2005年04月

2005年04月29日

私のパブリックジャーナリスト宣言

未曾有の鉄道事件が起きて、その現場をPJが取材する。市民が報道するという画期的なできごと。市民に報道する権利があるのかという議論があるが、報道各社にしても、それぞれが勝手にプレスパスを作って現場に入っていくだけ。
違いは、個人か組織かの問題でしかない。

同時期にもうひとつの記事が出てきた。それは裁判の原告のPJが書いた記事である。記事の内容は申し分ないが、原告という中立ならざる立場の人間が記事を書き、PJニュースとして掲載されていることは、この新しいメディアを考えるとき、ひとつの転換点になるとも考えられる。

私は、ライブドアという時代の推進力が生み出した、PJニュースというメディアの影響力に期待して、毎日記事を書いていた時期がある。そして今、記事をかくことをためらっている自分がいる。
その理由は、わたしにとって、ジャーナリストであることよりも、市民であることが重要だからだ。

ひとりの市民として、同じ社会を構成する人たちの悲劇に遭遇したとき、何をすればいいのか…。それは人それぞれ。多くのことを知りたい人がいる。悲しみを共有してあげたい人もいる。ただただ祈りをささげる人もいる。
そのなかで、PJライターの報道したいという気持ちも理解できる。
一方、ひとりの個人として、裁判を起こさざるをえなかった個人の思いを公にする。そうした素直な個人の思いも尊重したい。

ただひとつ、私が願いたいのは、ジャーナリストの名のもとに、個人が市民であることをやめてしまうこと。
市民であり、ジャーナリストであるは、それほど難しいことだとは思えない。

sponta0325 at 10:56|この記事のURL

2005年04月27日

客観と中立を守るなんて…。

裁判の原告が、判決日を前に、PJニュースに記事を書いた。

記事は抑制された表現で書かれていて、客観的な記述にあふれ、知性を感じさせるものだが、原告の書いた文章であることに間違いはない。

私は、記事を書いた人間が自分のことを明らかにして書いているため誠実さを感じるし、それでいいと思う。

しかし、客観・中立を標榜して立ち上げたパブリックジャーナリズムとして、ノーエクスキュースでいいのだろうか。

客観や中立を押し立てるならば、被告の側にも記事を依頼すべきだろうし、ニュースセンター本体が傍証をすべき案件だったと思えてならない。

私は理論派ではないし、そういうなし崩し的なムーブメントがきわめて市民的な動きだから、納得する。

とはいえ、そろそろPJが新たな指針を提出すぺき時期に来ていると思う。

2005年04月26日

市民として記事を書くこと。

PJニュースに、PJ記者の父上の死にまつわる裁判が掲載されている。

阪神タイガースのスカウトマンがビルの屋上から転落。遺族は他殺ではないかと主張し、捜査しなかった警察などを相手に裁判を起こしたという。

判決は明日ということで、客観性もある程度確保されているのかもしれない。

原告の立場である記者が抑制の聞いた文章をあげている。



私は、ここにニュースの原点をみる。

記者は、世の中を神の視点から見ることはできない。ましてや、相撲の行司よろしくどちらかに軍配をあげることもできない。

ならば、記者が市民である自分の立場を明示し、そのうえで、極力冷静な記事を書こうと努力するしかない。

記者の渡辺直子氏の思いは遥かである。

2005年04月23日

受け手のメディアリタラシーを確保させるために送り手がやるべきこと。

050422.TBSラジオで、参加型ジャーナリズムをとりあげた番組があった。
アクセスという番組で、パーソナリティーは麻木久仁子。ジャーナリストがふたり、ゲストでスタジオに参加していた。

一般の視聴者からの電話を入れながらの番組なので、話が過激になっていかないという構造。
私が気になったのは、メディアリタラシーとは、正しい情報と間違っている情報を見分けることだという純朴な考え。
メディアリタラシーとは、メディアの都合を読み解くこと。
そして、それをメディアに流れているコンテンツから判断しようという非効率性に気がついていない。

なぜ、そのメディアはそういう論陣を張るのか。それは、そのメディアが置かれている立場・状況を考察するほうが、分かりやすい。
そして、そのようなメディアとしての文脈というものを明確にすることが、受け手にとって情報を受け取りやすい状況に導くと思うのです。
たとえば、スポーツ報知に巨人軍の記事が満載なのは、同じ読売グループだから…。

PJニュースにおいて私が、しつこく小5の娘の父親であるとか、東京都民と書いているのは、そういう情報の送り手のバイアスを受け手に感じされることが、読み手の情報リタラシーの向上に貢献すると思うから。
無名な私の署名など、ほとんど匿名と同じという判断から…。

発信者が匿名な情報というのは、発信者のバイアスを受け手が推論できない。そこに問題がある。
発信者が匿名記者でも大マスコミのオーソライズがあれば、それが大マスコミという文脈で、受け手も受け取る。

PJについては、そういうPJニュースという文脈をつくるのか、それとも、各PJライターという文脈を尊重していくのか。
編集方針には、さまざまな道があるのだと思う。

sponta0325 at 10:26|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年04月22日

PJニュースとは何か。

以下は、さまざまなPJニュース批判に対する私見です。

.........................................................

私が思うことは、先にも書いておりますが、PJニュースがこれから発展していくメディアだということです。

いまは1日数本しかあがっていない記事ですが、だんだん増えてくると、それをカテゴライズする必要もでてくるし、そのインデックスをつける必要も出てくる。
そして、その検索の方法というのは、堀江氏は人気投票ということを言っているが、インターネットがさまざまな個性を孕んで運営されていることからすると、単なる人気投票で終わるはずがないということです。
どの業種でも同じことですが、人気トップが品質トップとは限らない。それぞれの個にとってのトップテンがある。だから、情報エージェントや情報ディーラーといったものが登場し、それぞれの個のニーズに対応した情報提供を志向していくのが、インターネットの未来だと思うのです。

情報エージェント&ディーラーには、情報元との利害関係がないから、マスコミとミニコミが等価で扱われる。そこにインターネットの時代の特徴があると思うのです。

私はPJ活動において、コンテンツサプライアーが登場するとともに、コンテンツディラーも発掘されると思っています。



インターネットは、新聞やテレビのオルタナティブではない。
インターネットは、テレビや新聞のような固定のパイを争うようなメディアではない。

そういうことだと思っています。

中山文科相が中学生に謝罪した。(没記事)

中山成彬文部科学相が4/21の「スクールミーティング」で水戸市の茨城大教育学部付属小、中学校を訪問し、ゆとり教育について「導入は拙速すぎた」とゆとり世代の中学生に謝罪した。(日経新聞4/22朝刊)
記事では、意見交換で中3の男子生徒が「僕たちの代だけ上や下の学年に劣ることになるので心配」と訴えたという。

朝、小5の娘と話をした。娘はクラスメートに、キロとメートルの位取りの関係を教えているという。昨年、私と娘は進学塾の自習プリントを前にその勉強で格闘した。いま、クラスメートに教えることやさしさが、結果として娘の復習にもなっている。

もし、いまのこどもたちが公立学校の教育だけで勉強しているなら、中学生の言うとおり、その学年だけの学力が低下していることになる。しかし、現実には、私の娘が通っているような進学塾だけではなくて、学習塾や通信教育もある。
問題は、こどもの教育に関心のない親のこどもたちだけがおいてけぼりにされる現状なのだ。

平成14年3月、私は完全週休2日制になる直前の小学校の新指導要領に関わる説明会に出席した。当時もゆとり教育の施行には賛否両論だった。数百人の保護者が集まっている会場で、私は疑問を呈してみたが納得できる回答は得られなかった。
帰り際に知り合いのお母さんから、「学校になんか期待しちゃだめ。学習塾に通わせるしかないのよ。もうお金がすべてなんだから…」とのねぎらいともつかない言葉をかけられた。彼女のお子さんはその年にちょうど高校受験があり、そのことを身をもって体験していたのだ。

ゆとり教育は学力低下につながっているけれど、もっと重要なのは学力格差が広がることではないだろうか。
優秀な人材が一握りでもいれば日本の産業界はやっていける。でも、良質な市民が沢山いなければ日本の民主主義はだいなしになる。
義務教育の意義について、もう一度考えてほしいものだ。

2005年04月16日

スポンタとは。

親友のイギリス人夫婦。
彼らのこどもたちと私と娘がとある公園で出会ってから、すでに10年近い時が過ぎている。            

彼らは、日本が好きで日本に住み、日本で商売をしているが、それでもロンドンへの一時帰国から日本に戻ってくるときに、また日本人の独特の国民性と付き合うのかと思うと、慄然とするという。
そして、帰国したてのあるとき、わたしにスポンティニアスと言った。
「きみは日本人には珍しくスポンティニアスだ」
「日本人との付き合いはたいへんだけれど、きみと話しをするとほっとする」

わたしはそのとき、スポンティニアスという英単語を知らなかったので、訳がわからぬまま家に帰り、辞書をひいた。

spontaneous:自発的な、率直な、自然発生的な。

イギリス人の彼らは、自分の思うことを言ってくれない日本人とのつきあいにほとほと苦労していたのだろう…。



さて、それは外国人にとってだけのことか…。

日本人にとっても、自分の思うことを言ってくれない社会。そして、自分が思っていることを発言することを許さない社会が、日本人にとって住みやすい世の中といえるのか。

京都では、「ぶぶ茶などどうどす」と、言われたら退散しなければならない。…とか。濃密なコミュニケーションが存在する古都なら、そういうコミュニケーションもいい。

だが、多様な価値観が乱れ飛ぶ現代では、そうしたコミュニケーションは他者を認めない踏絵としてしか機能しない。



スポンティニアス。思っていることを率直に言うこと。
率直さは、ある意味誠実さ。
でも、そのことで、意見の対立が生まれるとしたら…。

否、対立という考えがおかしい。
実際には、さまざまな意見が並び立っているだけ。

そのことは、彼らがこどもを通わせているインターナショナルスクールのフェスティバルに行ってみると一目瞭然。
肌の色、髪の毛はもちろん、食べ物や習慣、宗教もちがうこどもたちが、ひとつの学校でない混ぜになって学んでいる。
そこでは、他人と自分が違うことはあたりまえ、そのことで自分を見失ったり、不機嫌になることなど、発想そのものがありえない。

なのに、長幼の序や組織の平穏な運営を重んじる日本の社会では…。



そうした経緯から、私はインターネット上のハンドルネームをスポンタ、スポンティネアスとしました。

私が記事を書いている場所では、こうした説明をするわけにもいかないので、ここに記しておきます。

sponta0325 at 08:27|この記事のURLわたしのこと。 

私が記事を書く理由

私のすべての記事は、「21世紀は個の時代」をテーマに書いています。

では、私がなぜ記事を書くか。
その理由は明快です。
いま10歳の娘が社会に出たときに、企業や組織の奴隷になるような社会人にはさせたくない。そういう思いからの行動です。
実は、これは簡単なことで、自分の娘については、組織に対抗できるような技術を持たせればいい。

しかし、娘のクラスメートや地域でであうこどもたちにはそんなことをしてあげることはできない。
だから、といってそのままでいいのだろうか。娘だけがハッピーでも、娘のまわりの人たちがハッピーでなければ、娘がハッピーでいられるはずはない。自分だけがハッピーだからといって、ハッピーでいられる人間を私は軽蔑する。
私は自分の娘を軽蔑したくない。そして、なによりも彼女をハッピーにしたい。
だから、記事を書く。

とはいえ、私の力で世の中の構造を変えることなどできるはずはない。
現実には、いま地域で出会っているこどもたちが大人になったとき、おじさんはお前たちの将来のために変えようとしたんだけど、果たせなかったんだよ。
そう嘆きながら、酒を酌み交わす。そんなことができればいいのかな…。と、思っているのです。

嘆くのはあと20年先。
いまは明るい未来をめざして、朗らかな記事を書く。そうありたいと思っています。

sponta0325 at 08:23|この記事のURLわたしのこと。 

2005年04月14日

随想・日本人であること。

随想・日本人であること。

今年ほど花見に恵まれた年はないと思う。週末と満開が重なり、天気も暖かい。桜をめでる心。日本人でよかったと多くの人が思ったと思う。
さて、同じ頃。海を隔てた国で抗日デモが繰り広げられている。いままでの歴史や教科書や総理大臣の靖国問題など、さまざまな原因がとりざたされている。無名の一市民にできることは限られているし、何かをすると火に油を注ぐことにもなりかねない。ならば、われわれは今回の件でもう一度考え直さなければならないことがある。

それは、インターナショナリズムは、ノンナショナリズムではないこと−−−。
もし、国際的な人材をめざすために、こどもたちが日本人であること忘れていったなら、国際社会に出たこどもたちは自分のアイデンティティーをどこにも持つことができなくなる。

幼児期からの英語教育が盛んである。
日本語もおぼつかないのに、英語の挨拶ができるこどもも珍しくはない。その一方で、七五三を行わない家庭もある。
英語の勉強で苦労すると「どうして日本人なんかに生まれてきちゃったんだ」と誰もが思う。イギリスやアメリカで生まれていたら英語で苦労しないですんだのに…。でも、金髪に染めようが、カラーコンタクトを入れようが、生まれ変わることはできない。
ならば、日本人としての自分を肯定したうえで、国際性を身につけることが重要なのだろう。

娘の幼馴染はドイツで暮らしているが、ドイツの日本人家庭では日本の伝統行事をきちんと行うという。ドイツ人社会の中で異分子である自分の民族性を肯定するためには、日本の伝統行事を行うことが重要であることを、母国を遠く離れた親たちが実感しているからだろう。

2005年、春。日本人であることを考えさせられている。

sponta0325 at 10:37|この記事のURL初出掲載 

2005年04月08日

PJインタビュー:中本賢...その6(最終回)  (没記事)

df9b83a3.jpgボクは株のことは全然分からないから言う資格はないんだけど、ホリエモンを見ていて、こいつは自分とまったく同じことを考えているか。それとも、まったく逆のことを考えているか。そのどっちかだって思う。

このところのテレビを見ていると、あいつの眼は人生をかけている眼だ。それは、もう片一方のトップとはまったく違う。野生動物の眼を観察することをずっとやってきたから、ボクの審美眼は信じていい。

いまの勢いであと10年やれたら、ほんとうに素敵な奴だと思う。そして、あと20年やったら、お坊さんみたいな人になっていると思う。

彼を見ていると失敗してもOKだし、成功してもOK。そう思える。

いま、明治維新以来の大きな価値観の転換点に来ている。そういう時代だからこそ、ホリエモンみたいな人が出てきたんだと思う。

新しい価値観を作ろうとする人は変人だと私は思っている。だから、ホリエモンも振り返ったらダメ。振り返ると自分を見失う。
個人の情熱と純粋さで突っ走って欲しい。
やっぱり自分と似ているのかもしれない。

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