2006年02月

2006年02月08日

市民の意見を拒絶するメディアであるライブドアPJって何?

livedoor ニュース

ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村が書いています。

*

少なくとも、PJの側には誹謗中傷合戦はなかったと記憶している。

もしあったとしても、それは、センター長補佐と一般PJの間でのことかもしれない。

とはいえ、それにしても、建設的な議論の中にセンター長補佐は一切加わらなかった。

私は、それが民主主義にとって一番よくないことだと思っている。

あのとき、誰も彼を責める気はなかった。人員不足も理解していたし、資金不足も理解していた。その中で自分たちが何ができるか、それを提案していただけだ。

だが、自分が有利な立場でないと発言しない。それでは議論は成り立たない。また、彼は、BBSにおいて進行役・潤滑油といった役割も果たそうとしなかった。

基本的にコミュニケーションとは、妥協することだと私は思っている。

言論は自説を主張することだが、議論やコミュニケーションは妥協点を探ることでもあるし、妥当性を探すことでもある。

ただ、人と人がコミュニケーションをして新しいものが生まれる。個にとっては妥協かもしれないが、それが個の意見が昇華したものであることも多い。

それが素晴らしいし、もしこのメディアに未来があるのなら、やるべきことだと思われる。

*

あるべきは、世の中のすべての意見を呑み込むメディアとして、市民参加型ジャーナリズムが成立すること。

その意味では、2ちゃんねるもひとつの言論に間違いない。

そもそも、2ちゃんねるにウォッチ板ができ、研修会の内容が即日アップされる状況をみれば、市民記者たちと2ちゃんねらーの集合的交わりはかなり高いということだろう。

とすれば、事実確認が難しい現状では成立しない誹謗中傷という概念を持ち出して、自己都合をふりまくのではなく、高らかに高踏するか、真摯に耳を傾けるか。それしかない。

そして、そのことは、けっしてメディアの品格を下げるものではないと確信している。

最新追記:

私のPJニュースへのトラックバックがそうそうに消されたことをみると、ライブドアPJを舞台に論理できる言論の範囲は驚くほど狭い。

注:10時22分の段階で再トラックバックしました。まぁ、これも瞬時に消される運命でしょう。

追記:

先日、私のフリーアドレスに、私の非掲載原稿を精読し、国語力、文章力は非掲載に相当するというメイルをいただきました。まぁ、そういう問題もあるのでしょうね…。(^o^)「日本語なんてくそくらえ」という私の文脈をあらためて開帳するのも面倒なので、返信はしませんでしたが…。



sponta0325 at 08:03|この記事のURLComments(5)TrackBack(0)

2006年02月07日

そういうことをPJたちが議論した場がありました。

livedoor ニュース

はじめまして、ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村です。

*

そういうことをPJたちが議論したBBSの場がありました。

そこでは、記事に書かれたことが指摘され議論が沸いていました。

しかし、議論が批判を生むというような危惧から閉鎖されて現在にいたっています。

登録者でありながらも、記事も掲載されないし、塾の案内もこない私はカヤの外ですから、実際はあるのかもしれませんが、どちらにしても、あなたのような記事を書くことは重要だと思っています。

*

ライブドアのブランド力が、市民参加型ジャーナリズムというマイナーなムーブメントを、社会に認知させるのではないか。と、期待していたのですが、それもなかなか難しいようですね。



sponta0325 at 06:40|この記事のURLComments(2)TrackBack(1)

2006年02月04日

その前に、市民記者の意見を受け付けようよ。

livedoor ニュース

ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村です。

PJ記者の意見交流の場がないのでトラックバックで失礼します。

トラックバックの場が、市民記者たちの交流の場、フォーラムの役目を果たすこともよいと感じ、書いています。

PJ塾は参加者が12名というところを見ると、アイランド的な、予定調和の中で行われたのでしょうか。

きっと、限定的なメンバーに開催が予告され、実施されたのでしょうね。設立当時の塾を考えれば、このメディアが存続も危ぶまれる一大事なのに、参加者が12名というのは、ちょと考えられない…。

センター長補佐は、「ライブドアの意向は受け付けない」と、まなじりを決っしたようですが、それは個の事情なんじゃないかな。

そう宣言しないと、メディアとしてのアイデンティティーが瓦解する。それだけのこと。

渡辺さんは、「わたしたちPJは、今あるメディアを批判する為にあるのではない」と書いていらっしゃいますが、私にはセンター長補佐が市民記者媒体を作りたかったのではなくて、既存メディアを批判するためのメディアを自分が持ちたかっただけと思えてなりません。それは、取材現場のハイヤーを批判するなど、枚挙に暇がありません。

ただ、私はそういう彼の思いを否定する気持ちはなくて、そういうものと市民記者ムーブメントが寄り添ってメディアが活性化していくなら、それはそれでよいことと考えていました。

>今後、わたしたちPJの活動を広げ、今の日本になくてはならない存在になりたい。>また、読者と共に成長していく「最も市民に近いパブリックジャーナリスト」になれ>るよう、これからも努力していきたいと思っている。

という渡辺さんの意見。私もはげしく同感です。

ただ、いま、もう、すでに、市民なんです。

だから、その市民をすてて、最も市民に近い、などとうそぶくことは、どうなんだろうかと、私は考えています。

自分でありつづけること。市民であり続けることが重要であって、自分や、市民とは違う何物かになることは間違っている。価値はないと思うのです。

市民にもっとも近いなどという考えは、ジャーナリストを高邁なものととらえて市民を見下す。そういう情念をまとっている。

そんな鼻持ちならないメディアだったら、2ちゃんねるのほうがもっと真実を語っている。自らの感情を吐露している。屈折したダンディズムから、悪意で自らをオブラートしているが、異端的な例外はともかくとして、2ちゃんねるのメインストリームは、そういう自分に正直で誠実なメディアだと思う。

不毛な議論も多いのだが、ワンコメントみたいな書き込みには、自分以外の思想の囚われ人ではない、確固たる個の存在を感じることができる…。

情報は主体と無関係ではいられない。だから、どんなに美文をこらし、論理を組み立てても、その発信源の行動や人格が破綻していれば、受け手の心を打たない。

それは厳然たる事実であり、だとするならば、自らを晒し、自分たちの文脈を明確にすることからでしか、情報の重要性を高めていくことはできないのでないか。

そして、そういう送り手側の誠実が、受け手のリテラシー向上に寄与する。

そう思っています。

どちらにしても、すべての登録者にPJ塾の存在を知らせないのは異常事態でしょう。

すくなくとも、当事者の私にはPJ塾の存在を知らせない旨の連絡をするのが、あるべき姿のはず。

まずは、そういう異常状態をすべてのライブドアPJ記者で共有することが最低限必要です。

それができないなら、そのコミュニティーは極めて閉鎖的であり、排他性を持つので、市民メディアではない。

つまり、もしあなたが市民記者でありたいと思うならば、運営にも市民記者の思いが通じてこそだと思うのです。

トランスペアレンシー。

市民記者は市民に対して自らの透明性を負い、新聞は読者に対して自らの透明性を負う。企業は株主に対して透明性を負うのと同じ考え。

そして、すべての社会の構成員は社会に対して透明性を負わなければならない。

それが、9.11後のコミュニティーのあり方ではないでしょうか。

勿論、トイレの中を見せる必要はないし、お誕生日のびっくりパーティーを禁じることもないのですが…。



sponta0325 at 08:46|この記事のURLComments(3)TrackBack(1)

マスコミ被害を謳うのではなく。

livedoor ニュース

はじめまして、ライブドアPJニュースを批判したことにより、投稿しても記事が採用されてないスポンタ中村です。

PJ記者の意見交流の場がないのでトラックバックで失礼します。

トラックバックの場が、市民記者たちの交流の場、フォーラムの役目を果たすこともよいと感じ、書いています。

私が思うのは、自由な議論のためには、ある程度批判をうけることはやむをえないということです。勿論、いまのホリエモンバッシングは度を過ぎているとも感じていますが、そのことをある意味当事者ともいえるライブドア・メディアの住人は、言うべきではないという考えです。

マスコミ被害があることは事実ですが、すでにメディアの住人となった人にはマスコミ被害を主張する資格があるのでしょうか。

私は、PJに登場後、2ちゃんねるからバッシングを受けました。その内容は刑事事件に発展してもおかしく内容もありました。そこで、2ちゃんねるに削除依頼をしようと、検討したのですが、私も妻もインターネットの住人であり、そこに情報をアップしているのだから、削除の対象にはならないとのことでした。

私は、そういう2ちゃんねるの運営者の考え方に納得するし、それがリアリズムだと感じています。

自らが被害者であると主張することは、時代や社会の観察者であるジャーナリストにとって、自らの立場を否定することにもなる。

勿論、客観や中立は勿論、独立した立場も難しい。だとすれば、どうすればいいのかと考えると、一様な答えはないと思う。

でも、だからこそ、ジャーナリストとして悩むことに重要さがあると考えるのです。



sponta0325 at 07:46|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: