いに嫌悪感。いつしか仮面と一体化した、自分!?

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「意味もないのに僕は笑って 慣れた手つきで君を触ったよ
 汚れてないのになぜか手を洗いたくなってしまったんだ

 笑って 笑って 笑ってたのにな 
 笑って 笑って 笑ってたのに泣いていたんだ」(ラストAメロ、サビ)

ラストで初めて「君」が出てくる。「意味もないのに僕は笑って 慣れた手つきで君を触ったよ/汚れてないのになぜか手を洗いたくなってしまったんだ」とあるが、この部分もコロナ禍っぽい歌詞だ。「意味もないのに笑っ」「僕」は、ありのままではなく「仮面」を被った姿だったのではないかと思う。都会に染まる前の「僕」なら「慣れた手つきで君を触」ることはなかっただろうから。

「汚れてないのになぜか手を洗いたくなってしまったんだ」の部分からは、非常に潔癖で、何かを嫌悪する気持ちが読み取れる。都会に染まって、都会的な振る舞いを自然とするようになってしまった自分に対する嫌悪感なのではないかと思う。「手を洗」おうとすることは、「仮面」を剥がそうとする行為にもつながると思った。なんか自分が嘘くさい、という気持ち悪さ。嫌悪していた対象に自分もなりつつあることへの抵抗感。

そして女性メインコーラスのサビ。「笑って 笑って 笑ってたのにな/笑って 笑って 笑ってたのに泣いていたんだ」とある。「仮面」を被って表面的には「笑ってた」けれども、心の中では「泣いていた」ということなのだろう。ありのままの自分で生きられていなかった、ありのままの思いや感情を表現できていなかったのだ。ラストで「君」が登場することによって、若干恋愛っぽい空気が出てくるが、”表面的な付き合いしかできていなかった”恋愛という意味では、「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」と似たようなテーマ性も感じられる。

※参考記事


”触る”、”汚い”、”洗う”、”仮面”といったワードと、他人との関係性、人間の心理描写なども相まって、2020・2021年のコロナ禍においても、時代を反映した、何か感じる所のある楽曲だなと思った。マスク半強制の現代社会はまさに、「仮面の街」そのもの。物理的に仮面を被るのが当たり前になることは、心の在り方や人間関係構築にも徐々に影響を与えてくるだろう。サカナクションにはぜひ、「仮面の街(2021)」バージョンなども作ってほしいものである。

「仮面の街」
歌手名:サカナクション、作詞・作曲:山口一郎
歌詞サイトはこちら

※アルバム「834.194」の記事もどうぞ※すべての記事一覧はこちら 

※ライブのレポ&感想記事
「GO TO  THE FUTURE」

「シンシロ」

「kikUUiki」

「DocumentaLy」

「魚図鑑」
ファンクラブNF member ポイント&ステイタス制について考えたこと

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サカナクションの「years」を聴いて。

『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』【通常盤】(CD)
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2011-07-20


今回はサカナクションのシングル「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」のカップリング曲である「years」を取り上げてみたいと思う。「『バッハ~』」「years」は双子のような存在で、のちのアルバム「DocumentaLy」においても2曲連続で収録されている(CWはアルバムに入れない方針だったが「years」は収録)。2011年3月11日の東日本大震災後の2011年5~6月に制作された曲とのこと(ベストアルバム「魚図鑑」参照)。アルバム「DocumentaLy」(2011年9月28日発売)の前後の時期は、そのタイトル通り、”音楽はドキュメンタリーだ”という感覚が強くあったらしく、「years」は特にこの時の”時代”を反映した曲となっているようだ。

この曲は2018年12月頃からホンダのインサイトという車のCMソングとしても起用されていた。ファン以外にはあまり知られていなかった曲だが、CMを機にこの曲を知ったという人もいたかもしれない。確かに間奏後の2番のサビは車が走るような疾走感を感じる曲調ではある。それでもなんだかCMでこの曲が流れるのを聴くと不思議な感覚があった…。

シングル表題曲「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」「years」、そして「エンドレス」は、とても関連性が深い曲である。詳しくは「『バッハ~』」の記事に書いたのでそちらもご覧いただければと思う。

※参考記事



※参考 ベストアルバム「魚図鑑」
魚図鑑 (期間限定生産盤[2CD+魚図鑑])
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2018-03-28


ベストアルバム「魚図鑑」においては、”深海””昼行性”の魚として紹介されている。”考察”として掲載された情報を要約すると以下のようになる。

・作詞に相当な苦労と時間をかけた「エンドレス」では書けなかったことが、自然とすべて書くことができた。
・アルバム「DocumentaLy」の最初に収録されている「RL」の中で流れるキーボードの打ち込み音は、「years」の時だけはタイピングの音がなく、無音(※)。
・当初のタイトルは「ear」(耳)だった(※)。
「君」という歌詞は音楽を指すことが多かったが、この曲中での「君」は当時の別れた彼女のことを指している。

(※)山口一郎は2010年に突発性難聴を発症(右耳)。

※参考 雑誌『MUSICA 2011年8月号』
山口一郎と親交の深い音楽評論家の鹿野淳とのインタビューが掲載されている。「years」について詳しく語られた部分を引用してみる。

「まず、今の自分を歌いたかったんですよ。僕らは繋がり合って生きているけど、1枚の布って広げたら1枚の布だけど、繋ぎ合わせても1枚の布じゃないですか。同じ1枚の布で全然変わらないのに、繋がり合うと大きくなっていく。けど、布は1枚1枚色が違って、ひとつ布が繋がるごとにそのものが変わってくる。それって今の時代の俺達と一緒だなと思ったし、それを布に比喩することで今の自分の心を歌えるかもしれないと思った。それがひとつですね。あと”years”っていうタイトルは、最初は”ear”だったんですよ、耳。今、僕の抱えてる一番の不安は耳のことじゃないですか。みんなが恋愛のことで悩んだり、仕事で悩んだりしてることと一緒で、僕が今手元に抱えてる悩みは耳のこと。それを歌に込めたかったし、”years”って僕の中で今のこの年、この年齢、つまり時代を指すし、”アルクアラウンド”がア・ルック・アラウンドであるのと同じで、この”years”っていう言葉ひとつに、僕の中ではふたつの意味が込められてる。(略)」

※参考 雑誌『MUSICA 2011年11月号』
アルバム「DocumentaLy」の全曲解説が掲載されている。その中で、「『バッハ~』」「years」の流れについて書かれた部分があるので引用してみる。

「僕は”『バッハ~』”と”years”の2曲で時代を歌いたかったんですよ。”『バッハ~』”は当たり前にみんなが抱えてるいつもの不安、いつもの夜を歌った曲。で、”years”は時代に特化した、つまりソーシャルネットワークを歌った曲であり、”『バッハ~』”はそのソーシャルネットワークから感化されて生まれた曲なんです。(略)」

(インタビュアーに歌詞中の「ハサミ」「泥」について聞かれて)
「ひとつ新しいツールが生まれた瞬間って、同時に必ず本来意図したものとは違う、汚れた使い方も発明されるじゃないですか。でも、それによって進化もするし、そして汚れた使い方をすることで、必ず最後には壊れる。だけど、そうやって壊れた後に、もう1度、本来の使い方をする時がやってくるんですよね。そういう歌にしたかったんです。(略)」

※参考 雑誌『ROCKIN' ON JAPAN 2019年8月号』
これは2019年の雑誌で(アルバム「834.194」インタビュー)、「years」より随分後のインタビューなのだが、SNSに関することでこの曲に通じるコメントがあるので引用してみる。「セプテンバー」について述べられた部分である。

(インタビュアー)「≪僕たちはいつか墓となり/土に戻るだろう≫って17歳が言ってるって考えると結構すごいですよね。」
(山口)「でもこれ、SNSがある時代だったらただの中二病ですよ。それがなかった時代だからこそ書けた曲なのかなって。石川啄木とかも今だったらただの中二病って言われて終わってたかもしれない。だからやっぱりSNSはセンチメンタルを殺したと思う。」
”SNSはセンチメンタルを殺した”というのは、「years」からも感じられる感覚だったので引用してみた。


●「years」(2011年7月20日発売シングル「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」収録曲)



このMVは2015年8月発売のCW&リミックスアルバム「懐かしい月は新しい月 ~Coupling & Remix works~」をリリースする際に公開されたものである。白い布を持って走る赤い服を着た女性が印象的なMV。
上記のインタビューによると、”今の自分”を「布」に例えて表現しているとのこと。それでも主語が「僕たち」となっているところが特徴で、”時代性”や誰しもに共通する”普遍性”を描いてもいるのだろう。

「僕たちは薄い布だ 折り目のないただの布だ
 影は染まらず通りすぎて行き 悲しみも濡れるだけですぐ乾くんだ

 years years この先に待ち受けてる時代の泥が
 years years 僕らを染めてしまうかはわからないけど
 変わらないことひとつはあるはずさ」(1番メロ、サビ)


冒頭メロ「僕たちは薄い布だ 折り目のないただの布だ/影は染まらず通りすぎて行き 悲しみも濡れるだけですぐ乾くんだ」とある。「影」「悲しみ」という単語からは、ややネガティブなイメージが浮かんでくる。「布」には「影」「悲しみ」が刻まれたり残ったりしない、ということを言っているのだと思うが、これはどういうことだろう。

この冒頭メロを一言で言うと、上記の”SNSはセンチメンタルを殺した”、ということにならないだろうか。「薄い」という単語が出てくるが、これを悪口っぽく言うと”薄っぺらい”ということになる。SNSに書かれているのは薄っぺらい表面的なことばかり、深い「影」「悲しみ」はそこにはないし、注目されない。しまいには”中二病だ”と言われる始末。東京では(山口一郎の愛する)”美しくて難しいもの”が評価されると思っていたが、実際はそうではなかった。センチメンタルよりわかりやすい楽しさ、明るさ、キラキラ感…そういったものが受けるのが”現代”という時代の特徴なのだろうか。
一人一人の薄っぺらい「布」の連なりは、SNSの”タイムライン”のようでもある。一つ一つの「布」が指でスクロールされるさまは、「通りすぎて行き」、「すぐ乾くんだ」といった表現から受けるイメージにもマッチしている。

サビ「years years この先に待ち受けてる時代の泥が/years years 僕らを染めてしまうかはわからないけど」とある。上記インタビューによれば「泥」というのは、新しいツールが生まれた時に生じる”汚れた”使い方のことなのだそうだ。「布」「影」を染めることはなかった。しかし「泥」には染まってしまうかもしれない。誰かを中傷する、いじめる、仲間外れ、犯罪の温床、監視社会…など、SNSも使い方次第では、誰かを傷つけ破壊してしまう道具になりうる。それでも「変わらないこと」とはなんだろうか。

時代は変わる。それでも変わらないもの…とは?

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「僕たちは薄い布を 繋ぎ合わせて帆を立てた
 風が吹くのを見逃さないように 乱れた髪さえ そのままにしてたんだ
 
 years years この先に待ち受けてる時代のハサミは
 years years 多分この帆を切り刻みバラバラにするけど
 years years また繋ぎ合わせるから その時には
 years years 君のことを思い出しても許してくれるかい?

 僕の中の変わらないこと
 僕の中で変わらないこと
 多分これが変わらないことのひとつ years」(2番メロ、サビ、ラストサビ)


2番は1番と若干趣が変わっているように思う。「僕たちは薄い布を 繋ぎ合わせて帆を立てた」とある。一人一人は取るに足らない「薄い布」のような存在だけれども、「繋ぎ合わせて」気持ちを一つにして「帆を立て」ることで、世間に意思表示をしているようにも見える。続く「風が吹くのを見逃さないように 乱れた髪さえ そのままにしてたんだ」は、まさに海の上の船に乗っているような描写だ。「僕たち」はみんなで船に乗って、何かの意思表示をしながらどこかへ行こうとしている。

これは、具体的には2011年頃にSNS上で声を上げていた人々の動き~反原発とか…~のようなものなのかなと想像したりもした。SNS上で起きるムーブメント、世論の声、みたいなもの。そういった動きは、2020年現在の方がより活発化しているようにも思える。政治的、社会的なものもあれば、そうではないごく一般的な考え、思想といったものまで、何か思いを発信する同じ思いの人と集まるといった行為全般が含まれると思う。「乱れた髪さえ そのままにしてた」という言葉からは、なりふり構わず、体裁など気にしていられないという気持ちが伝わってくるようだ。

続くサビ、「years years この先に待ち受けてる時代のハサミは/years years 多分この帆を切り刻みバラバラにするけど」とある。「ハサミ」も1番の「泥」と同様の意味なのだそうだ。「帆を切り刻みバラバラにする」というのは何とも悲しい歌詞である。SNSで声を上げて、プチ革命気分で活動をしても、いずれ「バラバラに」なってしまうだろうと言う。確かに、人々の気持ちを自由に投稿できるはずのSNSでも、検閲や理不尽なアカウント凍結が行われることもあるし、人々の盛り上がりが自然と沈静化していくこともあるだろう。

「years years また繋ぎ合わせるから その時には/years years 君のことを思い出しても許してくれるかい?」とある。時代性の強い「years」だが、山口一郎耳に関する不安が描かれている点、また、「君」という別れた恋人への思いも綴られている点はとても私小説的である。「君」との間に何があったのかは知らないが、SNS的なものをきっかけに関係が悪化した…ことでもあったのだろうか、と想像してしまう。何らかのSNSの”汚れた”使い方によって別れてしまった(=「バラバラ」)とか。連絡が遅すぎてキレられた…みたいなことはありそうだが。SNSに限らず、他人との電子的コミュニケーション全般のことを歌っているのかもしれない。

ラスト「僕の中の変わらないこと/僕の中で変わらないこと/多分これが変わらないことのひとつ years」の部分はとても意味深で、人によって考え方が異なる部分かなと思う。筆者が感じたのは、”時代を音楽にしていく”という行為そのものはこれからも「変わらないこと」なのかなと思った。”音楽”というドキュメンタリー作品をこれからも作り続けていくのだということ。その時々の自分や社会の状況、気分、感覚を音楽に乗せて表現していく。それはどんなに年月(「years」)を重ねても「変わらないことのひとつ」なのではないかと。

もう一つ考えられるのは、どんなにSNSがセンチメンタルを殺そうとも(=「バラバラ」)、自分のセンチメンタルさは「変わら」ずにあり続けるし、大切にしていくということだ、というものだ。SNS自体の在り様を批判しているわけではなく、わかりやすいものやハッピーキラキラが求められる”時代”の風潮の中でも、自分はこうしていくのだという(=「帆を立てた」)、決意表明のような意味合いもある曲なのかもしれない。

「years」
歌手名:サカナクション、作詞・作曲:山口一郎

歌詞サイトはこちら

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※ライブのレポ&感想記事
「GO TO  THE FUTURE」

「シンシロ」

「kikUUiki」

「DocumentaLy」

「魚図鑑」
ファンクラブNF member ポイント&ステイタス制について考えたこと

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サカナクションの「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」を聴いて。

『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』【通常盤】(CD)
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2011-07-20


今回はサカナクションのシングル表題曲「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」を取り上げてみたいと思う。印象的なタイトル&MVで、ライブでは人形付き、振り付きで披露されることも多い楽曲だ。2018年3月発売のベストアルバム「魚図鑑」によると、この曲は”中層””夜行性”の魚として分類されている。この曲はサカナクションの楽曲の中で初めて”恋愛ソング”だと公言された曲のように思う。もともとはアルバム「DocumentaLy」に収録されている「エンドレス」をシングルとしてリリースする予定だったものが、制作が間に合わなかったため、急遽カップリングに入るはずだったこの曲をA面としてシングルをリリースすることになったのだという。同時期にできたカップリングの「years」とは双子のようなもので、二つで一つのような関連する作品とのことである。もっと言うと、「『バッハ~』」「years」「エンドレス」は3兄弟のようなものなのだろう。

やたら長いタイトルがコミカルな印象を与えるが、これはバッハ≒クラシックの敷居の高い感じとのギャップを狙ったもののようだ。バリバリ電子音のダンスミュージックかと思いきや、Aメロが詩吟をモチーフにしていたり、途中でクラシック調のピアノが入ってきたりと、和洋折衷、電子古典折衷(?)で様々な要素が盛り込まれていて面白い。コーラスも印象的に多用されているが、女性の”Ah~”、”Uh~”という声に注目してみると、2番のメロ部分には入っていないことに気づく。2番は「ひとり」だからね…と妙に納得したりもした。


※参考記事


どちらの曲も「色」という歌詞がキーワードになっていて、この時の山口一郎が抱いていた感覚がよく表れているなと感じる。


※参考 ベストアルバム「魚図鑑」
魚図鑑 (期間限定生産盤[2CD+魚図鑑])
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2018-03-28


2018年3月28日に発売されたベストアルバム「魚図鑑」から、この曲に関する考察文を一部引用してみる。

歌詞は当時、山口が付き合っていた女性とグレン・グールドが弾くバッハの曲を聴いていた時の思い出を書いており、それまでの楽曲に見受けられていた、他人との距離感や緊張感から解き放たれたラブソングと言える。

※参考 ラジオ『サカナロックス!』
・2011年7月20日放送分
「サカナクション山口一郎先生来校! "オレがこうなったのは、アレのせいです"」

この曲について語られているところを、放送後記より一部引用してみる。
とーやま校長「バッハはよく聴くんですか?」
一郎先生「クラシックは好きなんですけど、背伸びしてる感じというか大人びてるというか…そういう時間を楽しんでる時の気持ちを面白おかしく歌うと、大人に感じるというか洗練されてるというか、そういう風に感じないかな…と思って作りました」
やしろ教頭「あと、 "バッハの旋律を…" の歌詞のところが詩吟のメロディになってるんですよね?」
一郎先生「バッハと詩吟を組み合わせた、よい違和感です(笑)」
とーやま校長「いい意味で、遊んでる感じがすごいする! Aメロが詩吟とバッハの組み合わせで、サビが…?」
一郎先生「昭和歌謡!」

・2017年11月23日放送分
「ゲスト講師:藤原ヒロシ先生(2)」

リスナーから恋愛相談を受け、恋愛の話になったところでこの曲の話題が出てくる。
山口「僕ね、「ルーキー」って曲は、恋愛真っ最中に作ったんですよ。」
藤原「へー、いい時に?」
山口「いい時に。で、すぐに別れて、「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」と「years」って曲が2曲できたんですよ。だから、付き合うと1曲できて、別れると2曲できる(笑)。」
藤原「ははは(笑)」
山口「別れる方が1曲多いんですよね。」

※参考 雑誌『MUSICA 2011年8月号』
山口一郎と親交の深い音楽評論家の鹿野淳とのインタビューが掲載されている。重要なポイントを整理してみたいと思う。

(1)ピアニスト、グレン・グールドについて
当時付き合っていた女性と聞いていたというグレン・グールドの奏でるバッハ。グレン・グールドの生き方に共感するところがあったようである。
「(略)夜にバッハ聴きながら……僕、グレン・グールドのピアノが凄い好きで、グレン・グールドっていう人物がすごい好きだし、グレン・グールドがバッハに傾倒していった経緯とかもすごく共感できるんです。」
「グレン・グールドっていう人はバッハの譜面通りに演奏せずに支持された人じゃないですか。クラシックみたいなハイカルチャーな世界で、伝統があるし、規律が厳しい中で、それを破った上で評価されたっていうのって、僕が日本の音楽シーンだったりロックっていう世界でセオリーに反しながらも支持されていきたいっていう願望と一致してるんです。そんな自分から自然に鼻歌を歌うぐらいの気持ちで生まれた曲。(略)」

※参考 グレン・グールドの演奏する「ゴルトベルク変奏曲」



グレン・グールドのウィキペディアはこちら
グレン・グールドについて調べてみると、山口一郎と似たようなところがあったのかなと思ったりする。

(2)「エンドレス」、「years」との関係性
すべてを引用すると長くなるので、書かれていた内容の要点を整理してみる。

もともとのシングル候補だった「エンドレス」の制作にあたり、”この曲の中でどのように時代を歌おうか?”ということが、どうしても形にならなかった。それで、事前収録していた「『バッハ~』」で歌っていることを振り返った時に、(「『バッハ~』」は)その瞬間の自分を歌ったドキュメントであったと気づいた。行きつけのカフェでご飯を食べていた時、ツイッターでは音楽関係者が震災や原発のことをつぶやいていて、一方で、周囲のお客さんは恋愛や就職の話ばかりしていることに違和感を感じた。原発や未来のことへの(時代性のある)不安と、恋愛や就職といった(普遍的で個人的な)不安を比較しちゃダメだと思うとともに、「エンドレス」がうまく形にならなかったのは、その2つを1曲で書こうとしていたからだと気づいた。


※参考 雑誌『MUSICA 2011年11月号』
アルバム「DocumentaLy」の全曲解説が掲載されている。その中で、「『バッハ~』」「years」の流れについて書かれた部分があるので引用してみる。

「僕は”『バッハ~』”と”years”の2曲で時代を歌いたかったんですよ。”『バッハ~』”は当たり前にみんなが抱えてるいつもの不安、いつもの夜を歌った曲。で、”years”は時代に特化した、つまりソーシャルネットワークを歌った曲であり、”『バッハ~』”はそのソーシャルネットワークから感化されて生まれた曲なんです。(略)」

※参考 J.S.バッハ 「チェンバロ協奏曲 第1番 ニ短調 BWV.1052」


04:30頃から聴きなじみのあるメロディーが…。ライブでも盛り上がる瞬間だ。



ピアノだとわかりやすい?05:18あたりから。


※ まとめとして 話題に上がった3曲を整理してみると…。

”時代を歌う”と言った時に、その時代の人々や社会全体の風潮や気分みたいなものを歌うということが一つと、その時の山口一郎(やサカナクション)のリアルな体験や感覚を切り取ったものを歌う、という側面があると思った。

「『バッハ~』」山口一郎の個人的体験+”時代”を生きる人々のリアルで個人的な悩みを歌った歌
「years」山口一郎の個人的体験+”時代”を生きる人々や社会全体の風潮や気分を歌った歌
「エンドレス」山口一郎の個人的体験+”時代”を生きる人々や社会全体の風潮に問いかける

ざっくりと、このような印象を受けた。


●「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」(2011年7月20日発売シングル)



山口一郎を模した人形が印象的なMV。MVの最後の方、女性が人形の自分とうまくいきそうになり、嫉妬して人形を倒し、自分と女性がキスしようとすると、実は女性は木でできていた、というオチがある。この部分は、女性は仮面をかぶった自分(人形)を好きになっていて、自分も女性の本質を見ることができていなかった、ということを示唆しているのかなと思った。お互い表面的な部分を見て好きになっていた、ということだったのではないか。4人の人形は、相手によって自分の顔を使い分ける(仮面)様子や、それを俯瞰して客観的に見る自分もいる、ということを表現しているような気もする。

「バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心
 バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心

 月に慣れた僕がなぜ 月に見とれたのはなぜ
 歩き出そうとしてたのに 待ってくれって服を掴まれたようだ

 バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心
 バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心

 月に慣れた君がなぜ 月を見ていたのはなぜ
 僕の左手に立ち 黙ってる君の顔を思い出したよ

 気まぐれな君の色 部屋に吹くぬるいその色
 壁が鳴り痺れるチェロ すぐに忘れてしまうだろう」(1番Aメロ、Bメロ、サビ)

「バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心」を音楽で表現したのがこの曲であり、それは言葉では表現できないからこそ音楽で表現した…のだろうから、こんな考察サイトは野暮なのだが(笑)、それはそれとして考えてみたいと思う。

この曲の背景にあるのは、恋人と別れてしまい彼女のことを忘れたいけれど、彼女と聴いていた「バッハ」「夜に」聴くことで彼女のことを思い出してしまい、「こんな心」になってしまった…というようなストーリーなのだと思われる。「月に慣れた僕がなぜ 月に見とれたのはなぜ」というのは、後に続く「月に慣れた君がなぜ 月を見ていたのはなぜ」を受けたものであり、付き合っていた時に、「僕の左手に立ち 黙ってる君」「月を見ていた」のを思い出し、今の「僕」「月に見とれた」のではないかと思う。”あの時、彼女、黙って月を見てたなぁ…”というような感覚だろうか。別れた後の「僕」「月」越しに彼女を見ているような感じで、つまりまだ未練があるということだろう。「歩き出そうとしてたのに 待ってくれって服を掴まれたようだ」という部分が、まさに”未練”という感じがする。「僕の左手」というのは、山口一郎の右耳が突発性難聴を発症してしまったことを暗に示す歌詞だ。彼女が話すときはいつも「僕の左手」にいたのだろう。とても私小説感のある部分だ。

彼女に愛想をつかされた?忘れたと思ったら思い出す…。

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「バッハの旋律をひとり聴いたせいです こんな心
 バッハの旋律をひとり聴いたせいです こんな心

 忘れかけてたのになぜ 忘れられないのはなぜ
 歩き始めた二人 笑ってる君の顔を思い出したよ

 気まぐれな君の色 部屋に吹くぬるいその色
 壁が鳴り痺れるチェロ すぐに忘れてしまうだろう

 気まぐれな君の色 部屋に吹くぬるいその色
 壁が鳴り痺れるチェロ すぐに忘れてしまうだろう」(2番Aメロ、Bメロ、サビ)

2番ではまさに「忘れかけてたのになぜ 忘れられないのはなぜ」と直接的な歌詞が出てくる。彼女のことを「忘れかけてた」(1番では「月に慣れた僕がなぜ」の部分に相当)のに、やっぱり「忘れられない」のだという。恋人と別れた後に、恋人との思い出が詰まった曲を聴いたり、何か関係するものを見たり聞いたりすると、自分に気持ちが残っていればなおさら、胸が苦しくなるものだ。それが「こんな心」なのだろう。ただ、この曲の曲調は割と明るめで、コミカルな要素もある。悲壮感やドロドロ感はない。「魚図鑑」の解説に、「他人との距離感や緊張感から解き放たれたラブソング」とあるから、思わず踊りたくなるくらいの開放感やちょっとした自虐的要素もあるのだろう。

サビ、「気まぐれな君の色 部屋に吹くぬるいその色/壁が鳴り痺れるチェロ すぐに忘れてしまうだろう」とある。この部分から受ける印象は、”彼女が何考えてるのかよくわからなかったのかなぁ?”というものだった。「君」「気まぐれ」であり、「ぬるいその色」とあることから、熱くも寒くもない、はっきりしないような態度だったのかなと想像した。また、熱くはないということから、気持ちが”冷めて”いたことを感じていたのかもしれない。

「壁が鳴り痺れるチェロ」というのがこの曲で一番よくわからないフレーズ。「壁が鳴る」というのがまずよくわからないが、何らかの理由で彼女が怒ってしまい、「壁」をドーンと叩いたのかなぁと想像したりもした(笑)。彼女が「チェロ」を弾く人だったのかもしれないし、「バッハ」「チェロ」の曲を聴いていたのかもしれない。「痺れる」をポジティブな意味でとるか、ネガティブな意味でとるかで意味合いが変わってくるだろう。単に「壁が鳴る」ほど爆音で音楽を聴いていて、「チェロ」の素晴らしい音色に「痺れた」という思い出があったのかもしれない。「すぐに忘れてしまうだろう」というのは、”自分が”とも”彼女が”ともとれる部分だ。文脈的には、”自分は忘れられないけれど、彼女は「すぐに忘れてしまうだろう」、俺のことなんて…”という雰囲気がある。

”あんなことしなければ…言わなければ…”、恋人に別れを告げられると、つい誰もが後悔したり楽しかったことを思い出して悲しくなったりしてしまう。しかし、辛いこともこうして音楽に昇華することで乗り越えられるのだろう。乗り越えるというか、気持ちに一区切りつくというか。こんなにいい曲が作れるのなら、失恋も悪いことばかりではない(笑)。きっと、天国にいるバッハグレン・グールドも、微笑みながら見守ってくれていることだろう…。


※おまけ レゴ作家Drop氏による再現MV



「『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』」
歌手名:サカナクション、作詞・作曲:山口一郎
歌詞サイトはこちら

※あわせて読みたい(読んでほしい)




※アルバム「834.194」の記事もどうぞ※すべての記事一覧はこちら 

※ライブのレポ&感想記事
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「シンシロ」

「kikUUiki」

「DocumentaLy」

「魚図鑑」
ファンクラブNF member ポイント&ステイタス制について考えたこと

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サカナクションの人気曲「エンドレス」を聴いて。

DocumentaLy(初回限定盤A)CD+DVD+豪華ブックレット
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2011-09-28


今回はサカナクションの2011年9月28日発売のアルバム「DocumentaLy」に収録されているリード曲「エンドレス」を取り上げてみたいと思う。この曲は、2017年5月に発表された『あなたが選ぶサカナクションの名曲』ランキングでにランクインしている大人気曲だ(筆者も投票した)。この曲は山口一郎8か月もかけて制作したという超力作で、実は歌詞が74パターンもあるらしい(笑)。”普遍的な音楽を届けたい”という思いで制作した楽曲とのことで、本人の口から語られる場面も多いため内容の大筋はつかみやすいのだが、ジャケットやMVまで含めて考察すると、思った以上に深いことを表現している曲だということがわかる。ちなみに、2018年3月28日に発売されたベストアルバム『魚図鑑』では、”中層”の魚として位置づけられている。

※参考記事 「魚図鑑」感想&レビュー記事

※参考 音楽サイト『音楽ナタリー』
・山口一郎「DocumentaLy」のすべてを語る
https://natalie.mu/music/pp/sakanaction03

※参考 ラジオ『スクールオブロック!』内『サカナロックス!』
・2012年5月7日放送分 「アレンジ」
https://www.tfm.co.jp/lock/sakana/onair/120507/

・2018年3月29日放送分
「「ベストアルバム『魚図鑑』解体ショー(後編)」
https://www.tfm.co.jp/lock/sakana/index.php?blogid=4&archive=2018-03
 
「はい、これは「エンドレス」っていう曲ですね。この曲は本当に大変だったね……歌詞を書くのが本当に辛かった。なぜかっていうと、東日本大震災の影響をもろに受けていた頃だったんですね。「ルーキー」っていう曲をリリースするタイミングで、ちゃんと、今この時代に音楽をやっているっていうことは、この気分を、この時代をしっかり表したアルバムを作らないといけないと思って『DocumentaLy』というアルバムを作ったわけです。その中で「エンドレス」っていう曲は、振り返ったときに、「こんな事が起きたんだ」、「こんな事を思ったんだ」、「こんな連なりがあったんだ」って、未来にそんな風に感じてもらえる歌にしたいと思って取り組んだんですけど、なかなかこれは苦労して……完成しなかったですね。これが完成した時のDVDがあるの。この歌詞が出来るまでの映像のボイスメモみたいなものをつなぎ合わせたものがあるんだけど、恥ずかしいけど、書き上げた時に僕は泣いているのね。それも見てもらいたいなー。」

●ジャケット・MV研究&図解してみる

documentaly

「DocumentaLy」のジャケットは明らかに「エンドレス」の内容を意識したものになっている。本作の他にも、サカナクションはリード曲をイメージしたジャケットを制作することが多い。
(例:「kikUUiki」のリード曲 「目が明く藍色」歌詞の意味&解釈(その1)

PVに登場した目玉のような丸や間奏で落下する人間のモチーフが描かれている。人間の身体はその部位の英語が書かれており、下には”Real”と書いてある。上の5つの丸は、拡大してよく見ると何かの文字の上に置かれており、”y”の小文字だけが見える位置に書かれている。中央の人間は右側を手前にした体勢をしており、上から下に落ちていくようにも見える。

エンドレスの図

↑ジャケットをもとにした筆者作成の図。クリックで拡大できるはず…。

(1)メインテーマ・概要
「DocumentaLy」には様々なテーマが内包されているが、主だったものは、
・ドキュメンタリー=記録(作品)
・RとL(右と左)、山口一郎の突発性難聴(2010年発症、右耳)
・Real(リアルを結ぶRとL)
・mentaL(心・精神)
であると、前述の『音楽ナタリー』リンク)にて語られている。
「Documentary」のRをLに変えることで、「Mental」という言葉が出てくるんですよね。心というものは、常につきまとっているんだけど、それは意識しないとつかめないもので。それ故にリアルを見落としてしまう瞬間があるなって。でも、その中にこそ本質があると思う。RとLで「Real」という言葉を結ぶという意味もあるし、右耳と左耳という意味もあるし、「Mental」という意味もある。いろんな意味を込めましたね。
おそらくは、
「右・R=Real」(現実・物質・見える世界・昼)
「左・L=mentaL」(心・精神・見えない世界・夜)

であり、上記発言の「リアルを見落としてしまう」というところが、右耳が聞こえにくくなってしまった山口一郎自身のことを言っているようにも思えた。左右と物心二元論的な世界観を結びつけたものなのかと思いきや、よくよく考えると腑に落ちない点も出てくる(後述)。

「エンドレス」非常に深い哲学的な、認識論のような世界観を歌っているようにも思える。MVには明らかに脳や神経を表すような表現が見られる。目で見た・耳で聴いたことが脳に認識され”記憶”となり、本来目に見えない”記憶”を目に見える形で残したものが”ドキュメンタリー”であるということ、そしてその”記憶”の曖昧さ、繰り返される(=「エンドレス」)という意味で「デジャブ」という歌詞も出てきているように思う。

(2)正十二面体と目と脳について
MVを見ると、が重要なアイコンになっていることがわかる。球に近い正十二面体を斜めにしたような空間の中に丸い目玉をかぶったサカナクションの5人が演奏しているが、この正十二面体はスクリーンのようになっていることからも、”写す=目”のような役割を果たしていることが読み取れる。また、後半になると、明らかに脳のような映像が映し出され、過去のシーンが走馬灯のように蘇る場面があることからも、”脳””記憶媒体”の側面があることも読み取れる。ラストに人が目玉を取ると、中にまた同じ正十二面体が出てくることから、相似形の「エンドレス」、これはやはり”脳”であったということがわかるようになっている。

(3)左側から右側へ”落ちていく”人間について
”左側から右側へ落ちていく人間”というのは、ある意味、目に見えない霊的世界から目に見える物質世界に生まれ落ちた人間存在そのものを表していると言えるのかもしれない。「デジャブ」という単語も、過去生の記憶が云々…といった霊的世界のことが関係している可能性もある。

(4)仏教思想や認識論との関連性(飛ばし読み推奨)
「見えない世界に色をつける」という歌詞に関連して。「色」という言葉は仏教用語では以下のような意味を指す。
「仏教における色(しき)はパーリ語のルーパ( 梵: रूप rūpa)に由来し、(1)一般に言う物質的存在のこと(五蘊の一要素)で、色法と同じ意味、(2)視覚の対象(十二処、十八界の一要素)、を表す言葉。」ウィキペディア参照)
・・・難しいが、「物質的存在」「視覚の対象」といったところから、この曲の主題とも関係があるように思う。こういった「色」の意味を含めて、「見えない世界に色をつける」という表現を使ったのではないか。

物質世界を認識するのは肉体であり五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)であるというのはわかるが、心・精神は目に見えないながらも認識主体ではなく認識対象である…というのが本当のところかと思う。では認識主体とは何?となり、自我と観照の話になり…筆者も難しすぎて手に負えなくなってくる(汗)。

しかし、この部分がおそらくこの曲の一番大事な所なのだとも思う。筆者は、左側にあるのは”心”ではなく、”認識主体”であり、”心”は感情とも言え、認識主体(左)と物質界(右)の間にあるものだと考えている。歌詞で言うと「笑う」「悲しむ」といったものや、”涙”のようなものに当たると思う。目に見えない世界に”認識主体”と”認識対象”(心・感情・思考)があり、目に見える世界にも”認識主体”(感覚器官)と”認識対象”(外の世界)があるということになるだろうか。思った以上に哲学的になりすぎたのだが…考えの練り途中なので違うかもしれない…。


●「エンドレス」(2011年9月28日発売アルバム「DocumentaLy」収録曲)



切ないピアノソロから始まるイントロ。歌詞は推敲を重ねられただけあって、無駄な部分が一切なく、削ぎ落とされてシンプルなものになっていると思う。1番はおとなしめな印象だが、2番からは軽快でポップな展開に変化し、MVのストーリー性・メッセージ性がより明確になってくる。間奏部分で目玉の人間が落ちていくシーンが印象的で、そこから過去の記憶がフラッシュバックするような映像が続き、発狂しそうなほどの混沌と苦しみが限界に達した時、ラストサビが展開していく。山口一郎「AH」の部分が非常に苦しそうで、心の叫びのような、怒り…悲しみ…言葉にできない数々の感情の高ぶりを感じさせる。一方で、それを無表情でただじっと見ている目玉人間の存在もあり、感情と理性・右脳と左脳といった対比も描かれているのかなと思った。
歌詞の内容については、以下のインタビューが参考になる。

※参考 前述の『音楽ナタリー』のインタビューより引用。
https://natalie.mu/music/pp/sakanaction03/page/2

YouTubeがあるじゃないですか。あのコメント欄って、映像があって、その映像を観て最初に受けた感情をコメント欄に書くんじゃなくて、誰かがコメントしたものに対してのコメントで埋まっていくんですよね。つまりそれは批評じゃないんです。
誰かが何かを言ったことに対して、また誰かが何かを言って、それを受けてその作品を笑う人がいて、それを悲しむ人がいる。その流れを終わらせようとするコメントをする人もいて、それをまた傍観してる人がたくさんいる。何か不思議なコミュニケーションの連鎖がそこで行われている。でも、その連鎖は、僕らの日常の中にもあるんですよね。僕らは誰かと常に接していて。そこには苦手な人も得意な人もいるし、誰かの陰口を叩く仲間もいるし、陰口を叩かれることもあるし、自分が誰かの陰口を叩くこともあるかもしれない。そうやってひっつきあいながら生きていくのって、社会の成り立ちとして当たり前なんだけど、みんなどこかで疑問を持っていると思ったんですよね。
(略)その成り立ちに終わりがあるのかと思ったら、僕はないと思った。でも、自分の中で終わらせることはできるなと思った。自分で自分を指差すことで。「自分はどうなの? 自分はどうするの?」って、自分で自分を指差す。僕はミュージシャンで、人に何かを啓蒙したりする存在ではないと思うけど、自分の考えを言うことはできるなと思ったんですよね。それを「エンドレス」の歌詞で言えたことがすごく大きかった。

「誰かを笑う人の後ろにもそれを笑う人
 それをまた笑う人
 と悲しむ人

 悲しくて泣く人の後ろにもそれを笑う人
 それをまた笑う人
 と悲しむ人

 AH 耳を塞いでる僕がいる それなのになぜか声がする
 見えない夜に色をつける デジャブしてるな

 AH 耳を塞いでる僕は歩く それなのになぜか声がする
 見えない夜に色をつける声は誰だ」(1番Aメロ、サビ)


インタビューを読むと、この部分の歌詞は割とそのままだなとわかるので、さほど難しくないと思う。筆者も山口一郎(と世間)が抱える違和感を感じている。その一つには”コメントに対してコメントする”ような状況に、”他人の目・反応を気にして自分(の意見)がない”と感じる違和感があると思う。「エンドレス」にコメントが重なっていく状況。さらに、「笑う」という単語は面白くて「笑う」という意味ではなく、”見下したように”、”批判する”といった意味で使われているように思う。コメントにはいろんな種類のものがあるが、この曲ではネガティブで批判的なコメントを題材にしているように感じられる。

「色をつける」ということの意味は(前述も含め)いくつかあると思うが、一つは対象に対して反応する(感情・意見・批評・判断など)といった意味があると思う。”色眼鏡”といった言葉もあるように、誰しもが自分のフィルタを通して外の世界を認識しており、あるものに対する反応も人それぞれ全く異なっている。「耳を塞いで」外の「声」をシャットアウトしたはずなのに、聞こえる「声」「声」外側から聞こえてくるものだけではないのだろうか?

「終わらせる人」と傍観者の違いって何?

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「誰かを笑う人の後ろから僕は何を想う?
 それをまた笑う人
 と終わらせる人

 悲しくて泣く人の後ろから僕は何を想う?
 それをまた笑う人
 と終わらせる人

 AH 耳を塞いでる僕がいる それなのになぜか声がする
 見えない夜に色をつける デジャヴしてるな

 AH 耳を塞いでる僕は歩く それなのになぜか声がする
 見えない夜に色をつける声は誰だ」(2番Aメロ、サビ)


”コメントにコメントする”ような状況を外から観察していた「僕」だったが、今度は内側に問いかけてみることにした。「僕は何を想う?」
ここからは筆者の考え。山口一郎の言うところの「終わらせる人」というのは、いったいどういった態度のことを指すのかがいまいちわかりかねる。大多数の傍観者と「終わらせる人」は明確に違うものととらえているように思うが、その違いは何なのだろう。コメント合戦に参加しない人は「終わらせる人」ではないということだ。

自分のことは棚に上げていたが…。内側に問いかけてみると?

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「後ろから僕は何て言おう? 後ろから僕は何て言われよう?
 見えない世界に色をつける声は誰だ

 AH この指で僕は僕を差す その度にきっと足がすくむ
 見えない世界に色をつける声は僕だ」(ラストサビ)

音楽の盛り上がりと共に内容も、このラストの部分が最大のキモで、自らがコメントを言われる側でもあり、言う側でもあるという自分自身の状況、そして、有名人でなくてもコメントをした時点で言われる側にもなるということを表現しているように感じた。

ラストでついに「声」の主が明らかになる。「見えない世界に色をつける声は僕だ」

疑問だった「終わらせる人」だが、インタビューも踏まえた上で思うのは、「でも、自分の中で終わらせることはできるなと思った。自分で自分を指差すことで。「自分はどうなの? 自分はどうするの?」って、自分で自分を指差す。」、つまりは、意識を内側に向け、自分自身に問いかける人「終わらせる人」なのではないかということだ。”コメントにコメントをする”状況に”違和感”という「色をつける」のもまた、”コメント”と同じようなことをしているにすぎない。外の世界ではなく、自分自身の内側に指を差すということが、「エンドレス」のコメント合戦を「終わらせる」ということになるという、そういう歌なのだと思う。内側に目を向けると、当然自分の醜い部分や見たくないことに向き合うことになるため、誰もが「足がすくむ」ような恐怖を覚えるものだ。ラストは哲学的な壮大な気づきで終わる。

何かを批判して、それをまた批判して…と外の世界を眺めていた自分だったが、そんな自分も外の世界を批判的に見ていたのは同じではないか?「耳を塞いで」も聞こえてくるのは、自らが外の世界を”コメント”する「声」だったのだろう。批判的に見ていた外の世界の側面が自分にもあったと認めることは恐ろしく、人はなかなか自らの内側を見つめることができない。「エンドレス」は非常に内省的で、誰しもにとって自戒的な歌でもあると思った。

「エンドレス」
歌手名:サカナクション、作詞・作曲:山口一郎

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サカナクションの大人気定番曲「アイデンティティ」を聴いて。

アイデンティティ(初回限定盤)(DVD付)
サカナクション
ビクターエンタテインメント
2010-08-04


今回は数あるサカナクションの楽曲の中でも1、2を争う定番曲である「アイデンティティ」を取り上げてみたい。ライブでは必ずと言っていいほど演奏される曲で、この曲が始まるとファンのボルテージがマックスに上がる。サビの「どうして~」の部分は、多くの観客が一緒に歌っていると思う。ストレス発散になるし、大声で叫ぶのにちょうど良いフレーズなので気持ちが良いのだ(笑)。ライブで聴くのも良いが、内容的にも「アイデンティティ」について考えさせられる部分が多いので、じっくりと読み解いてみたいと思う。

※(1)参考となるインタビュー記事
『ホットエキスプレス ミュージックマガジン』
 サカナクション アイデンティティ インタビューhttp://www.hotexpress.co.jp/interview/100722_sakanaction/page2.html#0
↑このインタビュー記事には山口一郎の音楽に対する思想がこれでもかと詰まっているので、この曲の解釈に限らずとても読む価値があると思う。中でも「アイデンティティ」の楽曲に関する重要な部分を引用してみる。
--(筆者注:僕=インタビュアー)僕はそのツアーの最終公演で、今回のニューシングル『アイデンティティ』を聴きました。そもそもどんな背景があって生まれた曲なんでしょうか?

山口一郎:僕は音楽を作っていく中でしか“自分らしさ”について考えることが無かったんですよ。つまり自分と向き合う中で“自分らしさ”を考えていくのが普通だと思っていた。でも東京に出てきたことでね、東京っていう街はいろんな地方から来ている人の集合体だなと思ったし、そういった人たちがすれ違う人と自分を見比べて“自分らしさ”みたいなものを発見しているんだなって。服装にしろ、髪の長さにしろ、細かいひとつひとつを見て自分を確認している。あと、YouTubeのコメントとか見ていると、動画を見終えた直後の感動をコメントしているんじゃなく、見終えて他人のコメントをいくつも見た上でコメントしている人が多い。それって他者の意見を反映させた自分の意見だからピュアじゃないんですよ。でも今はそれが正論になったりする。そこに僕は時代の面白さを感じたんですよね。

--なるほど。

山口一郎:それで“本当の自分らしさ”について考え出したとき、一体いつの年代がピュアに自分の感覚で話していたのか振り返ったとき、やはり「幼少期だな」って思ったんです。子供の頃の素直さというか、20代後半の女性を掴まえて「おばちゃん」って平気で言ったりね(笑)。今は気を遣って言わないことを言っていた。それは無知なんですけど、無知だからこそピュアでいられた。でも今は無知ではなくなった年齢で、その中でピュアをどう出していくのかが“本当の自分らしさ”に繋がっていくんじゃないかと気付いて、それを『アイデンティティ』という曲で表現しようと思ったんです。

(中略)--(ただ、事件というのはどんなに意識したとしても起こせない人には起こせない訳じゃないですか。計算や努力も必要ですが、どこか神懸かった奇跡や偶然も不可欠な訳ですよね。でも今のサカナクションはそれを次々と起こせてしまう。これは何故だと思いますか?

山口一郎:俯瞰で自分たちを見ている部分と、内向的に自分たちと真剣に向き合っている部分。その二面性を自分たちの中でちゃんと持っていること。それが僕ららしさを貫いていけてるひとつの要因なんじゃないかなって。やはり謙虚にね、自分たちを見つめていると、本当に俯瞰で見れるんですよ。ちょっとでも天狗になると「同じこと繰り返しても、どうせみんな付いてきてくれるだろう」って考えが出てくるし。それが少しでもあると甘えが出てくる。そうじゃなく、常に挑戦して変えていく。壊していって新しい自分を見つけていく。この謙虚な姿勢を貫いていくことが、自分たちらしさを保つ為の方法論かなって。

※(2)前提知識:アイデンティティについての定義づけ まとめ
(参考文献:「MY BEST よくわかる倫理」 学研教育出版 リンク先アマゾン)
 参考文献からの引用+筆者の補足説明は以下↓↓

エリクソン(20Cアメリカの心理学者)は、青年期に達成することが主な課題である自我が統合された状態を、アイデンティティとよんだ。アイデンティティは、自我同一性や主体性と訳される。

*アイデンティティ 自我同一性
A「私は他の誰とも違う自分自身であり、私はひとりしかいない」=独自性
B「いままでの私もこれからの私もずっと私であり続ける」=一貫性
自らの独自性と一貫性の感覚からなる、安定感、安心感、自信を意味している。すなわち自己肯定感、”ありのままの自分で良いんだ”という感覚。その人独自の趣味嗜好、考え方、価値観、性格、才能など、自分や他者の視点に関わらず、その人がその人であるという独自性。

*セルフ・アイデンティティ 自己同一性
C「わたしとは何者であるかをめぐるわたし自身の観念」
 自分の自分に対する認識=個人的同一性
D「わたしとは何者であるかと、社会および他者が考えているとわたしが想定する、わたしについての観念」
 他者による自分に対する認識=社会的同一性
→この二つが一致すること=自己同一性
自分から見た自分と他人から見た自分が一致していること。すなわち、自己同一性の感覚をもつには、他者からの承認が必要となってくる。社会的に活躍することであったり、好きなことややりたいことをして他人に認められている状態はその二つが一致していると言える。その他、”性同一性障害”というのは、C 自分の自分に対する性の認識とD 他人の自分に対する性の認識が異なるという障害のこと。

※(3)CDジャケットにも注目
このジャケットは大きな”?”マークが印象的だが、これはこれまでのサカナクションのCDや山口一郎が影響を受けたであろう文学(本)、カセットや音楽の機材などで形作られており、よーく見ると写真の中央付近に小さな二人の人影があるのがわかる。一人は黒い服を着て立つ人、一人は裸で座っている人で、おそらく二人とも山口一郎自身のイメージなのだと思う。黒い服の方は、公的な顔というか、他者との関係性の中での”自分”とか)、裸で座っている方は、純粋なありのままの”自分”とか)を表しているのではないかと推測した。

●「アイデンティティ」(2010年8月4日発売シングル)



普通に演奏しているMVかと思いきや最後にどんでん返し(オチ)がある。なぜこのような演出にしたのかは定かではないが、上記で紹介したインタビューでも話されていたように、ある種の”シュールさ”みたいなものを表現したかったのではないかなと思った。ただただ演奏している様子、というだけではなく、それを俯瞰している他者、もしくは内なる自分のような存在を暗示しているようにも見える。自分らしさを内向的に見つめる自分と、その自分を俯瞰して見つめる自分、インタビューで語られていたその二面性を表しているのだろう。それがパチンコ台というのが、サカナクション”らしく”ないところが”シュールさ”を醸し出しているのではないだろうか。

「アイデンティティがない 生まれない らららら
 アイデンティティがない 生まれない らららら

 好きな服はなんですか?好きな本は?好きな食べ物は何?
 そう そんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ

 映し鏡 ショーウインドー 隣の人と自分を見比べる
 そう それが真っ当と思い込んで生きてた
 
 どうして 今になって 今になって そう僕は考えたんだろう?
 どうして まだ見えない 自分らしさってやつに 朝は来るのか?
 
 アイデンティティがない 生まれない らららら
 アイデンティティがない 生まれない らららら」(冒頭メロ、1番Aメロ×2、サビ、メロ)


「好きな服は何ですか?好きな本は?好きな食べ物は何?」
このフレーズが問うているのは、前述の定義で言うところの”A 独自性”の部分である。その人独自の趣味嗜好という意味での「アイデンティティ」のことを言っている。
「そう そんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ」
自らの「アイデンティティ」「自分らしさ」に思いを馳せた時に、”A 独自性”の観点を真っ先に思い浮かべ、その一部の側面からでしか「アイデンティティ」を図ることができない「僕は凡人だ」と言っているのではないだろうか。「アイデンティティ」「自分らしさ」というのは、その人の趣味嗜好レベルの浅いものではその本質にはたどり着けないということを逆説的に伝えているような気がした。

「映し鏡 ショーウインドー 隣の人と自分を見比べる
 そう それが真っ当と 思い込んで生きてた」

「ショーウインドー」を見ている時というのは、透明なガラス越しにある商品を見ているようでいて、手前のガラスには自分自身が映っている。我々は商品を選ぶときに、「見比べる」ということをする。それと同様に、自分自身も「隣の人と自分を見比べる」ことを無意識でしてしまう。この部分では”他人との比較”という観点が出てきており、他人とは異なる自分自身の独自性、という意味で”A 独自性”の側面のことのように思える。”他者と比べての優劣”という比較の観点でしか自己を肯定することができないと、本当の意味で自己肯定感が高いとは言えず、「アイデンティティがない」状態と言えると思う。
また、1番の上記2フレーズを通じて、(インタビューでも語られていたように、)自分を内向的に見つめることではなく、他者との比較によって自分らしさを見つけようとしている東京の人々に対する皮肉も込められていると思った。

「どうして 今になって 今になって そう僕は考えたんだろう?
 どうして まだ見えない 自分らしさってやつに 朝は来るのか?」
前述の前提知識の部分でも紹介したように、本来「アイデンティティ」というのは”青年期の課題”なのであって、大人になってから取り組むようなものではない。本来はそうであるはずなのだが、現代のこの世の中において、大人になってからも”自分らしさ”という「アイデンティティ」の呪縛に苦しんでいる人というのが多数派であるという現状がある。「どうして 今になって」「そう僕は考えたんだろう?」という問いに一つの答えがあるとすれば、青年期にやり残した課題を今やっているからだ、ということになりそうだ。日本においては「アイデンティティ」に真剣に取り組むべき10代後半から20歳前後の時期に、受験就活といった形式的なイベントの対応に追われてしまうということがある。自分自身を深く見つめるということをせずに社会に出てしまうからこそ、大人になってから「アイデンティティ」難民のようなものが生まれてしまうのだろう。

「自分らしさ」って何?泣きたくなるほど知りたい欲求…

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「風を待った女の子 濡れたシャツは今朝の雨のせいです
 そう 過去の出来事 あか抜けてない僕の思い出だ
 
 取りこぼした十代の思い出とかを掘り起こして気づいた
 これが純粋な自分らしさと気づいた

 どうして 時が経って 時が経って そう僕は気がついたんだろう?
 どうして 見えなかった自分らしさってやつが 解り始めた

 どうしても叫びたくて 叫びたくて 僕は泣いているんだよ
 どうしても気づきたくて 僕は泣いているんだよ」(2番Aメロ×2、サビ、ラストサビ)

「風を待った女の子 濡れたシャツは今朝の雨のせいです
 そう 過去の出来事 あか抜けてない僕の思い出だ」
「アイデンティティ」という曲に対して、この部分の歌詞は浮いていて、あまり内容が通じないように思い、正直意味を取るのが難しかった。「女の子」「今朝の雨のせい」「濡れたシャツ」を着ていて、それを乾かそうと「風を待っ」ている様子を「あか抜けてない僕」が見ていた、というシーンを想像した。ここで表現されているのは、”思春期の性の目覚め”のようなものかなと思った。(おそらくちょっといいなと思っていた)女の子の服が濡れていたのを見たという描写は、異性というものを意識し始めたり、自分の性を認識する出来事の象徴のように感じられた。この部分では、「アイデンティティ」のうちの、性に関するもの(性同一性)のことを言っているのではないかと見て取った。

「取りこぼした十代の思い出とかを掘り起こして気づいた
 これが純粋な自分らしさと気づいた」

この部分は、おそらく”B 一貫性”に関するものだと思う。”今までの私もこれからの私もずっと私であり続ける”ということ。「取りこぼした十代の思い出とか」というのは、前段の「風を待った女の子」のくだりのことを含んでいるように思う。「取りこぼした」「思い出とか」の中にこそ、「純粋な自分らしさ」を見たというのが逆説的で面白い。「自分らしさ」を考えるにあたって、あらゆる「思い出とか」には当たってみたのだろうが、「取りこぼした」ものの中に「自分らしさ」を見つけたということは、”取るに足らない”と自分では思ってしまったものであったり、すぐに思いつく大きな事件・出来事ではなく、日常の何気ない感覚や思いの中に、実は「自分らしさ」があった、というようなことを言っているのではないだろうか。20歳を超えて大人になってくると、世間の常識、風潮、固定概念に制限され「純粋な自分らしさ」を発揮できない状況に耐えがたいような苦しみを感じるものだ。インタビュー記事でも「でも今は無知ではなくなった年齢で、その中でピュアをどう出していくのかが“本当の自分らしさ”に繋がっていくんじゃないかと気付いて」と語られていたようなことが、この2番の歌詞の意味なのだろうと思う。

「どうして 時が経って 時が経って そう僕は気がついたんだろう?
 どうして 見えなかった自分らしさってやつが 解り始めた

 どうしても叫びたくて 叫びたくて 僕は泣いているんだよ
 どうしても気づきたくて 僕は泣いているんだよ」
1番ではまだ見えない 自分らしさってやつに 朝は来るのか?」と語られていたものが、2番では見えなかった自分らしさってやつが 解り始めた」という表現に変化している。1番ではもがき苦しんでいたものが、2番では少し希望が見え始めている様子が伺える。「アイデンティティ」「自分らしさ」「どうしても気づきたくて」「僕は泣いている」ということらしい。実際に大声を上げて叫んでいるのは、彼自身の肉体ではなく、内なる心や魂の方なのだろうと感じる。本来は青年期に解決すべきだったものを、大人にまで持ち越せば持ち越すほどにその内的な「叫び」は大きくなるように思う。究極的に、人間の知的好奇心というものは”自分とは何か?”を知りたいというところに集約されるように思っていて、誰もが持っている根源的な問いなのだと思う。

「アイデンティティがない 生まれない らららら
 アイデンティティがない 生まれない らららら」
冒頭から終わりにかけて(歌詞なし部分もあり)印象的に繰り返されるフレーズ。「アイデンティティがない 生まれない」とはどのような状態を指すのだろうか?前述の前提知識の説明を用いると、”ありのままの自分でいいんだ”という自己肯定感や、他者からの承認や評価が得られていない状態とも言えると思う。山口一郎自身の「どうしても」「自分らしさ」を知りたいという渇望感、心と魂の「叫び」が、「どうして」というフレーズに命を与え、「アイデンティティ」社会の閉塞感を打ち破るような生命力や躍動感を感じさせる力強い楽曲に仕上げたのだろう。

「アイデンティティ」
歌手名:サカナクション 作詞・作曲:山口一郎

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