2005年11月

2005年11月30日

湯川さんのブログに書いたこと。

英語のディスカッションのニュアンスは分からないのだけれど、日本の議論というのは、結論を導き出すために行われている。もしくは、そういう暗黙の了解のもとにすすめられていると思う。

だから、議論というのは、形勢が不利になった方は、ヒステリックになるし、有利なほうは傲慢になる。

湯川氏の指摘のように、多様な意見が複数存在することが健全な言論の場であることは確かだ。とするならば、議論の目的は、それぞれの側が自らの論理を相手と対照することによりフォーカスすること。まちがっても、どちらかの論理が他方を飲みつくすことではない。

その意味では、反対論理を根絶やしにする全員一致による議決よりも、不満分子を残したままの多数決の採決のほうが健全である。

諸賢のみなさま。そう感じませんか?



と、書いたのだが、言いたいことは次の通り。

絶対主義の時代があり、自由主義の時代があり、そして、帝国主義もすでに終わっている。なのに、絶対主義に対するアンチテーゼとして登場した自由という概念に、多くの人が夢を持つ。
いまの世界をみつめるならば、多様性の許容。
なぜなら、表現の自由は、表現の不自由を許容しないから。そのとき、表現の不自由の根拠となるような概念はあるのか。公序良俗、人知などといっても、戦争で人を殺し、人を殺した人を殺す世界である。

そういう諦観の中で、唯一到達可能なのは、個の多様性の許容。
…これしかない。






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2005年11月29日

オーマイニュースを評価すべき点は。

映画学校での授業。私は、一次情報とは自分が見たこと・経験したこと。二次が直接伝聞。3次がメディアを通じて見聞きしたこと、と教わってきた。
そして、一次情報に価値がある。と。(それ以外には価値はない。とも)
最近、ジャーナリズムのお勉強で習ったのは、ジャーナリストの世界では、直接伝聞を1次情報である。と。(まちがってたら指摘してください。)

結局のところ、二次情報でしかないものを、一次情報にかさ上げしているジャーナリストのペテンさが、一次情報以外は価値が低いというものの道理に、必死に抵抗している。

オ・ヨンホ氏がしている革命とはそういうレベル。
マスコミが政治を動かしたことで感動するのは、のんきなジャーナリストの所作。てな、感じ。

追記:二次情報に自らの意見を加えるならば、それは立派な一次情報になりうる。
というよりも、オリジナルなものなどありえず、われわれは過去の叡智の集積に恥ずかしげもなく自らの署名をしているにすぎない。

青色発光ダイオードの高橋氏には、そういう認識があり、自分はモーツアルトには遠く及ばない存在であると謙虚に発言していた…。

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2005年11月28日

音楽と演劇の違い

音楽は音を楽しむと書く。音楽は楽しむことが重要である。そう語るのは、親交のあるプロミュージシャンである。娘の学芸会からかえって落胆している私は、駐車場でワックスかけをしている彼と久しぶりに話をした。

彼は、言う。
自分がいいと思った演奏が必ずしもいいとは限らない。きっと自分が気持ちがよくなって、いつのまにか、リズムや音程をやりすぎている。抑制がきかなくなっているのかもしれない。と。
私は問う。
じゃ、どういう時がいい演奏なの?
それがわかんないんだよね。わかる人がいたら教えて欲しい。そんな感じ。

ふむ。
音楽を楽しむと断言して譲らない彼だが、彼の楽しむという言葉の意味はとても深いのだろう。

さて、私は、音楽会の練習のことを話してみた。
ラブミーテンダーっていう曲をやることにしたんだ。で、最初のときは、たどたどしいながらも真剣に演奏するところに魅力があったんだけど、2週間後に演奏をしたら、うまくなっていた。で、私は、「あなたの演奏は、私とっても上手に弾けるのよ。どうでしょ、うまいでしょ。っていうように聞こえるよ。お父さんはフルートが上手だし、お兄ちゃんはアルトサックスが吹けるのよって。おじさんには、ちょっと嫌味に感じるな。だから、そうじゃなくって、ラブミーテンダーっていう曲の気持ちを訴えかけるように演奏しようよ」
すると、プロをめざすアマチュア少年たちの先生でもある彼は、「そういうのいいじゃない。成長ってそういうことだし、そういう状態を経て伸びていく。おれは上手いんだって天狗になる。それっていいことだよ。でも、ボクはいつも言うんだ。ギターってのは、誰でも弾けるとっても簡単な楽器で、やっている人もごまんといる。だから、君の上達も早いかもしれないが、ライバルたちの上達も早い。だから大変なんだ」と。

みごとな演奏で同業者たちからも一目おかれる彼ならではの発言。そういえば彼の演奏は、難しいフレーズも楽々と演奏する。フレーズを構成するひとつひとつの音たちが粒だっていて、ギターはかくも簡単に美しい音がでるものかと勘違いさせる。そうした彼の演奏を成立させるものは、ギターとは簡単なものなんだという彼の美意識のせいだろう。

さて、ミュージシャンの彼と話をしたのは、クラッシック音楽とポピュラー音楽の違いだった。だが、その違いについてプロミュージシャンならではの意見をきいていると、もうひとつ別のことが気になってきた。

それは、音楽と演劇は違うこと。
簡単にいえば、音楽は自らが楽しむことで成立するが、演劇は自らが楽しむことでは成立しないということである。
劇作家の平田オリザ氏は、全国の演劇活動の支援対象を選ぶときに、市民劇団を対象からはずした。それは、演じる側だけで楽しんでいる演劇であり、演劇以前。評価に値しないと判断したからである。
音楽は楽しむことによって成立もするが、演劇はそうではないのだ。



私的なたとえ話をするならば、こうである。
ボーリングをするなら、ボーリングのピンめがけて思いっきり投げてみたい。だが、そうすればガーターになる。ボーリングでストライクを取りたいならば、レーン手前にある三角の印、スパットにめがけて投げる。それって投げてにとってはつまらないことなんだけど、ストライクをとるには仕方がない。
ポーリングの試合をみている人には、プレイヤーがストライクをとれば狂喜乱舞するのであって、スバットを目掛けて投げたかどうかなど、どうでもいいことなのだ。

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2005年11月27日

それぞれのケミストリー。(区民会館のファミリーステージから)

11月26日、大学の名前のついたとある私鉄駅に近い区民会館で、音楽を楽しむ会に出演した。

今回の私の当初の目標は、映画サウンドオブミュージックの民謡大会。
家族が音楽でまとまり、音楽で社会と接していく。そんなステージができればいいと思った。

今回もパートごとに演目調整、譜面づくり、CDづくり。
個人練習。全体練習は本番前一週間に一度だけというスケジュールで、本番を強行した。


1曲目の目論見は、幼稚園児ふたりにステージを経験させること。その長女の小4の女の子には下の兄弟二人を引っ張ることを経験させることだ。たった一度の児童館での練習で、小5の我が娘の演奏するドラムに興味をもった彼女に、「やってみよう」とすすめた。そのとき手ほどきのようなことを娘がしたが、彼女は、「私、ドラムもないし、できない」と言っていた。だが、本番当日は、ドラムスティックを持って現れた。
娘がドラムを彼女に譲るなら、娘がピアノができる。そして、私は舞台袖に引っ込んだ。私はちょっぴり小室哲哉の気分。ほとんどぶっつけ本番のステージだけど、そして、一週間でドラムができるはずもないけれど、それぞれが今の実力で寄り添いながら演奏をするステージとなった。つたないドラムにピアノが寄り添い、幼稚園児のボーカルがついていく。つくづく久石譲作曲の「さんぽ」は名曲だと思う。

2曲目は、娘の公園デビューからの幼馴染みのイギリス人一家とのステージ。
一ヶ月前に、彼らに出演を呼びかけたら、インターナショナルスクールの中学2年の男の子はモジモジしたが、お父さんの「やろう」の一言で出演することになった。実は、彼はアルトサックスを半年前からヤマハで習っている。小3の妹もヤマハでギターを習いだした。そこで、ヤマハのレッスンの教則本の中から、エルビス・プレスリーの名曲「ラブミーテンダー」を演奏することにした。
まず、妹のエレキギター。つぎに、父親のフルート、次に、アルトサックスの長男。私がピアノで伴奏をつけ、アルトサックスのところからは、娘のドラムが加わっり、最後にもう1コーラス、テュッティで演奏した。
音楽としてどうだったのかは、よく分からないし、惨憺たるものだったのかもしれない。
ただ、我が娘が2歳の頃から彼らとつきあってきた10年に及ぶ歴史を思うと、私の感慨は深い。気がついてみれば、娘にとっても私にとっても一番長い期間を過ごしている友達だ。言葉や習慣、文化や主義・思想の軋轢がさまざまにあった。だが、それらを理由に彼らと絶交することを私はしたくなかった。きっと、この家族には、人種や文化、言語を超えて人として共有したい部分があったのだろう。彼らは長男の将来を考えて、来年イギリスに帰国する。御互いの子育てのフィナーレを飾るべきいい思い出になったのではないか。
演奏も、イギリスの音楽の特徴をなんとなく感じさせた演奏だったと思う。

3曲目は、その長男とインターナショナルスクールでの親友がアカペラで1曲。ヘンリー・パーセルの「アーサー王」の中から、「羊飼いたちよ、休め」をデュエットした。その演目は私が意図したものでなく、長男からステージでやりたいと言い出したもの。当日の演目追加で、全体の進行には迷惑をかけたかもしれないが、私はうれしかった。ステージに出たい。そういう気持ちを素直に表現できることがすでにステージなのだ。
演奏はアカペラ(無伴奏)。だから、なかなか難しい部分もあるが、イギリスの中世の歌曲を歌うアングロサクソンの少年たちの姿は、世田谷の観衆たちに新鮮に思えたに違いない。

4曲目は、実はこのために今回の出演が決まったようなもの。昨年、レコードにあわせて歌う彼女の歌を聴いて、みんなで演奏しようよ。と、この公演の主宰者に私か提案したのがきっかけだった。
曲目は、イマジン。ボーカルの彼女はこの曲の詩が好きで、どうしても歌いたいという。ピアノの私は、こんな有名な曲はちょっとというか、かなり恥ずかしいと思ったのだが、みんなに殻を破れと言っている都合上、断るわけにはいかない。キッカケもなく、ソロでピアノを始めるときは、自分が何をやっているのかわからないほどの緊張を覚えた。サビからは、娘のドラムが加わった。恥ずかしながら、私はボーカルやドラムに合わせるような余裕もなく、なんとか演奏を終えた。けっして上手ではないかもしれないが、バイエルも終わっていない私としては上出来だろう。



ケミストリー。化学変化のことである。
ステージによって、出演者のそれぞれが交わり、化学変化を起こす。それが楽しいし、そのことに意味・意義がある。それは、大人たちにとっては、マンネリ化した日常を新鮮にするものであり、成長期のこどもたちにとってはかけがえのない経験、将来の自信になるはずだ。

わたしは、この文章を書くまで、舞台とはメタモルフォーゼ。変容。新しい自分と出会うことだと思っていた。だが、それだけではない。ケミストリーなのだ。
人と人が、観衆の視線にさらされて、変容する。変容の具合にはできふできがある。
そのあり様を、愛でていくのが日本人のこころ。基本的には、天目茶碗と同じなどと言ったら、諸賢は笑われるだろうが…。

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2005年11月26日

教員たちよ。演劇の底にあるものに目覚めよ。

娘の学芸会に行ってきた。
娘が出演する5年生の舞台の撮影場所を確保するため、1年生と3年生の舞台も見た。
1年生の舞台は、子鬼たちの遠足に自分たちをまじえた音楽劇。音楽用語でいえば、soliのセリフしかない。
次は、3年生。3年生の芝居も音楽劇。音楽というものが自己韜晦の所作に他ならないことを痛感させられる。それぞれの子供たちの個性はどこに行ってしまったのだろうか。集団演技の中で、一歩前に出すぎる同級生のすそを引っ張る男の子。一列にならんで隙間が開いたのを気にして、隣の個の袖を引っ張る女の子の姿が印象的。
段取り以外で発揮させる個性が、他者の出過ぎを抑制する行為というのが今のこどもたちの性向を象徴的に示しているのだろうか。
学芸会とはいえ、基本的に卒業式でやるようなシュプレヒコールと同じ。私は暗澹たる思いになった。



前回の学芸会(隔年開催)はストレートプレイだったので、レベルの低い演劇という印象、演出や指導の不在を痛感したが、今回は幼稚園のおゆうぎと同じ印象である。そして、幼稚園のおゆうぎと同じものをさせられている小学生たちの誇りある魂たちを思うと泣けて、泣けてしかたがなかった。

世界的な巨匠・小津安二郎監督や東映の澤井信一郎監督の演出ならともかく、現代において、おゆうぎ的な演技がナイーフと感じられるためには、相当な細工が必要だろう。
私のように論理立てて文句を言うことができないにしても、子供たちも分かっているはず。きっと優秀な子ほど、自分たちでできるのはこんなもの。公立の小学校なんて、このレベル。全員が主役になれるはずもないんだから、仕方ない。私だけが目立つなんてイジメの対象になるだけと諦めているだろう。
そういう不満が練習や日々の行動に現れていたことは、娘から知った練習での出来事から容易に推理できる。



私は不平を言っているのではないし、無理を言っているのでもない。
全員を主役にすることなどできない。だから集団演技になるし、集団演技なのだから、シュプレヒコールのようになることも無理はない。…のだろうか。
そんなことはない。

集団演技であろうと、たった一行のセリフだろうと、個がセリフを発することに違いはない。セリフなどと書いたが、セリフでなくてもかまわない。物を言うこと。物を言う術を、学芸会という機会を利用して、子供たちに指導することはできないか。と、指摘するのだ。

セリフを言うことは、台本に書かれている文字を音声に変換することではない。
セリフに自分の言葉とし、自分の思いを載せて、客席にいるたくさんの人に届けること。届けようとすることである。その前提として必要なのは、自分が自分のスタンスで舞台に立っていること。そして、セリフに託すべき思いがあることだ。

そういえば、6年生だろうか。幕間の場つなぎに客席に向けてクイズをだしていた。だが、ステージ上の緊張のためかすべて棒読みで、客席に何も問いかけていない。問いかけられていない質問は機械的に会場に広がっていく。
会場をうめた全校生徒も教員も保護者も、その無機質な会場の雰囲気を、異常なできごと、悲しい出来事と思わない。そういう感覚が公立小学校で養われていくのだ。
そのステージを寒々と観ていた私の後ろで、ある教員は照明係の女の子にスポットライトをあてるように指示した。照明係がスポットをあてられない気持ちは私にはよく分かる。舞台上のパフォーマンスがある中心を持っていたら、スポットライトをあてたくてしょうがない気持ちになる。だが、そのとき、そうではなかった。
ステージ上にいる人間も、袖にいる人間も、伴奏者も、照明も音響も、ひとつの思い・気持ちを共有して舞台が進行していく。そういう舞台におけるとっても単純なことさえ、実現はおろか、志向さえされていない。

舞台のすべてが段取りになっている。その段取りに終始する。それが仕方のないことだとしても、物を言う術ばかりは、なんとしてでも指導して欲しいものである。



ものを言うこと。
その前提として、確かな自分を持つこと。
そして、自分のみずみずしい感性を外に向けて開放すること。
開放された自分を、セリフに載せること。
セリフによって反応した相手に誠実に反応すること。

それは演劇に限らず、人間が集団の中で人間として生きていくために体得していなければならないこと。
私が、ことの重要さを知ったのは、映画学校で演劇を勉強してからのこと。短大の演劇科を卒業した女の子から、あなたには殻があると指摘されてたからだった。それまでの私は、その殻こそが自己のアイデンティティーだと錯覚していた。だが、それは不遜だった。自らの殻をぶち壊した後に、それでもなお、捨てきれずに立ち上がってくるものがこそが本当の自分自身。いつも、いつも自分を壊していく。それが40代の私でもある。

自分自身が何なのか。それを見るのが怖い。知るのが怖い。だからひるんでしまう。だが、それで貴重な人生を過ごしてしまっていいのだろうか。と、切に思うのである。

追記:学校のアンケート記入採録(記名)

学芸会という催し物が果たしてイベントとして必要なのか考えさせられます。
個性を活かす、発揮させるのが文部科学省の方針とするならば、その対極として学芸会が存在すると思えてなりません。
朗読の会でも、漫才や喜劇でもいいから、それぞれの個を活かす工夫ができないのでしょうか。
そして、何よりも、それぞれの個が客席と対峙していない。表現を逃げている。そのことを一番悲しく感じました。
先生の一言でこどもたちは変われるはず。そう信じてやみません。
(ま、当事者にかけることってこんなレベルっす。と、ヘタレな私)

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瀬戸内寂聴を演じる宮沢りえ(美醜のゆくえ)

さて、フジテレビのドラマで瀬戸内寂聴を宮沢りえが演じた。番組宣伝によると、瀬戸内氏は自分の役を宮沢りえが演じることに関して、朗らかに笑っていた。
宮沢氏には失礼だが、私には、いまだに彼女が国民的ヒーローとの婚約破棄騒動でボロ雑巾になってしまった感じをぬぐいきれていない。もちろん、それはやせてしまった風貌も影響しているだろう。だが、それだけだろうか。
歌舞伎の大御所との一夜が取りざたされたり、ヨーロッパで活躍するサッカー選手との接吻写真が写真週刊誌に掲載された。それらを通じてイメージするのは、あの大きな恋愛の後、彼女は人を愛することができなくなってしまったということ。
「私はきっと結婚することはないでしょう」そう語る彼女。そういうアンニュイな雰囲気が、演技にも出ている。自分の人生を捨ててしまった人間の他者に対する優しさはほんもののやさしさとはいえない。そんな感じ。
たとえ話をしよう。一緒に死ぬことが愛の至上の姿と思っている自分がいたとする。そこで愛する人に心中して欲しいと頼んだら、実は私も死のうと思っていたのといわれたような気分。
だから、今回の彼女の演技についても、何かを語る気にはなれない。
でも、彼女に対するやさしさでいうならば、実生活で愛に溺れるようなことがあれば、演技も変わる。人生は捨てたものじゃないさ…。



私の姉はかつて、女性の聴覚障害者を扱った映画「愛は静けさの中で」を観て帰ってきたとき、次のようにはき捨てるように言った。女にとって、美しくないことのほうが、耳に障害を持つことよりも大きな障害である。と。主役を演じたマリー・マトリンの美しさはすばらしく、競演の有名俳優と結婚したことは我が姉の意見の正しさの証明か…。



瀬戸内晴美氏が恋多き女にたるすばらしい魂であることは間違いない。ただ、要望の美しさについてはどうだろうか。この文章の冒頭で触れた彼女の笑いはそういうものを乗り越えたうえでのものだ。
女流文学者の男性を巡る放蕩。それはけっして珍しいことではない。最近では山田詠美氏が想起される。巨匠クラスでいえば、宇野千代氏は瀬戸内氏のうえを行くような経歴を持っていると思う。だが、なぜ瀬戸内氏だけが出家したのか。
私はそこに容貌の問題が横たわっていると思えてならない。
男性やその家族の人生を狂わせるようなことをしでかした後、女性はきっと鏡の中の自分に問いかけたことだろう。そして、鏡の向こうに自分の美しさがあれば、女性は自らの性(さが)を嘆くことだろう。だが、もし、そこに人間としての自分がいれば、自らの業(ごう)に思いをいたす。

自らの業に直面した瀬戸内氏が、出家という修行の道に進んだことは容易に理解できる。出家することによって自己のアイデンティティーを求めた彼女の深層心理に、自らの容貌の老い・衰えがあったとしたら、氏の出家も退廃といえるのかもしれぬ。だが、出家は、そういう動機で勤まるようなものではない。やはり、瀬戸内氏の崇高なる魂は、性愛の先にある慈愛を求めたのであろう。
一方、宇野千代氏が晩年にいたるまで、業などという厄介なものと対峙することなく、一貫して終始美とともに生きたフリークな魂が存在したことは感動的だ。美はつねにリビドーとともにあるのだ。

私は、瀬戸内氏の役は、山村紅葉氏に演じてもらいたかった。私は山村紅葉氏の大ファンである。ベストセラー作家の娘でありながら、端役に甘んじてもひるまない彼女の人生。そういう彼女の飾り気のない魂がすばらしいと思う。藤山直美氏でもかまわないと思うが、いらぬペーソスが出てしまうのではないだろうか。

脚本としても禁じ手が散見されるし、演出もどっちつかずの場面が多い。まだ生きている人間を描くことは、辛いことなのかもしれぬが、生きているからこそ、対決を挑むことができる。そういう気概をテレビマンたちは持ち合わせていなかったように思われる。

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2005年11月25日

ギロチンを楽しむ群衆の一員にはなりたくない。

コメントの追記を記事としてあげました。

私は、報道の中途半端な娯楽化のために、視聴者がついてこないということだと思います。
たとえば、今回の広島の小学一年生の遺体が見つかった事件。事件で使われたダンポール箱と同じものをスタジオに用意する意味がどこにあるのでしょうか。単なる悪趣味です。

また、構造計算の偽造事件についても、姉歯建築士や小島社長を登場させることに何の意味があるのでしょうか。彼らのような非人間、または何かに憑依されてしまった人間を見させられることは、フランス革命のときにギロチン処刑の見物に集まった群集たちと同じ境遇に身をおかせられることです。

どこまでが報道で、どこからが娯楽なのか。それは、とても微妙な世界であり、送り手の度量が図られるものといえるでしょう。

では、報道とは何かと言われれば、民主主義において、市民が決断を下さなければならないために必要な情報を提供すること。だと思います。そして、ピーター・ドラッガーが言うように、1+2に3という答えを出すようなことは、決断(ディティジョン)ではない。ということです。
つまり、誰が聞いても納得するような、ありきたりなまとめをするコメンテーターは、コメンテーターとしての意味を持たない。ということ。アメリカではスタジオのコメンテータのことをアンカーマンというそうですが、だとするならば、アンカーマンなど、最初からいらない存在なのです。

民主主義において、重要なことがらは、とことん議論され、51対49で可決される。という至言がありました。
私はまさにそういうことだと思います。そして、49対51で否決されることも、正しいことだと思っています。それは、民主主義においてそれを正しい(自爆的な語義も自覚しつつ…)としなければ、われわれはこの集団に属する資格がないからです。

女系天皇制をめぐる有識者会議が結論を出したようです。しかし、世論を引っ張るべき有識者たちが自らの見識に順ずることをせず、世論の動向を見守っているようです。これでは有識者たる資格はありません。
民間の跡継ぎの問題と、天皇制の問題はまったく違う。そのことを国民に告知する。もしくは、教育する。そういう作業を経てこそ、民意や世論というものが実効性・有効性を得るのだと思います。

そして、何よりも、責任ある立場に生まれてしまった愛子さまはともかくも、秋篠宮家に生まれた女の子たちの人生を輝かしいものにして欲しい。それを切に願うのみです。

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2005年11月24日

湯川さんのTBS/NEWS23ご出演、慶賀、慶賀。

11/23にネット時代のジャーナリズムに関して、湯川さんが鳥越さんとともに筑紫さんの番組に呼ばれた。

コーナーの冒頭には、CBSキャスターのダン・ラダー降板のVTRが流された。もうひとつは、アメリカのニュース番組が娯楽番組と取って代わられそうな危機を感じさせるVTRだった。

筑紫さんは終始聞き役。湯川さんはネット事情の説明役。持ち弾のない鳥越氏は自らの意見を述べる他なかった。鳥越氏は、よいニュースか悪いニュースかを選ぶ人間は絶対に必要なわけで、ジャーナリストは必要だし、ジャーナリズムもなくならない。と、強弁した。

私は鳥越氏の発言を聞いて、このコーナー設立の主旨が分かった。なぁんだ。とっても単純なんだ。そして、立場上仕方ないとしても、論をそのように捻じ曲げるのかなぁ…。と。



いま、グーグルがやっていることは、自動的にニュースを分類し、自動的にユーザーの特質に合った検索を可能にすることである。それはジャーナリストを不要にする。たとえてみれば、自動販売機があれば、売り子はいらない。そんな感じ。ただ、マーフィー岡田(久米宏やみのもんた)のような売り子がいれば、売り子は必要だが…。目に見えない地上波テレビ局の利害関係によって操作された情報など必要ないに決まっている。

もうひとつ。スタジオの論議は、商業主義ではメディアは成立しない。…と。
グーグルの哲学は、商業主義とは一線を隔す。株式上場における彼らのコメントを調べていけば、グーグルを公共財のひとつとして考えていることがよく分かる。
アメリカは商業主義の国だと思っている人が多いが、そうではない。そう思わない人は、ピーター・ドラッガーの「非営利組織の運営」を読めばいい。日本でも、私立学校、病院、役所など非営利組織は沢山ある。そして、非営利組織を増やすことこそ、小泉内閣がすすめている小さな政府をつくることだ。民営化=商業化というのは短絡的な考察である。

グーグルなる哲学。志向の前に、へそ曲がりのように反論したい。彼らの正論の前に反論しなければ自らの立場が危うくなる。そういう賢明さをTBSのテレビマンたちに感じた。

TBSにはザ・ベストテンという、局の都合でベストテン順位に細工するなどという不正を行わない番組をつくり、世間に受け入れられた記憶がある。
わたしは彼らの誠実さに期待したい。

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2005年11月23日

Aに反対するときは、non-Aでなく、Bを主張せよ。

大人気なく、鳥越氏を批判したが、簡単にいえば表題の通り。

Aに反対するときは、non-Aでなく、Bを主張せよ。

これができていないから、社会が停滞する。出る杭は打たれるになる。



情報社会が実現し、各分野間の人材の交流が活発になってくると、外野というのは存在できなくなる。
外野でヤジを言っていた人が突然「そんならお前やってみろ」と責任を持たせられる。それが、これからの健全な社会だと思うのです。

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2005年11月22日

鳥越俊太郎批判・批判するなら天皇機関説はどうよ。



女系天皇に関する議論へのコメントとして、スタジオの鳥越俊太郎が、そんなことどうでもいいと発言していた。そして、そういう議論が、天皇がアラヒトガミと喧伝され、国民を戦争にかりたてた時代を想起させ、嫌になると…。

彼は戦前の生まれかもしれないが、明確な戦争経験があるわけではないだろう。彼をささえているのは、天皇制批判・反体制が大手を振るっていた彼の青春時代の記憶。彼はまだ、そういう思想のいまだ奴隷であることを示した発言といえる。

私は思う。日本の天皇がアラヒトガミであったことを批判するのならば、アラヒトガミであることを批判するのではなく、美濃部達吉教授のように、天皇機関説を述べればよろしい。
天皇という機能が日本をいかに導いているか。そのことに思いを広げれば単純に天皇はアラヒトガミなどという乱暴な発言はできなくなる。
総理大臣になると日本の王様になったような気分になるのかもしれない。だが、総理大臣になると天皇陛下から任命されることになる。天皇陛下は、何も語らないのだろうが、そのことで、総理大臣になった個は、日本の大いなる歴史をまとった天皇の前に自らの小ささや尊大さを恥じ、日本のためになにごとかをなそうと思うのではないか。



21世紀において顕著になっていることは、国家の求心力をどこにもとめるか。その求心力の源泉によって、その国家の運命が異なってくることだ。

国家の求心力といったが、国民のアイデンティティーといってもよい。
アメリカのように、異民族の集まりで、自由を標榜すると、まとまりがつかなくなる。自由などと暢気なことをいってしまうと、市民から武器をとりあげることもできなくなる。つまり、自由や民主主義などというイデオロギーで国家の求心力を求めると無理があり、きしみが広がっていく。そのことをアメリカの中枢にいる人たちは感じているから、大統領をときに王様的に演出し、神にもたとえられたローマ帝国の帝たちのように演出する。もちろん、当の大統領は、神や王様の品格などないから、演出の陳腐さだけが印象に残る。

では、宗教が国家の求心力の源泉になるのかといえば、そうでもない。人間は理想を求めて日々を暮らすものだから、宗教においても、理想の高い人ほど原理主義に陥る。すると、日常生活との乖離は広がるから、生活人にとっては暮らしづらい世の中がおきる。そうした社会的な不安定な中で私腹を肥やす人も増える。



だが、日本には天皇制がある。
天皇は個人であって個人でなく、神道という宗教かといえば、そう単純でもなく、その本質を見極めることはなかなか難しいが、少なくとも、日本という国家の求心性の源泉になっている。かつて、作家の猪瀬直樹氏は「ミカドの肖像」において、皇居は、首都東京の中心の大いなる空白であると書いた。
わたしもそう思う。台風の眼ではないが、空白であることによって、求心力が存在する不思議な存在。それが天皇であると思う。

天皇とは何なのか。それはわれわれ凡人には知るべくもないが、私は、ただただかしこまるべき存在だと思う。そして、天皇はかしこまるべきことを潜在的に促すだけであって、それ以外の何物でもない。
後醍醐天皇や楠木正成の時代ははるか遠くにある。鳥越俊太郎氏の発言は、その反論ながらも戦争時代の精神構造を呼び起こすものである。そういう古めかしい概念を述べることは懐古趣味でしかないし、それが新しい世の中を呼び起こさないのならば、悪でしかない。

21世紀。野党的思想であることがジャーナリズムの本道ではない。野党的な思想を語ることでバンカラを気取り、周囲からあこがれらることでジャーナリズムが成立するなら、ジャーナリズムほど気楽な商売はないといえるのではないだろうか。そして、そういうことかまかり通っているならば、そういう社会分子は、旧社会党と同じような運命をたどると断言できる。

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