2005年06月

2005年06月29日

コメントありがとうございます。

みなさん、コメントありがとうございます。

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私のやり方は、基本的に自分の経験や考えを晒すことです。
私が考える公益というものも、私のバイアスが結構きついようでなかなか納得されないようですね。

私は、自分ではない別のものを使って、何かを訴えるということはしません。

また、自分の自己実現のために、記事を書くということもしません。
娘の同級生たちが大人になったときに、すこしでもました社会をつくってあげたいという願い。現実的には、私は私なりにやったんだけど、だめだったよ、と言い訳をするためにやっていること。

もっとも、他人からみたら、自分の自己実現のために書いていると思えるのかもしれません。そのあたりは私の人間的な成熟度の低さのためでしょう。

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親族殺人は重罪とのご指摘。

殺人事件が重罪なのに、なぜテレビや映画で殺人事件が多く描かれるのか。その理由は、そこに人間の営みの重要な何かがあって、そのことをつかった表現者たちが何事かを訴えたいからだと思っています。

そのあたりはドラマティストとして、表現者としての見解ですので、それもなかなか理解されないかもしれません。

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先日、奥崎謙三氏がなくなられた様子。
彼なき今。根本的なことを真剣に考える機会もなくなっているような気がしています。

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私のブログを見てくださっているみなさん。
それぞれに、さまざまに私と意見が違っているのを理解します。そういう発言に接することができる幸福。

それが、かの国、北朝鮮とは違う、社会の理想的な姿だし、それが健全な世界と思える。

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ほんとうの願いをいえば、それぞれの書き込みをされた方が、どういう人生を歩まれてきて、どういう勉強をした結果、またどういう現実に立ち向かっているから、そういう発言をされたということが分かれば、書かれたコメントの文言の裏にあるさまざまな思いを感じることができる。

とはいえ、なかなかそういうことも難しいようですね。

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いま、政府はインターネットの諸悪の根源は匿名だということで動いている。

私は、匿名が問題ではないと感じている。

匿名であることで、うまくすすむことだってある。満員電車の中だってそう。トレーサビリティーさえ、確保していれば、実名である必要はない。

いってみれば、車のナンバープレートのようなものがインターネット上で流通すればいい。そして、そのナンバープレートが常時変更されていけば、実名は問題が起きたときにだけ、当局に検索されるということになる。

そして、もうひとつ重要なことは、公道以外を走るときには、ナンバープレートはいらないということ。そういう許容を残すこと。

もし、政府がインターネット上での匿名性を乱暴に否定・規制したら、それこそ、さまざまなところで問題・暴動が起こると思う。わたしはそのほうを恐れる。
公道もあるし、ダートもある。そういう選択があれば、意見の多様性の確保もできる。

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話がそれました。

私は、個人の文脈、メディアの文脈、そういうものが明らかになっていく中で、メディア・リタラシーじゃなかった、リテラシーが向上していくのだと思っております。

そういう、個人や集団やメディアの文脈が明らかになったあと、さらに、そういう意見の違いを飲み込んでいく大きなメディアがある。

そういうものができたらいいなと思っています。

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ライブドアPJではむずかしいのかもしれませんが、でもPJが投げかけてくれたことはとても大きいし、意味のあること、意義のあることだと思っております。

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コメントありがとうございました。

sponta0325 at 10:32|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

連載、第二回を掲載。

連載、第二回を掲載しました。

そもそも、昨日の朝、PJの友人から「スポンタさんの物語や童話を読んでみたい」というメイルがきたのがきっかけです。

読んでいただけたら、とってもうれしいです。



sponta0325 at 05:02|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年06月28日

没の原因はなんだろう。

月曜日からペンディングになっていた記事が、非掲載になった。

私は、自分の自己実現のために記事を書いていないし、一連のテレビ報道によって、あやまった世論が形成されることを危惧して記事を投稿した。

もちろん、ブログで書くことでもいい。だが、ブログの数百、数十の読者に向かって書くよりも、PJの数千、数万の読者に向けて書く事が有意義であると考えたからだ。

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私の記事の非掲載理由はなんなんだろうか。明解な理由が欲しいところだ。


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反抗期が巻き起こした2つの殺人事件に思う。

「お前は俺よりも頭が悪い」と言った父親を高校生の息子が殺害するとともに母親も殺害、時限爆破装置を使って証拠隠滅を図り、草津温泉で逮捕された事件。テレビで概ね取り上げられる切り口は、犯人が反抗期であったというもの。
同時期に、弟が兄を刺殺した。これも思春期と反抗期が重なったという分析が多い。

私が自営業の傍ら、現在小学生5年生になる娘と付き合ってきた印象からすると、反抗などと自分のこどもの行動をとらえること自体がまちがっていると考える。
こどもを自分の思いのままに従えようとする親の意志があるから、成長したこどもの行動を反抗と感じてしまうのだ。
親と子供が、たとえば社長と社員の関係のように主従関係・上下関係がはっきりしていれば、社員の反抗にあったということもできる。だが、フラットな人間関係。たとえば同じ社員同士にいさかいがあったとしても、反抗などという行為とは呼ばれない。

いま自分のこどもたちに君臨しようと思っている親はほとんどいないと思う。しかし、こどもたちから見れば親たちの姿は、どうしても体力や言語力、知識力、経済力などを背景に自分たちを支配しているように見えてしまう。一方、親は子に君臨するという社会通念は薄れているから、自分の親の理不尽な行為をこどもが許容することも難しい。



父親の実感から考えると、反抗期とは、いままで反抗することもままならなかった支配者に対して、自分の能力(言語能力・体力など)が増すことによって、はじめて反抗する機会を得た時期に過ぎない。

そう思ってしまえば、こどもの反抗期などを恐れる必要はない。
親がやるべきことのひとつは、自分の言語力や知識力、体力を利用していたずらにこどもに君臨しないこと。
もうひとつは、言語能力の低い、知識や体験の少ないこどもの意見をたんねんに聞いてあげることである。

そういう努力をしたうえで、こどもに殺されるなら、それは天命としかいいようがないし、それもまた父親として本望とさえ思える。
もし、世の中の親たちが自分のこどもに殺されるかもしれないと思って、さらにこどもたちを甘やかすようになるならば、世も末である。【了】

sponta0325 at 15:07|この記事のURLComments(5)TrackBack(1)

連載小説を開始します。

PJとは関係ないかもしれませんが、連載小説を開始します。

まぁ、PJに連載小説があってもいいかな…。という問題提起でもあるかもしれません。

「被写体たちのフィナーレ」。そこにスポンタニズムがあるのかどうか…。
自分でもよくわからない。



sponta0325 at 07:57|この記事のURLComments(3)TrackBack(0)

2005年06月25日

市民記者媒体が持つべき矜持。

前の記事で「不満があるなら、書かなくてもいい」と運営者が語ったと書いた。
私はこのことを一番の問題と考える。PJニュースはパブリックなジャーナリズムをめざしているのであって、ライブドアニュースの読者投稿欄ではないはず。ならば、運営する側もそれなりの矜持を持つべきだと考える。

パブリックという言葉を生んだイギリス。その民主主義の現場で有名なエピソードがある。
「私は君の意見には反対だが、君が議会で意見を述べる権利をわが生命をかけて守る…」
パブリックなジャーナリズムとは、どんな意見を持っている人にも、ある一定の意見を述べる権利を与えるということだと思う(勿論、公序良俗や一定のバランス感覚という制限はあると思うが…)。



ライブドアPJが、市民記者活動を推進・促進することを目的にするならば、市民記者がさまざまなメディアで発言することを推奨すべきであって、それぞれの市民記者媒体(JANJAN、ツカサなど)で、市民記者が言論活動を行うことを望ましいと考えるべきだと思う。それぞれのメディアの特性の中で記事を書くことで、市民記者も鍛えられるし、それぞれの市民記者媒体のバイアスもはっきりしてくる。

だが現状は、「うちで書かないで、他所で書かれれば…」などという感情的な物言い…。わたしには、そうした言説の裏に矜持のなさを感じて悲しくなる。



オーマイニュースは、JANJANからもライブドアPJニュースからも、市民記者を招待した。
市民記者媒体が市民記者に求めるのは、何ものにもとらわれずに発言することだと思う。もし、市民記者媒体が矜持を持つならば、市民記者媒体そのものにもとらわれずに発言する記者を受け入れ、自らの度量を示すことだろう。
オ・ヨンホ氏は既存のジャーナリズムの概念を壊すことを市民記者たちに提唱している。メディアに対する批判さえも許容するメディア。それはヨンホ氏の意図する、ひとつの市民ジャーナリズムの形だとも思えてくる。

ライブドアPJニュースに、さまざまな意見が咲き誇ることを願ってやまない。

2005年06月24日

PJが招待されて、M氏がソウルに飛んだ。

PJニュースに、「PJ招待され、ソウルで世界市民記者フォーラム開かれる」という記事が載っている。

本文を書いたPJ氏は、記事本文でそのことを語っていないから詳細は明らかではないが、市民記者活動で世界的に有名なオーマイニュースがライブドアPJに注目し、市民記者の派遣を呼びかけたのだろう。

私は、PJとして人並み以上の記事をあげてきた自負がある。そして今、さまざまな提案をしながら、パブリックジャーナリズムを盛り上げようと、PJ有志とコミュニケーションを図っている。
PJ有志たちと練り上げたプランを運営者側に提案していくことで、巨大掲示板などで指摘されている問題の多くを、運営者側のリソースの欠如といった要因に左右されることなく、PJ側の知恵と努力によって改善できると信じている。

今、PJの記者同士が互いに情報交換をする掲示板は閉鎖されている。
したがって、個々のPJが意見交換することもできない。
そして、疑問や相談などが生じたときには、個別のPJ記者は運営者にメールを打つなどしてコミュニケーションをとっている。
そうした場合の運営者の対応はほとんどが冷たく、「体制に文句があるのならば、記事を書かなくてかまいません」などと、暗に退会を促すような言動にぶち当たる。

パブリックジャーナリストと銘打ってはいるものの、実際は、発案者が市民記者たちの上に君臨し運営しているにすぎない。
もちろん、これまでに沢山記事をあげてきた人間として嫉妬もある。私よりも記事をあげていない人間が推薦を受け、ソウルに行った。そのことに私の感情が乱れていることは否定しない。
しかし、それよりも尚、私が危惧するのは、いま、六本木のビルの中で行われていることが、あるべき日本の市民記者運動とは程遠い存在であるにもかかわらず、それが日本の市民記者運動であると誤解されること。



今、オ・ヨンホ氏は市民記者活動を世界的に広げようとしている。
そのムーブメントを支えるアライアンス先として、もし、我らがライブドア・PJニュースを選んだならば、日本の市民記者運動について致命的な打撃を与えかねないということである。
下卑た言い方かもしれないが、今、六本木で行われている編集活動は、透明性もなく、編集指針もなく、運営者個人の独裁体制によって行われている。
つまり、パブリックという冠はしていても、その実は絶対主義。それが、世界的ムーブメントのなかで日本の代表のように外国から捉えられてしまうと、まるで、金日成をオーソライズした北朝鮮のような形になってしまう。

わたしの記事が掲載されないことはそれでかまわない。しかし、市民記者運動の渦中にいる人間として、今起こっていることを知ってもらうこと。そのことが市民記者としてなすべきことだと信じている。

いま、日本の市民記者運動に何が起きているのか。
わたしに取材を申し込んで頂ければ、わたしは誠意を持って回答します。みなさまからのご依頼を待っております。

2005年06月21日

PJから生まれたかもしれないブログ

PJから生まれたかもしれないブログ

というブログが生まれた。
ブログのURLを見ると、堂々としていて、公式ブログなのかな…。
とも感じてしまう。

コメントは受け付けていない。TBのみだが、このブログがどうなっていくかで、PJの将来が分かってくるかもしれない。

sponta0325 at 11:04|この記事のURLComments(13)TrackBack(0)

2005年06月14日

なぜ、貴乃花(光司)が部屋で暮らさないか。

先日、テレビ朝日の昼のワイドショーで、なかにし礼氏は、「貴乃花(光司)はたんなる横綱ではなく、相撲界を背負って立つ力士であり、親方なので、横綱になれなかった父や数回優勝しただけの兄とは考え方が違って当然。そのことに配慮してあげて欲しい」と語っていた。

最後まで勝負をあきらめないこと。それはすべての力士が目指すべきこと。だが、圧倒的なパワーで勝負を決めてしまう電車道のような相撲が理想でもある。
最後まで勝負をあきらめないことは、電車道のような相撲が望めない小兵力士には仕方のないことかもしれないが、大相撲を貫いている王道とは違う。いわゆる横綱相撲をイメージしてもらえば分かってもらえるかもしれない。

さて、貴乃花親方が発言を開始したため、貴乃花バッシングの雲行きもだいぶ変わってきたように感じる。しかし、そんな状況でも、貴乃花親方が、部屋に住んでいないことを指摘する声が多い。そのことをとりあげて景子夫人を非難する。そして、その声に誰も反論しない。

もし、貴乃花の家族が中野新橋の部屋に住んだらどうなるのか。貴乃花のこどもたちが相撲取りにならないにしても、家族は常にマスコミの視線にさらされることになる。マスコミや部屋関係者との軋轢の中で、自分の兄弟・親子の関係が修復不能に陥っている貴乃花が、みずからの家庭もそういう危険な状況におくことが賢明な選択ではないことは明らかだ。
とはいえ、それは、自分の家族と部屋の弟子たちを分けて考えることにもなるので、そのことに貴乃花は言及することができない。貴乃花にとっては、弟子たちも大事、血を分けたこどもたちも大事。比較することなどできないからだ。

sponta0325 at 10:57|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

オーマイニュースの成功の理由は

「ネット・ジャーナリズムの可能性」というシンポジウムにて、私は、「日本では、個が集団の中に埋没するのを好む傾向にあり…」という質問を、オーマイニュースのオ・ヨンホ氏にしました。

オ・ヨンホ氏は、オーマイニュースの成功の原因を、

1.インターネットの普及
2.言論弾圧などによる市民意識の高さ
3.国土が狭い

通訳の不備と、私の緊張によって、わたしはヨンホ氏に答えてはもらえませんでした。
私が確認したかったのは、
韓国の場合、あたりの視線も省みず、怒り散らし、泣き散らす文化。それがオーマイニュースの成功のひとつの理由のひとつではないかということ。

*

花田勝氏のように、すべてをだまってしまうことをよしとする文化が日本。そういう気がしています。しかし、それが日本をすみやすくしないのなら、花田光司くんのように話はじめるしかないのです。

sponta0325 at 10:39|この記事のURLComments(0)TrackBack(2)

2005年06月10日

日本一有名な兄弟、それぞれの思い。

貴乃花の洗脳騒動に始まる若貴兄弟の確執が騒がれたとき、場所後の部屋の後援会のパーティーで一言も言葉を交わさない二人が歌を歌ったというエピソードを記憶している。
兄・勝くんは「夜空の向こう」(スマップ)弟・光司氏は「青春の影」(チューリップ)を歌った。
私は、その選曲が二人の思いのすべてを語っており、その思いは今も変わっていないと感じている。

♪あれから僕たちは何かを信じてこれたかな〜あの頃の未来に僕らは生きてるんだな。〜すべてがうまく行ったわけじゃない〜。
弟のために相撲の世界に入った勝くん。当時の明治大学アメリカンフットボール部はフェニックスは、名匠篠竹監督により、日本一を独占。明治大学中野高校に通っていた勝氏が進学を望んでいたのは確かなことだろう。その姿は、「水泳は金にならん」という兄のすすめで角界にはいった父・満氏と重なる。
そして、親子の縁を切り、兄弟が切磋琢磨して、それぞれが横綱になった。満願成就とでもいえる結果なのに、虚しさだけが残った…。

一方の光司くん。兄の勝くんが、人生の辛さを歌う曲を選んだのに対して、弟の光司くんは、恋愛の歌を歌った。歌の主人公は、自分の夢を諦め、一人の女性との生活を決意する。横綱という目標に向けて、りえちゃんとの結婚を諦めた彼とは対照的な歌詞だ。
♪君の 心へ続く長い一本道は いつも僕を勇気づけた。長く険しい道だったけど、いま君を迎えに行こう〜

彼は、歌の主人公のようにすべてを捨てたかったんだけど、会場を埋め尽くしたのみんな(支援者・後援者)のために、その選択をしなかった。と、暗に言わずにはいられなかったのだ。
歌詞にある君という言葉が、光司君にとって誰にあたるのか、それはテレビ芸能ニュースを見ていた日本中の人が分かるはず。私は、その現場にいたであろう彼の妻・景子ちゃんの気持ちを思うとかわいそうでならない。

いま、マスコミでは彼の妻・景子ちゃんのバッシングが盛んである。勿論、地方出身で上昇志向の強い彼女が、フジテレビの女子アナになり、国民的ヒーローの妻の座を獲得したことは、嫉妬の対象になることは仕方のないことかもしれない。
今回、死に近い義父に内緒で土地・建物の名義を変えるように仕向けるなど、批判を受けて当然のことを彼女が示唆したらしいことが報道されている。
しかし、私には、それが夫に愛されていない女性の悲しい行動と思えてくる。
中野のタイル張りのビルは、エミリー・ブロンテの名作「嵐が丘」の舞台でもある。

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