2005年10月

2005年10月31日

藩校の復活を。

中学受験の再来年に控えた娘に日本の歴史を教えている。

研究者によると、江戸時代は幕藩体制というが、その実体は中央集権体制ではなく、緩やかな連邦制だったという。ドイツを思っていただければよろしい。
もうひとつ、科挙を採用した中国や韓国では、科挙によって地方の優秀な人材が科挙によって中央官庁に集まり、地方の空洞化がはじまったとか。そうした地方の空洞化が万世一系ではないにしても、比較的長い国家体制の存続を実現したともいわれている。

そこで思う。
地方の空洞化対策のひとつとして藩校の復活ができないだろうか。各地域の優秀な人材が各地域で集まって切磋琢磨する。その中から、中央に上がるものも出るし、地方で腕を振るうものもでる。そして、何よりも、藩校での人物考査は、テスト勉強にはなりえない。人間としての質、人望といったものも人物考査の対象となる。

小泉首相は、米百俵で教育の重要性を、首相としての第一声で説いた。
いま、民営化路線をすすめることで日本を改革しようとしている。だが、いかに民営化がすすんでも、日本の中央集権体制がいまのままならば、地方の日本人たちはハッピーにならないだろう。

昨今、「ドラゴン桜」「女王の教室」など現在の教育制度を是認するドラマが流行った。現状を開き直るのはドラマティストだけでいい。ポリティシャンの方々は、知恵と実行力で勝負してもらいたいもの。

小泉内閣の改造が発表されている。
私は、教育制度改革担当相もあってもいいと思う。
教育改革は、中央集権の解消、出生率の増加のための根本的な改革であることを多くの人が知っていい時期である。

sponta0325 at 19:04|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月30日

児童館が嫌いな小学5年生。

娘は小学校5年生。彼女は児童館が嫌いである。私が理由を尋ねると、自分でも分からないと言う。自分でも分からない。ここに表現の根っこがある。分からないことを表現するのが芸術なのだ。これは彼女にとっておおきなチャンスだ。

さて、バンドの練習で集まれる場所はそこしかない。だから、この日曜日も児童館に行った。

娘が小学校1年生のときは、児童館に学童クラブがあった。学童クラブは2年生までだが、そのつながりでさまざまなこどもたちが出入りしていたと思う。その頃は我が娘も児童館が好きだったし、児童館の体育館で1輪車に乗ることを楽しみにしていた。彼女が1輪車に乗れるようになったのは児童館のおかげといってもよい。だが、それから数年経って、学童クラブは小学校に移転し、その場所は育児サークルのスペースとなり、こどもたちの場所はなくなった。小学校の学年があがるとともに、こどもたちの興味は発展していく。野球やサッカーをする子は児童館に顔を見せることはなくなるし、学習塾に通う子も児童館に行く暇はない。結果として、何もすることがない。そして、家にいることもできない?ような子たちが児童館にたまるようになる。すると当然のように、そういうこどもたちが発するマイナスのエネルギーが児童館に漂うようになる。こどもたちの癒しの場になっていることは悪いことではないが、どうなんだろう。
児童館に来なくなったこどもたちが児童館を卒業したと考えられるならそれはハッピーだ。だが、現実には完全にドロップアウトしたため児童館に顔も出せなくなったケースもある。いまも、その手前の悩んでいる中学生たちが児童館に散見できる。彼らが顔を見せなくなったとき、私は複雑な思いにかられるだろう。
私には、そういうマイナスの気を感じて、娘の児童館嫌いが始まったと思えてならない。

そういう行き場のないこどもたちが落ち着く場所としての存在意義はある。だが、そういうこどもたちが自分の生活の場に帰っていく働きかけを児童館がすべきだと考える。
かつて私は児童館のアミューズメント化について意義をとなえていた。児童館から少し離れている今、感じるのは、児童館がこどもたちの意欲のよりどころになること。たしかにアミューズメント系では、こどもの意欲を刺激するメニューがある。夏のキャンプやいかだレースへの参加、秋の児童館祭りなどがそうだ。だが、そうしたイベントという非日常ではなく、日常の風景として児童館がなんらかの役割を果たすべきではないかと考える。

昨日は、娘に歴史で吉田松陰の松下村塾のことを教えた。そのようなものが児童館でできないのだろうか。松下村塾が成立していたのはたかだか2年ほどだという。
それくらいの期間であれば、大人も講師をつとめられるではないか。

アミューズメント系のイベントだけ児童館で…。というのでは、バランスを欠いていると思う。
世の中には、経済的に恵まれているこどもたちだけが進学塾に行き、高学歴を取得するという批判がある。ならば、無料の進学塾をつくる。そういう発想の転換もあっていい。それが公立学校の義務教育の無能さを露見させることであっても、やるべきであって、すくなくとも検討の余地はあると思う。

sponta0325 at 19:11|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

少年と青年のあれから、これから…。

自由ではなく、多様性の許容と説いている。そして、個の多様性を許容するところから、個が個性を発揮できると…。

だが、現実には、自分の意見を言い、自分の思いで行動すると、自分ではない個の多様性を否定することにつながりかねない。なぜなら、確固たる個同士がぶつかり合うことがなかなか難しいからだ。そして、ぶつかりあいときの心の痛さに耐えかねて、自らの個を表出させるさじ加減に手心を加えているのが現実といえるかもしれない。

私は、地域においてこどもたちを巻きこんだバンド活動をしている。その過程においてダウン症の青年と対峙した。日本の障害者にかかわるムーブメントは、ケアの時代からバリアフリーの時代、そして、ノーマライゼーションの時代へと進んでいる。だが、障害者の側がノーマライゼーションに向かって意識変革をすすめているのだろうか。
現実は、自分の都合のよいときばかりノーマライゼーションを主張し、都合が悪い場合はケアを求める傾向が強いのではないか。私がバンド活動で感じたのは、まさにそのことであり、ノーマライゼーションをダウン症の青年に求めたとき、彼と私のコミュニケーションはいきづまった。

人と人が接する厳しさ。その厳しさを忘れないことが、相手を人間と認めることである。私のその思いは、渦中のときから1年以上経った今も変わらない。とはいえ、彼も地域で生き続けている。だから、そろそろ一緒にステージに上がることもよいのではないかと思い、バンドのメンバーに提案した。

だが、メンバーのお父さんは、やるべきではないと、言う。こどもたちが一生懸命練習してステージに上がるというのに、練習もしないでステージにあがる彼を許容するのはよくないというのだ。
私としては、練習を一緒にすることは新たな摩擦を呼ぶので避けるとしても、ステージをともにするぐらいは雪解けとしていいのかな…。と、思っていた。だが、彼に言わせると、そのような心変わりは、論理的に事物を切っていく私の行動としては腑におちない。と。

…そ。そうか。
そんなものか。
私の中で過去に発した考えが、メンバーのお父さんの中で育っていて、それが今の私の行動とぶつかる。これもまた、面白いことだ。私は苦笑しながらも、そのように反発してくれる彼の意思を尊重し、ダウン症の青年とステージに立つことをやめることにした。昨日の練習は、私は仕事ででれなかったのだが、ダウン症の青年が妻に笑顔で近寄ってきたという。
メンバーのお父さんは、青年が自分の言葉で一緒に音楽をやりたいと言うことができれば、ステージにあげてもいい。と言っている。彼が自分からコミュケーションをとる勇気や努力があるなら、一緒にステージにあがることも将来ないとはいえない。ただ、それを口にするのは青年のほう。われわれは動かない。なぜなら、彼のためにやるだけのことはやったという確信がある。
メンバーの言うとおり。私たちは動いてはいけないのだと思う。



人間の気持ちは変わっていく。
自分の気持ちが他人に影響を与えていく。
そのことの面白さと厳しさを同時に感じることになった。

ことしは、彼の息子のエレキギターが楽しみだ。彼のおかげで、私のキーポードもコードから開放される。
かつて柔道や吉本の流儀で接したこともある彼との楽しい話題は、鉄道の知識くらべぐらいだった。
だが、これからは音楽について楽しい話ができる。彼は私が言い続けたビート感覚を体得し、ストロークを正確にきざんでいく。間奏部分の準備でも、ビートを乱すことなく、ストロークを大胆に中止して、間奏にはいった。
これなど、大人でもなかなかできないこと。
世代の離れたこどもが自分の言葉を真剣に聞いてくれるほどうれしいことはない。そして、私の言葉に影響されて真剣に練習に取り組む姿に感動を覚える。
こどもの成長とはなんとすばらしいことか。

Show must go on.
Life is going on.である。

sponta0325 at 06:03|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月28日

じゃ、学芸会をどうする。

昨日の娘はまたもぶんむくれ状態で学校から帰ってきた。

飼育係の中での希望の役をじゃんけんで負けたために、逃したというのだ。曰く、じゃんけんに強い人と弱い人がいる。だから、不公平だと。…むむ。次はくじ引きにせよ。と、先生の連絡帳にでも書くか。
否、それも親ばかだ。(^^;)

妻は、地元の有力者の娘が主役をやった自分の小学校時代の学芸会を例にとり、それよりもましと、なだめた。埼玉県朝霞市の小学校では学芸会はなかった。私は、プロの劇団事情などを例に取り、人と人の間には好悪はつきものだから、しかたのないことと説明。じゃんけんで決めるやり方は決して悪くはないと…。



批判ばかりするのが私の主義ではない。
答えは簡単。学芸会を演芸会にすればよし。

最近は落語のじゅげむが流行っている。
そして、ショートコントで落ちが決まらなくても、「ジャンガ、ジャンガ、ジャンガ、ジャンガ…」で、アンガールズよろしく逃げることもできる。

知っている人は知っているかもしれないが、私は今村昌平の映画学校の卒業生である。かの学校の演劇科がおこなった漫才講習からは、うっちゃんなんちゃん、出川哲郎という錚々たる?人材を輩出した。残念ながら私は面識はないが、そういうこと。漫才が自己を開放するとともに、ネタという作劇術、キャラクターづくり、セリフづくりなど、これほど演劇の本質を体験できることはない。
ただし、本格的な俳優があの学校から出たのか? という疑問も沸いてくるが…。

漫才がだめなら、吉本ふうの喜劇。伝助劇場的なものもいい。この設定ならば、いわゆるギャグという意味で、CMのパロディーをしても演劇を逃げたことにならない。また、主役、端役も稽古の中で実力で決まっていくから、こどもたちも納得すると思う。

今度一緒にステージにでるバンドの男の子に大宮伝助の扮装をさせたら似合うな。
などと想像してしまう。いやはやなんともな私である。

sponta0325 at 09:43|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月27日

学芸会の形骸化

国語と作文は違うこと。朗読と演劇は違うこと…。

問題は、事に及んで、いかに自己を開放し、自己を表現できるか。そして、いかなるイデオロギーの奴隷にもならずにいられるか。

学芸会とはメディアで、自分はコンテンツ。メディアの中でいかに泳いでいくか、自分を活かすか。メディアを否定せず、かといってメディアに押し込められず、そういうフレームに自分をあてはめることを模索する。とても貴重な機会だ。

こどもたちが観客席に向かって何かを表現することができる唯一の学芸会が表現の場として成立していないとするならば、貴重な授業時間を削ってまでやる必要はない。



大学野球の訓練では、電信柱に登ってミーンミーンと泣くしごきがあるというし、たけし軍団では裸踊りがあたりまえだという。それもこれも、人前に立ってもびくびくしない、自分の実力を100%発揮するためのレッスンである。

場数を踏んでいるはずのプロ野球選手でも日本シリーズは格別らしく、今回の阪神タイガースの敗戦は、JFKたちに試運転のための機会を与えなかったからだと指摘する野球解説者がいた。大一番の前に軽くならし当番をさせておく。それが大一番での中継ぎやリリーフ当番を成功させる近道であると。勿論、当番によって相手にその投手の球質が分かってしまう危惧はある。だが、それよりも投手の精神状態を安定させることのほうが重要との考えだ。
かつてライオンズの知将森監督は東尾を初戦に当番させ各バッターの欠点を洗い出し、経験の足りない若手選手を短いイニング当番させたのを覚えている人は多いだろう。

人生の大一番の勝負においていかに精神面が重要か。
それは野球に限らない。本番での度胸をえるには、本番の経験でしか鍛えることができない。
こどもたちには向こう見ずな度胸ではなく、努力を重ねたうえでの繊細さを兼ね備えた度胸を体得して欲しいものである。

sponta0325 at 16:31|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月26日

文章を綴ることは泣くことだ。

娘に作文を教えている。

まず、起こったことを書き、次に、自分の思ったことを書く。そして、最後に、まとめる。そういう構成で書くようにノートに枠をつくり指導したが、出来上がったのは、事実と主観がまじったもの。
そして、自分のことと友達のことが混在していて散漫だ。

そして、自分が園長役をやりたかったことにテーマを絞ることにして、推敲を開始した。
小学校で何が起きたかはお父さんには知らない。お前の心の中でおきたことも分からない。だけど、文章を綴ることで、伝えられるかもしれない…。

作文には肝心のオーディションで彼女が落選したシーンが描かれていない。
私は、その場面を聞きながら事実を書く。とまどったような娘。そのときの気持ちはと聞くと、「…」という。
しばらくすると彼女は泣き出した。

そうなんだ。
作文というのは、泣くようなことなんだ。泣きたいようなことを冷静に書く。だから、人を感動させるのだ。

そして、書くことは書かないことでもある。ひょっとして書けないことかもしれない。だから、書かないことがやさしさや誠実でもあったりする。

「小学生日記」のHANAE*ちゃんにしたって、クラスメートが教室で発言できない理由をほんとうは知っていたのかもしれない。だけど、書けなかった・書かなかったのかもしれない。書けなかったのかもしれないけれど、彼女の文章を読んだ人は感動する。書かなかったことで、伝わることもあるんだ。
そして、それが芸術の本質。描けないことを描くことでもがく…。そのもがきが人間として、芸術家としての営み。

いま、お前は成績がいい子が役をもらったことが、先生のえこひいきだと思っているかもしれない。でも、それを書くことがいいことかどうかは分からないし、そのことを口に出してさえ言えないことは、けっして悪いことじゃない。

自分の気持ちを述べたいのなら、事実をたんたんと書け。お前の気持ちを事実に紛れ込ませないように注意を払え。不思議なもので、書かないことによって、お前の気持ちは文章で他人に伝わっていくのだ。
逆に、自分の気持ちをそのまま書いてしまったら、お前はひとりよがりな奴という印象ができてしまう。

作文を書くというのは、泣くような作業。
だから、書きたくない。述べたくない。その気持ちも分かる。
でも、今日という一日を大切に生きていくためにはどうなんだろうか。
そのために作文は重要だ。今日はお前にとって泣くようなことがあったんだ。だから、泣くことに恥じることはないんだ。

書くことは泣くこと。けっして悪いことじゃない。そう思わないか…。

めいっぱいの喜怒哀楽で生きていこうよ。



以下は、パソコンでやった娘との推敲作業の仔細である。


タイトル:学芸会の役決め

何をいい描きたいか→自分の気持ち。
自分の気持ちが事実として、何を原因に描くか。

オーディションのこと。

【おきていること】5W1H…いつ、どこで、誰が、何を、どう、どうした。

イントロ:
今日の2時間目に視聴覚室で、3クラス集まって、学芸会の役決めがあった。(いつ、どこで、誰が、何を)
やるものは「ゾウ列車がやってきた」だ。主役や一人だけの役、ナレータはオーディション形式で決めることになった。(どう)

主題:(テーマ〜自分がやりたい役を獲得したい。)
何日か前にクラスで台本が配られていた。私はいままでの学芸会では町の人やナレータというはじっこな役だった。
だから、今回の学芸会では園長という重要な役をやりたいと思っていた。
今回の配役はオーディションで決めると先生が発表した。
先生が、「園長役をやりたい人」と言ったので、私は手をあげた。すると、妙な緊張がしてきた。
「よし、すぐにでも、国鉄に相談をもちかけてみよう。君たち、きっと本物のゾウを見せてあげるよ」
私は、園長のセリフを先生の前で言った。
私を含めて8人がつぎつぎに、園長のセリフを言った。
全員がセリフを言い終わると先生たちはその場で相談をはじめた。その様子を私たちはわくわくしながら待っていた。

結論:(やれなかった)
先生の話し合いの結果、園長役はAくんとBくんとCくんに決まった。決まった三人が喜ぶのを見て、私は落ちたんだなと思った。

余韻・エピローグ:(飼育係だけど、自分なりに頑張ろう)
小学校最後の学芸会なので、次はない。飼育係で頑張るしかないのか。それでもダメだったら、また町の人だ。


sponta0325 at 06:34|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月25日

こどもの学芸会の台本に思う。

餅は餅屋という言葉がある。
とはいえ、餅を作ることを餅屋だけが独占するのはおかしいし、一般家庭で、餅を作ることは餅の普及の観点からみてもよいことといえるだろう。ただし、餅のつくり方に対するレシピの共有と、おいしい餅に対する共通認識は必要だと思う。



さて、小学校5年生の娘は今年学芸会がある。先日、その台本が配られた。その台本を読んで驚いたというか、呆れた。説明ゼリフにあふれていたからだ。そして、登場人物もキャラクターが設定されていない。
町の人ABCとあるが、それは、一人のセリフを3つに分けた割りゼリフでしかない。これでは演劇ではなく、卒業式でやられるようなシュプレヒコール。「卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。おめでとうございます。楽しかった運動会。運動会…」と同じだ。

演劇には、ドラマがあることが最低限のこと。ドラマとはキャラクターの対立から生まれる。キャラクターが対立しないキャラクターにはキャラクターとしての存在意義はない。セリフはキャラクターの存在や感情を反映することによって命を得るが、それがない。これが説明ゼリフということ。

この台本を採用した教員たちは、一般の教員の中でそれなりの演劇についての考えを持った人たちのはず。そういう人たちがドラマのない台本を選ぶことに合点がいかない。(ドラマがないのではない。ドラマティストとしては絶対にやってはいけない、ドラマを避けた台本なのです。)

演劇は朗読とは違う。ドラマなのだ。集団朗読ではない。
勿論、いまの台本でも演出に工夫をすれば、ドラマも構築できるはず。だが、演劇について専門的な知識をもっていない教員たちには無理なことかもしれない。

「お父さんが演出しようか」と娘に言ってみたが、恥ずかしいからやめて。と、断られた。
ま、しょうがないか…。

sponta0325 at 17:35|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月24日

日本シリーズと2リーグ堅持論の愚

日本シリーズを見て、昨年の騒動のときに1リーグにならなくてよかった。というテレビ出演者が多い。
だが、私は1リーグ制しか、日本プロ野球存続の道はないと考える。

日本プロ野球の問題は、セパ12球団による寡占状態なこと。
セはセでステータスを誇り、パはパで屈折したステータスを誇っている。プロ野球のオーナー会社だというステータスを争っているのだから、根本的に赤字は関係ない。基本的にそういう構造にある。
赤字という理由でオーナー会社であることを辞めると、本業も退潮ということが世間に知られてしまう。だからやめられない。世の中を眺めていると、たとえ赤字であっても屋台骨が大きいばかりに続けている会社が多々ある。プロ野球のその業態のひとつなのだろう。

ならば、寡占状態を打ち破るにはどうすればいいのか。まずは、既存のプロ野球団の利害を一致させること。それには1リーグ制しかない。現在は2リーグということで、利害関係が一致しないから意見の統一が難しいのだ。2リーグでは、アマとプロの垣根に梯子がかけられないこと。シダックスなどはセミプロ球団といってもいいが、そういうものが実力でプロ野球に挑戦できるシステムも、2リーグ制では難しい。どちらかのリーグがアマとの間に梯子をかけたら、かけたリーグの方が下に評価されることにもなりかねない。
だが、1リーグ制ならそういうことはおきない。

日本シリーズが成立するためには2リーグ制は必須という意見が正しいなら、交流戦はその価値を落とすことである。だが、そのことに言及する人はひとりとしていない。ならば、1リーグ制をすすめることに何の問題もない。勿論、それは1リーグで戦うことだけを意味しない。プロ野球機構としては1リーグであっても、2つのリーグに分かれて戦うことはありだし、カップ戦のようなトーナメント方式もあるだろう。そして何よりも見たいのは、入れ替え戦だ。

リーグの存続のためには、入れ替え戦をつくることが最大の作戦だと思ってやまない。

新規参入者の加入を妨げない。そこが自由主義社会のルールであり、社会発展のための最良の方法であることは、誰もがわかっていることなのだから…。

sponta0325 at 09:18|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月23日

いまの子育てと教育がニートを生んだ。…と思うのだが。

昨日、若者について考える番組をNHKでやっていた。長い番組でもあり、見ていると憤るばかりなのでザッピングした。ザッピング途中で観た箇所は、福島在住の人が、地方都市では仕事がなく働きたいと思ってもなかなか就職できないことを語った。放送大学の女性教授は、産業の進化によって、生産業が労働者を必要としなくなり、失業者が増えたことを指摘した。
私はニートの問題は、子育ての問題であり、教育の問題であると思う。
そして、産業の発展や労働環境を気にして、ニートの人たちの心を見ない人たちの非情を思う。
森を見て木を見ず。ということか。



私は、好景気不景気に関わらず、人が何もせずに生活することは苦痛であるし、個が生きているために費やしているリソースを個の活動が補填していなければ、生きていることに価値はないと考える。
だから、本質的には失業とはありえない。つまり、失業者は失業者という立場で、家族や地域や社会に貢献することができるはず。だから、主婦も学生も子供も失業者ではない。

問題は失業状態にいる人間が、その状態をいかに有効に使うかである。問題は就職させることではなく、無為の時を過ごさせないために社会はどうするか。そこにかかっていると思う。
人間はお金を消費したときよりも、お金を稼いだときのほうが余計に充実感を得る。そのことを否定できる人は少ないだろう。




私が考えるニートの原因は、こどもたちが万能感(自分が一番という考え。犬のしつけにおけるアルファと同様)をまっとうに挫折させることなく成長してしまい、社会という枠の中に自分を当てはめることができなくなっている。また、そういう自分を自分の力で改善することができないことになると思っている。
つまり、こどもたちの万能感をまっとうに挫折することができるならば、ニートは軽減する。学校のいじめにしても、こどもたちのアルファ感のぶつかりである。
こどもが目標を持って日常を過ごすことができるならば、彼らのアルファ感は目標に向けて発揮されるから、ささいな諍いは起きないだろう。そのように到達可能な目標をこどもたちに持たせることも重要だ。

そして、もうひとつは人生において、ふたつのフェイズがあることを教育者たちが理解すること。
つまり、自分の目標に向かって努力するフェイズと、その後にくる、他人に求められることに自分を当てはめて自分を活かすフェイズ。

ひとつ目のフェイズで自分を磨き上げることは重要なこと。でも、その時代を経て、人の評価やアドバイスや要望に自分を当てはめる時期が来るのだ。
いつまでたっても、自分の過剰な目標にこだわっていると人生は先にすすんでいかない。これが私のニートの認識である。

この認識があるから、私はニートの人たちを軽蔑しない。


sponta0325 at 10:41|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)

2005年10月22日

こどものことが分かるなんて不遜だ。

娘の公立小学校から、学校外部評価アンケートが配られて来た。
内容は、学習について、学校での生活についてなどについて、
とても思う、思う、あまり思わない、思わない、分からないの5段階評価をつけるものだ。
私は、この種の調査が現場を改善するためのものではなくて、実は、行政は、あなたたちの意見を取り入れて現場を行っていますよという姿勢をアピールするためのものであることを感じている。

私の評価は、ほとんどが「思わない」であり、あとは「わからない」と記入した。

そして、書き込み欄には次のように書いた。

このようなアンケートを実施する場合は、内容の公表や現場への反映など、アンケートの使用方法につき明示してから行ってください。保護者の立場で、こどもの学校生活はおろか、その心の中までも分かっていると思うことの不遜さを感じます。
こども、先生、保護者がそれぞれの立場でベストをつくすことが重要であって、浅薄な質問を並べて答えさせることに何の意味があるのでしょうか?



行政のガス抜きシステムはともかくとして、
他人の気持ちを分かるように努力したり、耳を傾けることは人間として当然のこと。だが、その結果として、相手のことを分かっていると自分が思い込んだら、それは不遜。
相手のことをどんなに分かろうとしても、分からない。だから人間は深いし、人生はおもしろいのだと思う。

相手の気持ちが分かるから同情の涙を流すのではない。相手の気持ちを分かりたい自分がいるから同情の涙を流すのである。
幼い我が子を亡くした母親の気持ちは経験した人にしか分からない。彼女たちを一番傷つける言葉は、あなたの気持ちが分かるという他人の言葉だという。

ちょっとした国語の問題かもしれないが、重要なことだと思う。特に子育てにおいては…。

sponta0325 at 03:51|この記事のURLComments(4)TrackBack(0)
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: