2006年05月17日

久保の敗因

ブログに書く事ができなかったが、久保が落選しなければだめだと思っていた。このところ代表の試合に久保が先発していたが、それは、チームの功労者である久保を外すにあたって万全を期すためであり、久保への配慮だと感じていた。

久保の落選の理由には、柳沢が骨折から回復途上にあり、FWに故障という爆弾を抱えた人間が二人いることは許されぬ。そういう事情もあったに違いない。

ジーコ自身が、不良コンディションでワールドカップに望み、無念の経験があるという。私は、フランスワールドカップの決勝が、ロナウドの体調不良で凡戦に終わってしまったのを思い出す。テレビ観戦で見たキリンカップの久保は、11枚の駒のうちのひとつでしかなかった。それではFWとして失格である。

そして、気持ちの欠如。それが最大の久保の敗因である。

たとえ真実だとしても、サッカーをやっている間は、自分が長距離トラックの運転手になりたいなどと言ってはいけない。

キリンカップは、個々の選手にとって最終アピールの場であると、マスコミは喧伝していた。なのに、脚を折れよ。と、久保は無茶をしなかった。ブルガリア戦は自らの意志で欠場している。それが、すべての原因である。

当落線上でぎりぎりのアピールを重ねる巻や佐藤らチームメイトたちの努力を前に、久保は、自らの優位性を担保に1ヶ月後のワールドカップ本番に向けて調整をしていた。勿論、それほどまでにコンディションが悪かったともいえる…。

コンディションは勿論、その心のなさをジーコは見逃さなかった。いまベストをつくせない人間が、明日ベストをつくせるはずがない。チームプレイでは日々の行動がチームメイトの信頼を呼ぶのだ。久保は故障だというが、その本質は痛みと悪化することへの不安である。痛みと不安に負けた人間に、ワールドカップで戦う資格はない。

久保落選の背後には、早々とマスコミが彼に当確を押してしまったことも、原因があると思う。もし、久保が当落線上の選手だと、マスコミから言われていれば、もうすこし違っていたかもしれない。その意味では、久保もかわいそうだ。

それよりもっと気になることがある。それは、キリンカップでスコットランドが引き分けでも優勝できるという理由から、守りを固める戦術に出たことを、ほとんどのマスコミが、ワールドカップ本番では、こんな戦い方はありえない。と、評したことである。

マスコミが、何でそんな論調になるのか分からない。

初戦のオーストラリア。こんなことは予想したくないが、前半でオーストラリアが2点入れたら、後半はキリンカップのスコットランドのような守りを固める戦術になるに決まっている。人海戦術になれば身長差でオーストらリアの有利になる。

何が起こるからわからないワールドカップだ。3戦とも引き分けで、得失点差で決勝トーナメント進出という戦術だってありえる。もとより、日本にしたって、勝つことよりも負けないことを目標に、現実的な戦略をまとめているはずだ。

で、キリンカップのスコットランド戦、日本は勝ったのか? 引き分けである。

ワールドカップの対戦相手がスコットランドの戦い方を参考にしないはずはないのである。ジーコは、日本のマスコミに陽動されることはないと思うが、12番目の選手であるサポーターたちも陽動されてはいけないと思うのです。



sponta0325 at 06:33|この記事のURL

2006年05月16日

個にとってのサーバー&クライアント。サーバーであることの誇り。

ハイティーンの若者たちが引きこもったり・逆ギレする原因は、サービスする側(サーバー)になることに耐えられない自尊心が原因だと思っている。生まれたとき、人間は一方的にサービスされる側(クライアント)である。

だが、物心がついていくと、「自分のことは自分でやりなさい」としつけられる。この言葉の表面にあるのは自立という概念だが、その実体は、自分がクライアントではない。という屈辱を幼い心に刻み付けることでもある。

だが、次第に、「新聞を取ってきてくれ」「御茶碗を洗ってね」と両親から言われ、いつしかサービスする側になっていく。

私が「新聞を持ってきて」と命令するとは、娘は玄関の外に出て、新聞を持ってきてくれる。その様子を見ていると、けっして不機嫌ではないことを感じる。自分がサービスする側なのだけれど、そのことを楽しんでいる。父親に喜ばれることに満足している。「リアルままごと」のようなものだが、サービスすることの喜びを知っているに違いない。

だが、食事のあと、カミサンが「御茶碗を洗ってね」と言うと、へそを曲げる。けっして洗おうとしない。冷たい水で食器を洗っていた昔とは違い、いまはお湯で洗うのだからまったく苦痛ではない。ましてや、水遊びが好きだった娘である。

私には食器洗いをがんとして行おうとしない、彼女の気持ちが分からないでいた。だが、サーバーということを考えれば分かりやすい。彼女は自分がサーバーであることに抵抗しているのだ。そんなことに屈辱を感じないで、楽しんでやっちゃえばいいじゃないか。47歳の私は、そう素直に考えることができる。だが、この私も10代の頃は、サーバーである屈辱感を感じていたのであろうか、たまにしか自分の茶碗を洗うことをしなかった。

いまは、自分がサーバーであることに屈辱感はないし、サーバーであることに誇りを持っている。それが親というものだろう。

さて、職業人であることはサーバーとしての誇りを持つことである。

料理人はサーバーだから、自分がつくった料理を客が満足することで、満足する。それが真っ当。だから、自分の料理を不味いと言う客を認めない料理人はクライアントであり、本質的には職業人ではない。

客を罵倒するなどもっての他。客として相手を認めないならば、今後の出入りを禁止すべきことであって、サーバーとクライアントの関係が続いている状況では、その関係に縛られなければ、職業人としての見識が疑われる。また、自分と同じ立場の客が罵倒されている状況を他の客も見ているのだから、明日は我が身との心理になる。そこから、店の評判が落ち、客離れがはじまったとしても、仕方のないことだ。

私は、自尊心を持たぬことに自尊心を持つ。などと、理屈っぽいことを書いたが、私をそのような考えに至らせた理由は単純だ。私の助監督(AD)としての経験である。

作品のためなら何でもする。奴隷にでもなる。そういうストイシズムが、薄給の助監督の誇りである。

女優が冷たい池に入るシーンの撮影では、まず助監督が冷たい池に入って見本を見せる。そんなことは当たり前だ。

今村昌平監督の代表作「日本昆虫記」には、北村和夫演ずる農夫が肥料(糞尿)の具合を調べるために舐めてみるシーンがあったという。豊作のためには何でもする。そういう農民の真剣さ・切実さを表現するには、素晴らしいシーンだと思う。

私がもし、今村昌平監督の現場に助監督としてつく名誉があったならば、役者に先んじて糞尿の味を確かめ、演技者の北村氏に、「ちょっとしょっからいけど、大丈夫です。本番いきましょう」と報告し、大きな笑顔をつくったに違いないのだ。

そのように、私はスタッフであることに誇りを持っている。私の文章から一般ピープル蔑視を読み取った人がいるが、それは私の本意ではない。イベントや撮影の現場において、私はつねにサーブする側を意識している。だから、私がなりたかったものはスタッフ(サーバー)。スポットライトを浴びるキャストではなく、あくまでスタッフなのです。

そして蛇足をあえて言うなら、キャストが自らがサーバーであることを忘れてしまったら、その価値はない。

私は、素晴らしい演技やパフォーマンスのためなら、奴隷にでもなるが、出来上がる作品に価値がないと悟ったら、そうそうと立ち去る。そのようにして、さまざまな制作の場を彷徨ってきた。

あの夜、私に「アウェーの気分なの」と言った若い女性の言語感覚は目を見張る。だが私は、ホームでもアウェーでもなかった。言い換えれば、サーバーでもクライアントでもなかった。

私は、ブロガーでもある有名人とそこに集ったブロガーたちのオフ会に接して、自らが模索する市民参加型ジャーナリズムへヒントを得ようとしていた。だから、ある意味、報道陣だったのだといえる。

もの言わぬ観客に代わって報道陣が語ることはよくあること。そんなことだったと私は述懐する。

ラジオの公開録音のような構成がオフ会にふさわしいものであるはずもなし…。

私が構築をめざす市民参加型ジャーナリズムの中で、私がどういう立場を目指すかといえば、あくまでサーバーであって、コンテンツメーカーではない。そこに、私がメタ議論を繰り返すという批判が当然でてくる。私はそういう批判と辛抱づよく対応しなければならないのだ。

マイクロソフトはコンテンツには手を出さない。だから、ニュースサイト構築において、毎日新聞と提携した。私の野望も、それに同じといえば、イメージできるかもしれない。



sponta0325 at 07:50|この記事のURL

2006年04月23日

市民参加型ジャーナリズムについての原稿をネットでリリースします。

「幻想の市民参加型ジャーナリズム」というタイトルでネットでリリースします。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/68466



sponta0325 at 20:59|この記事のURL

日々更新しているのは、次のブログです。

主たる活動をスポンタ通信で行っています

http://www.doblog.com/weblog/myblog/12516



sponta0325 at 16:28|この記事のURL

2006年02月08日

市民の意見を拒絶するメディアであるライブドアPJって何?

livedoor ニュース

ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村が書いています。

*

少なくとも、PJの側には誹謗中傷合戦はなかったと記憶している。

もしあったとしても、それは、センター長補佐と一般PJの間でのことかもしれない。

とはいえ、それにしても、建設的な議論の中にセンター長補佐は一切加わらなかった。

私は、それが民主主義にとって一番よくないことだと思っている。

あのとき、誰も彼を責める気はなかった。人員不足も理解していたし、資金不足も理解していた。その中で自分たちが何ができるか、それを提案していただけだ。

だが、自分が有利な立場でないと発言しない。それでは議論は成り立たない。また、彼は、BBSにおいて進行役・潤滑油といった役割も果たそうとしなかった。

基本的にコミュニケーションとは、妥協することだと私は思っている。

言論は自説を主張することだが、議論やコミュニケーションは妥協点を探ることでもあるし、妥当性を探すことでもある。

ただ、人と人がコミュニケーションをして新しいものが生まれる。個にとっては妥協かもしれないが、それが個の意見が昇華したものであることも多い。

それが素晴らしいし、もしこのメディアに未来があるのなら、やるべきことだと思われる。

*

あるべきは、世の中のすべての意見を呑み込むメディアとして、市民参加型ジャーナリズムが成立すること。

その意味では、2ちゃんねるもひとつの言論に間違いない。

そもそも、2ちゃんねるにウォッチ板ができ、研修会の内容が即日アップされる状況をみれば、市民記者たちと2ちゃんねらーの集合的交わりはかなり高いということだろう。

とすれば、事実確認が難しい現状では成立しない誹謗中傷という概念を持ち出して、自己都合をふりまくのではなく、高らかに高踏するか、真摯に耳を傾けるか。それしかない。

そして、そのことは、けっしてメディアの品格を下げるものではないと確信している。

最新追記:

私のPJニュースへのトラックバックがそうそうに消されたことをみると、ライブドアPJを舞台に論理できる言論の範囲は驚くほど狭い。

注:10時22分の段階で再トラックバックしました。まぁ、これも瞬時に消される運命でしょう。

追記:

先日、私のフリーアドレスに、私の非掲載原稿を精読し、国語力、文章力は非掲載に相当するというメイルをいただきました。まぁ、そういう問題もあるのでしょうね…。(^o^)「日本語なんてくそくらえ」という私の文脈をあらためて開帳するのも面倒なので、返信はしませんでしたが…。



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2006年02月07日

そういうことをPJたちが議論した場がありました。

livedoor ニュース

はじめまして、ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村です。

*

そういうことをPJたちが議論したBBSの場がありました。

そこでは、記事に書かれたことが指摘され議論が沸いていました。

しかし、議論が批判を生むというような危惧から閉鎖されて現在にいたっています。

登録者でありながらも、記事も掲載されないし、塾の案内もこない私はカヤの外ですから、実際はあるのかもしれませんが、どちらにしても、あなたのような記事を書くことは重要だと思っています。

*

ライブドアのブランド力が、市民参加型ジャーナリズムというマイナーなムーブメントを、社会に認知させるのではないか。と、期待していたのですが、それもなかなか難しいようですね。



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2006年02月04日

その前に、市民記者の意見を受け付けようよ。

livedoor ニュース

ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村です。

PJ記者の意見交流の場がないのでトラックバックで失礼します。

トラックバックの場が、市民記者たちの交流の場、フォーラムの役目を果たすこともよいと感じ、書いています。

PJ塾は参加者が12名というところを見ると、アイランド的な、予定調和の中で行われたのでしょうか。

きっと、限定的なメンバーに開催が予告され、実施されたのでしょうね。設立当時の塾を考えれば、このメディアが存続も危ぶまれる一大事なのに、参加者が12名というのは、ちょと考えられない…。

センター長補佐は、「ライブドアの意向は受け付けない」と、まなじりを決っしたようですが、それは個の事情なんじゃないかな。

そう宣言しないと、メディアとしてのアイデンティティーが瓦解する。それだけのこと。

渡辺さんは、「わたしたちPJは、今あるメディアを批判する為にあるのではない」と書いていらっしゃいますが、私にはセンター長補佐が市民記者媒体を作りたかったのではなくて、既存メディアを批判するためのメディアを自分が持ちたかっただけと思えてなりません。それは、取材現場のハイヤーを批判するなど、枚挙に暇がありません。

ただ、私はそういう彼の思いを否定する気持ちはなくて、そういうものと市民記者ムーブメントが寄り添ってメディアが活性化していくなら、それはそれでよいことと考えていました。

>今後、わたしたちPJの活動を広げ、今の日本になくてはならない存在になりたい。>また、読者と共に成長していく「最も市民に近いパブリックジャーナリスト」になれ>るよう、これからも努力していきたいと思っている。

という渡辺さんの意見。私もはげしく同感です。

ただ、いま、もう、すでに、市民なんです。

だから、その市民をすてて、最も市民に近い、などとうそぶくことは、どうなんだろうかと、私は考えています。

自分でありつづけること。市民であり続けることが重要であって、自分や、市民とは違う何物かになることは間違っている。価値はないと思うのです。

市民にもっとも近いなどという考えは、ジャーナリストを高邁なものととらえて市民を見下す。そういう情念をまとっている。

そんな鼻持ちならないメディアだったら、2ちゃんねるのほうがもっと真実を語っている。自らの感情を吐露している。屈折したダンディズムから、悪意で自らをオブラートしているが、異端的な例外はともかくとして、2ちゃんねるのメインストリームは、そういう自分に正直で誠実なメディアだと思う。

不毛な議論も多いのだが、ワンコメントみたいな書き込みには、自分以外の思想の囚われ人ではない、確固たる個の存在を感じることができる…。

情報は主体と無関係ではいられない。だから、どんなに美文をこらし、論理を組み立てても、その発信源の行動や人格が破綻していれば、受け手の心を打たない。

それは厳然たる事実であり、だとするならば、自らを晒し、自分たちの文脈を明確にすることからでしか、情報の重要性を高めていくことはできないのでないか。

そして、そういう送り手側の誠実が、受け手のリテラシー向上に寄与する。

そう思っています。

どちらにしても、すべての登録者にPJ塾の存在を知らせないのは異常事態でしょう。

すくなくとも、当事者の私にはPJ塾の存在を知らせない旨の連絡をするのが、あるべき姿のはず。

まずは、そういう異常状態をすべてのライブドアPJ記者で共有することが最低限必要です。

それができないなら、そのコミュニティーは極めて閉鎖的であり、排他性を持つので、市民メディアではない。

つまり、もしあなたが市民記者でありたいと思うならば、運営にも市民記者の思いが通じてこそだと思うのです。

トランスペアレンシー。

市民記者は市民に対して自らの透明性を負い、新聞は読者に対して自らの透明性を負う。企業は株主に対して透明性を負うのと同じ考え。

そして、すべての社会の構成員は社会に対して透明性を負わなければならない。

それが、9.11後のコミュニティーのあり方ではないでしょうか。

勿論、トイレの中を見せる必要はないし、お誕生日のびっくりパーティーを禁じることもないのですが…。



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マスコミ被害を謳うのではなく。

livedoor ニュース

はじめまして、ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村です。

PJ記者の意見交流の場がないのでトラックバックで失礼します。

トラックバックの場が、市民記者たちの交流の場、フォーラムの役目を果たすこともよいと感じ、書いています。

私が思うのは、自由な議論のためには、ある程度批判をうけることはやむをえないということです。勿論、いまのホリエモンバッシングは度を過ぎているとも感じていますが、そのことをある意味当事者ともいえるライブドア・メディアの住人は、言うべきではないという考えです。

マスコミ被害があることは事実ですが、すでにメディアの住人となった人にはマスコミ被害を主張する資格があるのでしょうか。

私は、PJに登場後、2ちゃんねるからバッシングを受けました。その内容は刑事事件に発展してもおかしく内容もありました。そこで、2ちゃんねるに削除依頼をしようと、検討したのですが、私も妻もインターネットの住人であり、そこに情報をアップしているのだから、削除の対象にはならないとのことでした。

私は、そういう2ちゃんねるの運営者の考え方に納得するし、それがリアリズムだと感じています。

自らが被害者であると主張することは、時代や社会の観察者であるジャーナリストにとって、自らの立場を否定することにもなる。

勿論、客観や中立は勿論、独立した立場も難しい。だとすれば、どうすればいいのかと考えると、一様な答えはないと思う。

でも、だからこそ、ジャーナリストとして悩むことに重要さがあると考えるのです。



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2006年01月11日

私の投稿記事が非掲載になりましたが、佐藤さんはどう考えますか。

livedoor ニュース

私の記事は以下のようなものです。非掲載になりましたが、PJのメインなメンバーである佐藤さんとしては、非掲載の理由をどうお考えになりますか。

*******

野州高校のラグビーサッカーが国立を制す。

*

野州高校が優勝した。フィジカルで劣るがクリエイティブなテクニックで戦いを挑む野州に、地獄の夏合宿でアスリート的な力で圧倒する鹿児島実業が屈した。

埼玉県南部出身の私は、1976年の浦和南高校と静岡学園の決勝を思い出していた。当時の私は、17歳であった。

あのときの静岡学園の戦い方がいまも脳裏に焼きついている。あのとき、静岡学園がやったサッカーはどういうものだったかというと、バスケットボールのようなサッカー。前線の5人がダブルの字になり、パスを廻して攻撃をする。個人技を駆使した斬新なもので、楽しくわくわくするサッカーだったことを覚えている。だが、試合の結果は名将・松本暁司監督率いる浦和南に惜敗した。浦和南の戦術は、サイド攻撃からのセンタリングという伝統的なやり方で、槍のような鋭さを持っていたと思われる。

私はかねがね、静岡学園のあの決勝での敗退で、日本サッカーの流れが大きく変わってしまったと残念に思っていた。その数年後、キングカズが静岡学園に見切りをつけてブラジルに旅立ったのも、その影響だと思っている。

今回の野州のサッカーはもうひとつ上を行っていた。パス&ドリブルサッカーに、正確なロングボール、サイドチェンジが加わった。そして、ラグビーを思わせる突進の後のバックパスの戦術を加えた。

パス&ドリブルのサッカーは、スペースを無くしてしまう。だが、それは前と横のスペースであって、突進すれば自分の後方(もとに自分がいた場所)にスペースができる。そこでフリーになった選手が活躍した。

マスコミは、ノールックパス、ヒールパス、足の裏パスと形容しているが、戦術的にいえばラグビー戦術の採用ということになるだろう。

ラグビーにおいては、FWはディフェンスであり、バックスがオフェンスである。今回の野州の戦術には、ラグビーやアメリカンフットボールの戦術の影響が如実に現れていると思う。山本監督はレスリング出身だというが、さまざまなボールゲームの戦術を熟知していると思われる。もちろん、さまざまなボールゲームの戦術の導入を可能にしたのは、卓越したボールのハンドリング技術に他ならない。

野州の戦術は、日本代表の戦いに大いに参考になる。日本代表の選手は野州の高校生たちのテクニックは当然のように獲得している。ならば、戦術的にラグビー戦法を代表にも取り入れるべきである。



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2006年01月09日

神戸新聞の社説を盗用?

livedoor ニュース

神戸新聞の社説を盗用したというような議論が、大規模BBS http://ex9.2ch.net/test/read.cgi/net/1136119088/l50 で指摘されているようです。

PJとして、何らかの対応をすべきではないでしょうか。

私は、今回の松下の一連の行動は法律の責任の範囲を越えて対応しているので、消費者は讃えるべきだと思っています…。



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2005年12月16日

ドブログのブログをメインにします。

ブログ活動の中心をドブログのスポンタ通信に移します。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/12516



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自分という文脈を生きる。(その2)

ネットは新聞を殺すのかブログの湯川氏は、「参加型Jの薄気味悪さ」と書いているが、それは人間が本来他者が持っている薄気味悪さ(悪意やマイナスのエネルギー)を見ないふりをして生きていることを気づかせているに過ぎない。

我が妻は霊感の強いのだが、かつて彼女から、「沢山人の想念を感じるから満員電車に乗ってられない」と嘆かれたことがある。 私などは、まったくの鈍感だから、満員電車も平気のへいだが、人を知るということは本来そういう薄気味の悪いものだろう。

だが、見方を変えるとどうだろう。自分はこういう人だ。こういう思いで生きている。そのように自己紹介をする。それが悪いことだろうか。他人のことをあれこれ詮索することは、マイナスのエネルギーに属することかもしれないが、自分のことを他人に知ってもらいたいことは、プラスのエネルギー。人々を不愉快にはしない。勿論、自己顕示欲が嫌味になることもあるかもしれない。けれど、インターネットで継続的に自らを露出することは、浅薄な自己肯定などは不可能と思われる。また、自己を露出することによって自己も磨かれるし、マイナスのエネルギーから逃れることもできる。勿論、自己を露出する段階で、自らのマイナスエネルギーを放散する人もでてくるだろうが、それが社会に知らされるのだから、社会の側の対応も期待できるというものだ。

「わたし、きょうプライベートでお買い物に行ったの」と、娘との間で笑い話をしている。無名氏の素人である娘にも、私にも、パブリックな部分がないのだから、プライベートもない。だから、ジョークにもなる。

そう考えてくると、パブリックジャーナリズムに参加するものたちの、心根が見えてくる。

無名氏の素人が記事をあげることによってパブリックな存在になれる。そういう意志が記事をあげる人たちに共通してあるような気がする。

勿論、それは原罪とでもいうもので、すべてのパブリックな個性が有するものであり、すべてのパブリックな個性が克服しなければならないものである。



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2005年12月15日

年末の反省:Japan Blogger Conference

今年は、年末年始で大出張があるため、会社の年賀状をデザインしている。

謹賀新年の下には、イヌも歩けば棒にあたるの文字。蛇足にも、意味として、引っ込んでいないで、積極的に動く人は幸運にいきあたるということ。との解説もついている。

ガ島さんのブログに、Japan Blogger Conferenceの告知があった。私としては湯川さんの講演会やダン・ギルモアのMTGの件もあり、主催がニフティーということもあって、どうせエバンジェリスト(goo 辞書によれば、ある製品に関する熱狂的な信奉者で,他人にその良さを伝えようとする人。また,情報通信産業などにおいて,自社製品の啓発活動を行う職種。〔原義はキリスト教における福音伝道者の意〕)たちの暢気な集まりになるんだろうな。と、思っていた。

勿論、パネルディスカッションなどは、そういう予定調和的ななごやかな議論になると思う。だから、発言権もない私が顔を出しても、会場のなごやかな雰囲気を害することになるから自重すべきとも思っていた。

だが、一般参加者の人たちの顔ぶれを見たら、とっても行きたくなった。日々、こつこつとブログを書いているひとたちの顔ぶれが見える。ああ…。残念。きちんとブログを書いている人たちと話がしたかった。

エバンジェリストではない私が思う、ブログの利点とは、無名の市民に発言する機会を与えたことではない。

ブログで電子データ化された情報がインターネットの中でインテグレート(積分?)されることである。そして、その前提として、ブログ&掲示板などの発言によって、個が自らを微分して情報を提出する(自分をさまざまに分けて考え、統合しないこと。メーカーの従業員である自分と、その商品の消費者である自分の立場は無関係であることを貫く。)。

そのことにのみ、21世紀の社会にブログ&掲示板が果たすべき役割があるのだ。

分かりにくいだろうか。

簡単にいえば、日本の民主主義は匿名性によって健全にすすめられている。選挙は匿名で実施されているのだ。記名投票の国会では腐敗が日常茶飯事だ。そのことを忘れてはならない。

実名で縛ることによって民主主義は進歩しない。個を微分することによって、情報は個から放たれ、利害関係から離脱できるのだ。

証人喚問のニュースの渦中にあっても、藤田東吾氏は被告人の一部でありながら、人として確かに立っている。われわれ凡人が彼のようなすばらしい魂であるには、ブログの力を借りて、個を微分するしかないと思われる。



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メディアを支える個の役割(東吾氏と、PJと)

マスコミでは性善説で法律がつくられているから、今後は性悪説でつくらなければならない。などという言説が流れている。そんな悠長な話だろうか。

藤田東吾社長は、悪事に遭遇したときに、命を守ることを最大限に考え、内部告発に踏み切ったという。

そして今、命の危険を感じているという。つまり、人の命を自分の命と同等に考える。そういう勇気を彼は持っているのだ。

12/4だったか、彼はサンデー・プロジェクトの田原総一朗氏の番組への出演要請を断った。だが、事件のすべてを田原氏に語った。その理由は、命の危険を感じていることもひとつだが、テレビに出ると、あいつはテレビに出て浮かれていると批判されるからだ。と、語った。

非マスコミ人が、マスコミに登場すると、その理由に関わらず、必ずそういう批判がでる。藤田氏の命を賭した勇気と私を比べるのは御恥ずかしい次第だが、わたしがライブドアPJで記事を書き始めたときに、バッシングを受けたのも、同じ理由だろう。

そこでどうしたか。

田原総一朗氏は、藤田氏の話を聞き、すべてを納得し、テレビ番組にふさわしい情報露出の仕方を勘案し、番組を構成した。つまり、藤田氏の情報をテレビ朝日の田原氏がオーソライズした。

藤田氏は口頭で田原氏に伝え、田原氏は言葉と映像でテレビから情報を発信した。だから、きわめてオーソライズしたことが明確になった。

これがもし、藤田氏が記事を書き、文字メディアで発表されたら、オーソライズされた印象は弱くなる。これがもし、藤田氏がビデオインタビューを受け、映像としてテレビで放送されたら、オーソライズされた印象は弱くなる。だが、今回はそうではない。田原総一朗氏であり、テレビ朝日がオーソライズした。それがメディアの本質である。

「記事の責任は、記事を書いた記者にあり、記事を載せたメディアにはない」などという条文は事実上無意味。コンテンツとは無関係なサーバーの運営者が運営責任を問われるのだから、疑問の余地はないのだが…。

いま日経BPとライブドアとの間で摩擦が生じたようだ。日経BPにとってみれば、ライブドア本体とライブドアニュースが違うこと。ライブドアニュースとライブドアPJニュースが違うこと。そして、ライブドアPJニュースとPJライターたちが違うことをきっと理解できていないだろう。もし、全面戦争にいたるならば、その構図が社会的に見て有効なことなのかどうか、ぜひともトライアルして欲しいものである。

演出家の私は、当該記事が、報道精神とは別な演出的な意図で写真が撮影されたことに納得をする。ただ、それがいいことなのか悪いことなのかについては、あえて言及しない。

なぜなら、それよりも重要なことは、当該記事が、ライブドアPJニュースという文脈の中で掲載されたこと。日経BP側は、自らの行為よりも、イエローな文脈なメディアに論じられることに憤慨していると思えてならない。

個もメディアも文脈である。その文脈がブランドをつくるし、そのブランドにぶれがあるものはブランド力を消失する。

私の文脈からいえば、ブランド力を失ったメディアは名前を変えればいい。かなしいかな、私は私の文脈の奴隷でもある。



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2005年12月14日

自分の名前は特別なものではない。(その1)

自分にとっては自分は特別なものだけど、社会にとっては特別なものじゃない。それを知れば一丁前。

京都の進学塾講師は、その乖離に耐え切れずにして、小学生の女の子を刺殺することで特別な存在になった。自らの塾教師としての不適応など、刺殺の対価としては取るにならないことだというのが、犯行を犯すまで分からなかった。

マスコミ人が実名報道が規制されることに抵抗している。私はそれを報道する側のご都合主義と考える。私は報道される側がもっとしなやかにしたたかになればよいと思っている。

実名報道、匿名報道などというけれど、名前は名前でしかないのだ。十五年前、三浦カズヨシの名を聞いたときに、ロス疑惑のことを思って妙な感じがしたが、いまトヨタカップクラブ選手権に出場する三浦知良選手を見ると、名前などたいした問題ではないと思えてならない。

彼の過去を振り返るとき、岡田監督の「カズ、三浦カズ」というフランスワールドカップに連れて行かない宣言の映像がかならず流される。何故、岡田氏はカズ、三浦カズと2度繰り返したのか。何故、三浦知良選手と一言ですまさなかったのか。故障したカズを外すことに冷徹でいられなかった岡田氏の弱さが見て取れる。このビビリがフランスでの3連敗に結びついた。

名前など所詮文字列であり、音声でしかない。誰も同姓同名だと文句を言うことはできないし、名前が同じだからといって個性を特定したことにもならない。そういう虚妄に多くの人が捉われている。虚妄を越える実。いま、そこにあること。そのことを腹にすえて生きていくべきだ。名前なんて古くなったら脱ぎ捨てればいい。そんなものかもしれない。

このあいだ香取慎吾の番組で、ハマコーが黙して語らなかった過去を吐露していた。巷間の罵詈雑言に耐えた彼のダンディズムが眩しい。最近、平蔵大臣が資料を調べていて、アクアラインがトンネルと橋が建設業者のことを考えてちょうど半分どうしの建設費でできていることに感動したそうな。

周囲の罵詈雑言に自らを失わない。そういう胆力とでもいえるものが人の価値を決定するのではないだろうか。

名を惜しむことも必要。だが、名を虚しくすることのほうが尊いに違いない。



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2005年12月13日

違うよ。不気味なのは匿名社会だよ。

インターネットが怖いんじゃない。2ちゃんねるが不気味なんじゃない。

不気味なのは、匿名社会なんだよ。

家々に表札のある日本社会。それがなくなったらおしまいだよ。

自分が匿名であることで安心している多くの人たち。

その人たちに、それでは世の中全体が匿名になってしまったら、どんなに不気味か考えてみて欲しい。

さぁ、どうするんだ。

個別の案件はよろしい。さまざまな事情があるだろう。でも、世の中がそうなったらどうするんだ。いまよりもっと不気味でいまよりもっと暮らしづらいはずだ。

その不気味さに比べたら、自分が匿名でない不安などたいしたことではない。と、思えないだろうか。



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悪は果たして自分の外にあるのか。(番外編)

平和を訴えるのもいい。戦争反対にも賛成する。

だが、人間の4000年の歴史において、戦争がなかった時代が果たしてあったのだろうか。そう考えると、戦争も止む無しと考えるのは、現実論としてはまともである。

問題は、どれだけ平和的に折り合いをつけていくかであって、All or Nothingでは乱暴だ。

兵法の第一は戦わずして勝つことである。その意味では、軍人のほうが平和の専門家であり、平和主義者である。

マスコミ人たちがまとう自らのサヨク思想も、ベルリンの壁が崩壊したいまとなっては、考え直す必要がある。

戦争は死刑と同様、必要悪。人間社会が原罪としてずっと考え続けなければならない問題であって、否定することで自分を悪の外に置くことはずるいと思うのです。

参加型Jが登場したいま。プロのジャーナリストの、社会のレフェリーや情報の運び屋といった役目は終了した。

もし、既存のジャーナリストがレフェリーになりたいというなら、自らの社会的立場を明確にすべきである。そして、彼らが自らの社会的立場を明らかにしたとき、それが社会のマジョリティーとの大きな乖離が明確になることだろう。

報道の成果物を見れば、そんなこと誰にでも分かるのだから。



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2005年12月12日

未成年者の実名報道に関して私の意見…。

娘の小学校の公式ホームページでは、生徒の名前が伏され、写真の顔にもモザイクが入っています。これをよいことだと思えますか。

誇らしげに書いたこどもの詩に署名がない。地区大会で優勝したチームのこどもたちの目線にモザイクがはいっている。自らの存在を高らかに晒すことができない卑屈さが社会に蔓延していくことが、社会にとって、個人にとってハッピーなのでしょうか。

個人情報の流出問題ににたいする保身がこのような状態を生んだのです。とはいえ、最近のマスコミ人たちの個人名報道の法的規制に反対する姿勢は、ご都合主義的なものであって、私は賛成しません。

なぜなら、個人情報流出の被害への対応策を何ら考えていないからです。

私が考える対策は、個人情報エージェントをつくること。もうひとつは、改名を容易にすること。

実名・匿名はどうでもいい。要はトレーサビリティーが確保されているかどうか。そして、そのトレーサビリティーは問題発生時だけ確保されればいい。

すべての青少年がジャーニーズ事務所に所属すれば、彼らの個人情報は守られる。これはジョークだが、本音でもある。

若貴騒動のときの、若夫人・みえこさんの「よわい立場だな」というセリフが痛い。私も「事務所を通して」と言ってみたい。

追記:

木村建設が倒産じゃなくて、自己破産ってとこを突っ込まないマスコミってどうよ。



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音楽は音を楽しめばいいのか。

「音楽」って「音」を「楽しむ」っと考えて譲らない人がいる。

私は、その言葉のもっともらしさが許せない。

楽の意味は、楽市楽座と同じで、何物にも拘束されない自由って意味だと思うのです。

田楽とは、手も足も仕事に拘束されていたが、その中で、自由な部分で踊ったり、歌ったりする。田楽で仕事量が減らない。実は増えることを知り、領主たちも許さざるを得ない。そういうものだったのではないでしょうか。

私には、人生を楽しむとか、幸福なんていう概念は、西洋の思想という気がします。

音楽は贈り物。自分が何を贈りたいかではなく、相手が何をもらったら喜んでくれるか。それが重要。自分が贈りたいものをプレゼントする人って、たくさんいますよね。



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2005年12月11日

自分という文脈を生きる。(その1)

湯川さんのブログに反応した私がいた。
>ただ一度世の中に流れるだけでも、害を及ぼす情報もある。少年犯罪の実名がそうだ。

これなども、社会の一員ということを考えるならば、情報と無関係に個は存在できないのであって、情報と人格が寄り添って生きていれば、実名で報道されたとしても克服できる。そして、そのような魂であることが社会の構成員としての資格。
ボケたらつっこむ。つっこまれたら切り返す。そういう吉本新喜劇的なことができれければ、舞台からの退場を余儀なくされるのだ。

人間が考える葦であるといったのは、一本の葦のようなちっぽけな存在である意味ではなく、一本の葦のように、風がふいても、しなやかにたわんで、やり過ごすことができる。…そういうこと。

イランの自爆テロの犯人たちの中に少年たちが少なからず存在することを考えると、こどもといえども無垢で罪がないといえるのかと考えさせられる。重要なことは、すべての魂にたおやかさの源泉となる確かなる自己が確立されることだと思われる。

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