2005年12月
自分という文脈を生きる。(その2)
ネットは新聞を殺すのかブログの湯川氏は、「参加型Jの薄気味悪さ」と書いているが、それは人間が本来他者が持っている薄気味悪さ(悪意やマイナスのエネルギー)を見ないふりをして生きていることを気づかせているに過ぎない。
我が妻は霊感の強いのだが、かつて彼女から、「沢山人の想念を感じるから満員電車に乗ってられない」と嘆かれたことがある。 私などは、まったくの鈍感だから、満員電車も平気のへいだが、人を知るということは本来そういう薄気味の悪いものだろう。
だが、見方を変えるとどうだろう。自分はこういう人だ。こういう思いで生きている。そのように自己紹介をする。それが悪いことだろうか。他人のことをあれこれ詮索することは、マイナスのエネルギーに属することかもしれないが、自分のことを他人に知ってもらいたいことは、プラスのエネルギー。人々を不愉快にはしない。勿論、自己顕示欲が嫌味になることもあるかもしれない。けれど、インターネットで継続的に自らを露出することは、浅薄な自己肯定などは不可能と思われる。また、自己を露出することによって自己も磨かれるし、マイナスのエネルギーから逃れることもできる。勿論、自己を露出する段階で、自らのマイナスエネルギーを放散する人もでてくるだろうが、それが社会に知らされるのだから、社会の側の対応も期待できるというものだ。
「わたし、きょうプライベートでお買い物に行ったの」と、娘との間で笑い話をしている。無名氏の素人である娘にも、私にも、パブリックな部分がないのだから、プライベートもない。だから、ジョークにもなる。
そう考えてくると、パブリックジャーナリズムに参加するものたちの、心根が見えてくる。
無名氏の素人が記事をあげることによってパブリックな存在になれる。そういう意志が記事をあげる人たちに共通してあるような気がする。
勿論、それは原罪とでもいうもので、すべてのパブリックな個性が有するものであり、すべてのパブリックな個性が克服しなければならないものである。
2005年12月15日
年末の反省:Japan Blogger Conference
今年は、年末年始で大出張があるため、会社の年賀状をデザインしている。
謹賀新年の下には、イヌも歩けば棒にあたるの文字。蛇足にも、意味として、引っ込んでいないで、積極的に動く人は幸運にいきあたるということ。との解説もついている。
ガ島さんのブログに、Japan Blogger Conferenceの告知があった。私としては湯川さんの講演会やダン・ギルモアのMTGの件もあり、主催がニフティーということもあって、どうせエバンジェリスト(goo 辞書によれば、ある製品に関する熱狂的な信奉者で,他人にその良さを伝えようとする人。また,情報通信産業などにおいて,自社製品の啓発活動を行う職種。〔原義はキリスト教における福音伝道者の意〕)たちの暢気な集まりになるんだろうな。と、思っていた。
勿論、パネルディスカッションなどは、そういう予定調和的ななごやかな議論になると思う。だから、発言権もない私が顔を出しても、会場のなごやかな雰囲気を害することになるから自重すべきとも思っていた。
だが、一般参加者の人たちの顔ぶれを見たら、とっても行きたくなった。日々、こつこつとブログを書いているひとたちの顔ぶれが見える。ああ…。残念。きちんとブログを書いている人たちと話がしたかった。
☆
エバンジェリストではない私が思う、ブログの利点とは、無名の市民に発言する機会を与えたことではない。
ブログで電子データ化された情報がインターネットの中でインテグレート(積分?)されることである。そして、その前提として、ブログ&掲示板などの発言によって、個が自らを微分して情報を提出する(自分をさまざまに分けて考え、統合しないこと。メーカーの従業員である自分と、その商品の消費者である自分の立場は無関係であることを貫く。)。
そのことにのみ、21世紀の社会にブログ&掲示板が果たすべき役割があるのだ。
分かりにくいだろうか。
簡単にいえば、日本の民主主義は匿名性によって健全にすすめられている。選挙は匿名で実施されているのだ。記名投票の国会では腐敗が日常茶飯事だ。そのことを忘れてはならない。
実名で縛ることによって民主主義は進歩しない。個を微分することによって、情報は個から放たれ、利害関係から離脱できるのだ。
証人喚問のニュースの渦中にあっても、藤田東吾氏は被告人の一部でありながら、人として確かに立っている。われわれ凡人が彼のようなすばらしい魂であるには、ブログの力を借りて、個を微分するしかないと思われる。
メディアを支える個の役割(東吾氏と、PJと)
マスコミでは性善説で法律がつくられているから、今後は性悪説でつくらなければならない。などという言説が流れている。そんな悠長な話だろうか。
藤田東吾社長は、悪事に遭遇したときに、命を守ることを最大限に考え、内部告発に踏み切ったという。
そして今、命の危険を感じているという。つまり、人の命を自分の命と同等に考える。そういう勇気を彼は持っているのだ。
12/4だったか、彼はサンデー・プロジェクトの田原総一朗氏の番組への出演要請を断った。だが、事件のすべてを田原氏に語った。その理由は、命の危険を感じていることもひとつだが、テレビに出ると、あいつはテレビに出て浮かれていると批判されるからだ。と、語った。
非マスコミ人が、マスコミに登場すると、その理由に関わらず、必ずそういう批判がでる。藤田氏の命を賭した勇気と私を比べるのは御恥ずかしい次第だが、わたしがライブドアPJで記事を書き始めたときに、バッシングを受けたのも、同じ理由だろう。
そこでどうしたか。
田原総一朗氏は、藤田氏の話を聞き、すべてを納得し、テレビ番組にふさわしい情報露出の仕方を勘案し、番組を構成した。つまり、藤田氏の情報をテレビ朝日の田原氏がオーソライズした。
藤田氏は口頭で田原氏に伝え、田原氏は言葉と映像でテレビから情報を発信した。だから、きわめてオーソライズしたことが明確になった。
これがもし、藤田氏が記事を書き、文字メディアで発表されたら、オーソライズされた印象は弱くなる。これがもし、藤田氏がビデオインタビューを受け、映像としてテレビで放送されたら、オーソライズされた印象は弱くなる。だが、今回はそうではない。田原総一朗氏であり、テレビ朝日がオーソライズした。それがメディアの本質である。
「記事の責任は、記事を書いた記者にあり、記事を載せたメディアにはない」などという条文は事実上無意味。コンテンツとは無関係なサーバーの運営者が運営責任を問われるのだから、疑問の余地はないのだが…。
☆
いま日経BPとライブドアとの間で摩擦が生じたようだ。日経BPにとってみれば、ライブドア本体とライブドアニュースが違うこと。ライブドアニュースとライブドアPJニュースが違うこと。そして、ライブドアPJニュースとPJライターたちが違うことをきっと理解できていないだろう。もし、全面戦争にいたるならば、その構図が社会的に見て有効なことなのかどうか、ぜひともトライアルして欲しいものである。
演出家の私は、当該記事が、報道精神とは別な演出的な意図で写真が撮影されたことに納得をする。ただ、それがいいことなのか悪いことなのかについては、あえて言及しない。
なぜなら、それよりも重要なことは、当該記事が、ライブドアPJニュースという文脈の中で掲載されたこと。日経BP側は、自らの行為よりも、イエローな文脈なメディアに論じられることに憤慨していると思えてならない。
個もメディアも文脈である。その文脈がブランドをつくるし、そのブランドにぶれがあるものはブランド力を消失する。
私の文脈からいえば、ブランド力を失ったメディアは名前を変えればいい。かなしいかな、私は私の文脈の奴隷でもある。
2005年12月14日
自分の名前は特別なものではない。(その1)
自分にとっては自分は特別なものだけど、社会にとっては特別なものじゃない。それを知れば一丁前。
京都の進学塾講師は、その乖離に耐え切れずにして、小学生の女の子を刺殺することで特別な存在になった。自らの塾教師としての不適応など、刺殺の対価としては取るにならないことだというのが、犯行を犯すまで分からなかった。
マスコミ人が実名報道が規制されることに抵抗している。私はそれを報道する側のご都合主義と考える。私は報道される側がもっとしなやかにしたたかになればよいと思っている。
実名報道、匿名報道などというけれど、名前は名前でしかないのだ。十五年前、三浦カズヨシの名を聞いたときに、ロス疑惑のことを思って妙な感じがしたが、いまトヨタカップクラブ選手権に出場する三浦知良選手を見ると、名前などたいした問題ではないと思えてならない。
彼の過去を振り返るとき、岡田監督の「カズ、三浦カズ」というフランスワールドカップに連れて行かない宣言の映像がかならず流される。何故、岡田氏はカズ、三浦カズと2度繰り返したのか。何故、三浦知良選手と一言ですまさなかったのか。故障したカズを外すことに冷徹でいられなかった岡田氏の弱さが見て取れる。このビビリがフランスでの3連敗に結びついた。
☆
名前など所詮文字列であり、音声でしかない。誰も同姓同名だと文句を言うことはできないし、名前が同じだからといって個性を特定したことにもならない。そういう虚妄に多くの人が捉われている。虚妄を越える実。いま、そこにあること。そのことを腹にすえて生きていくべきだ。名前なんて古くなったら脱ぎ捨てればいい。そんなものかもしれない。
このあいだ香取慎吾の番組で、ハマコーが黙して語らなかった過去を吐露していた。巷間の罵詈雑言に耐えた彼のダンディズムが眩しい。最近、平蔵大臣が資料を調べていて、アクアラインがトンネルと橋が建設業者のことを考えてちょうど半分どうしの建設費でできていることに感動したそうな。
周囲の罵詈雑言に自らを失わない。そういう胆力とでもいえるものが人の価値を決定するのではないだろうか。
名を惜しむことも必要。だが、名を虚しくすることのほうが尊いに違いない。
2005年12月13日
違うよ。不気味なのは匿名社会だよ。
インターネットが怖いんじゃない。2ちゃんねるが不気味なんじゃない。
不気味なのは、匿名社会なんだよ。
家々に表札のある日本社会。それがなくなったらおしまいだよ。
自分が匿名であることで安心している多くの人たち。
その人たちに、それでは世の中全体が匿名になってしまったら、どんなに不気味か考えてみて欲しい。
さぁ、どうするんだ。
個別の案件はよろしい。さまざまな事情があるだろう。でも、世の中がそうなったらどうするんだ。いまよりもっと不気味でいまよりもっと暮らしづらいはずだ。
その不気味さに比べたら、自分が匿名でない不安などたいしたことではない。と、思えないだろうか。
悪は果たして自分の外にあるのか。(番外編)
平和を訴えるのもいい。戦争反対にも賛成する。
だが、人間の4000年の歴史において、戦争がなかった時代が果たしてあったのだろうか。そう考えると、戦争も止む無しと考えるのは、現実論としてはまともである。
問題は、どれだけ平和的に折り合いをつけていくかであって、All or Nothingでは乱暴だ。
兵法の第一は戦わずして勝つことである。その意味では、軍人のほうが平和の専門家であり、平和主義者である。
☆
マスコミ人たちがまとう自らのサヨク思想も、ベルリンの壁が崩壊したいまとなっては、考え直す必要がある。
戦争は死刑と同様、必要悪。人間社会が原罪としてずっと考え続けなければならない問題であって、否定することで自分を悪の外に置くことはずるいと思うのです。
参加型Jが登場したいま。プロのジャーナリストの、社会のレフェリーや情報の運び屋といった役目は終了した。
もし、既存のジャーナリストがレフェリーになりたいというなら、自らの社会的立場を明確にすべきである。そして、彼らが自らの社会的立場を明らかにしたとき、それが社会のマジョリティーとの大きな乖離が明確になることだろう。
報道の成果物を見れば、そんなこと誰にでも分かるのだから。
2005年12月12日
未成年者の実名報道に関して私の意見…。
娘の小学校の公式ホームページでは、生徒の名前が伏され、写真の顔にもモザイクが入っています。これをよいことだと思えますか。
誇らしげに書いたこどもの詩に署名がない。地区大会で優勝したチームのこどもたちの目線にモザイクがはいっている。自らの存在を高らかに晒すことができない卑屈さが社会に蔓延していくことが、社会にとって、個人にとってハッピーなのでしょうか。
個人情報の流出問題ににたいする保身がこのような状態を生んだのです。とはいえ、最近のマスコミ人たちの個人名報道の法的規制に反対する姿勢は、ご都合主義的なものであって、私は賛成しません。
なぜなら、個人情報流出の被害への対応策を何ら考えていないからです。
私が考える対策は、個人情報エージェントをつくること。もうひとつは、改名を容易にすること。
実名・匿名はどうでもいい。要はトレーサビリティーが確保されているかどうか。そして、そのトレーサビリティーは問題発生時だけ確保されればいい。
すべての青少年がジャーニーズ事務所に所属すれば、彼らの個人情報は守られる。これはジョークだが、本音でもある。
若貴騒動のときの、若夫人・みえこさんの「よわい立場だな」というセリフが痛い。私も「事務所を通して」と言ってみたい。
追記:
木村建設が倒産じゃなくて、自己破産ってとこを突っ込まないマスコミってどうよ。
音楽は音を楽しめばいいのか。
「音楽」って「音」を「楽しむ」っと考えて譲らない人がいる。
私は、その言葉のもっともらしさが許せない。
☆
楽の意味は、楽市楽座と同じで、何物にも拘束されない自由って意味だと思うのです。
田楽とは、手も足も仕事に拘束されていたが、その中で、自由な部分で踊ったり、歌ったりする。田楽で仕事量が減らない。実は増えることを知り、領主たちも許さざるを得ない。そういうものだったのではないでしょうか。
私には、人生を楽しむとか、幸福なんていう概念は、西洋の思想という気がします。
音楽は贈り物。自分が何を贈りたいかではなく、相手が何をもらったら喜んでくれるか。それが重要。自分が贈りたいものをプレゼントする人って、たくさんいますよね。
2005年12月11日
自分という文脈を生きる。(その1)
>ただ一度世の中に流れるだけでも、害を及ぼす情報もある。少年犯罪の実名がそうだ。
これなども、社会の一員ということを考えるならば、情報と無関係に個は存在できないのであって、情報と人格が寄り添って生きていれば、実名で報道されたとしても克服できる。そして、そのような魂であることが社会の構成員としての資格。
ボケたらつっこむ。つっこまれたら切り返す。そういう吉本新喜劇的なことができれければ、舞台からの退場を余儀なくされるのだ。
人間が考える葦であるといったのは、一本の葦のようなちっぽけな存在である意味ではなく、一本の葦のように、風がふいても、しなやかにたわんで、やり過ごすことができる。…そういうこと。
イランの自爆テロの犯人たちの中に少年たちが少なからず存在することを考えると、こどもといえども無垢で罪がないといえるのかと考えさせられる。重要なことは、すべての魂にたおやかさの源泉となる確かなる自己が確立されることだと思われる。