2006年05月
2006年05月17日
久保の敗因
ブログに書く事ができなかったが、久保が落選しなければだめだと思っていた。このところ代表の試合に久保が先発していたが、それは、チームの功労者である久保を外すにあたって万全を期すためであり、久保への配慮だと感じていた。
久保の落選の理由には、柳沢が骨折から回復途上にあり、FWに故障という爆弾を抱えた人間が二人いることは許されぬ。そういう事情もあったに違いない。
ジーコ自身が、不良コンディションでワールドカップに望み、無念の経験があるという。私は、フランスワールドカップの決勝が、ロナウドの体調不良で凡戦に終わってしまったのを思い出す。テレビ観戦で見たキリンカップの久保は、11枚の駒のうちのひとつでしかなかった。それではFWとして失格である。
そして、気持ちの欠如。それが最大の久保の敗因である。
たとえ真実だとしても、サッカーをやっている間は、自分が長距離トラックの運転手になりたいなどと言ってはいけない。
キリンカップは、個々の選手にとって最終アピールの場であると、マスコミは喧伝していた。なのに、脚を折れよ。と、久保は無茶をしなかった。ブルガリア戦は自らの意志で欠場している。それが、すべての原因である。
当落線上でぎりぎりのアピールを重ねる巻や佐藤らチームメイトたちの努力を前に、久保は、自らの優位性を担保に1ヶ月後のワールドカップ本番に向けて調整をしていた。勿論、それほどまでにコンディションが悪かったともいえる…。
コンディションは勿論、その心のなさをジーコは見逃さなかった。いまベストをつくせない人間が、明日ベストをつくせるはずがない。チームプレイでは日々の行動がチームメイトの信頼を呼ぶのだ。久保は故障だというが、その本質は痛みと悪化することへの不安である。痛みと不安に負けた人間に、ワールドカップで戦う資格はない。
☆
久保落選の背後には、早々とマスコミが彼に当確を押してしまったことも、原因があると思う。もし、久保が当落線上の選手だと、マスコミから言われていれば、もうすこし違っていたかもしれない。その意味では、久保もかわいそうだ。
それよりもっと気になることがある。それは、キリンカップでスコットランドが引き分けでも優勝できるという理由から、守りを固める戦術に出たことを、ほとんどのマスコミが、ワールドカップ本番では、こんな戦い方はありえない。と、評したことである。
マスコミが、何でそんな論調になるのか分からない。
初戦のオーストラリア。こんなことは予想したくないが、前半でオーストラリアが2点入れたら、後半はキリンカップのスコットランドのような守りを固める戦術になるに決まっている。人海戦術になれば身長差でオーストらリアの有利になる。
何が起こるからわからないワールドカップだ。3戦とも引き分けで、得失点差で決勝トーナメント進出という戦術だってありえる。もとより、日本にしたって、勝つことよりも負けないことを目標に、現実的な戦略をまとめているはずだ。
で、キリンカップのスコットランド戦、日本は勝ったのか? 引き分けである。
ワールドカップの対戦相手がスコットランドの戦い方を参考にしないはずはないのである。ジーコは、日本のマスコミに陽動されることはないと思うが、12番目の選手であるサポーターたちも陽動されてはいけないと思うのです。
2006年05月16日
個にとってのサーバー&クライアント。サーバーであることの誇り。
ハイティーンの若者たちが引きこもったり・逆ギレする原因は、サービスする側(サーバー)になることに耐えられない自尊心が原因だと思っている。生まれたとき、人間は一方的にサービスされる側(クライアント)である。
だが、物心がついていくと、「自分のことは自分でやりなさい」としつけられる。この言葉の表面にあるのは自立という概念だが、その実体は、自分がクライアントではない。という屈辱を幼い心に刻み付けることでもある。
だが、次第に、「新聞を取ってきてくれ」「御茶碗を洗ってね」と両親から言われ、いつしかサービスする側になっていく。
私が「新聞を持ってきて」と命令するとは、娘は玄関の外に出て、新聞を持ってきてくれる。その様子を見ていると、けっして不機嫌ではないことを感じる。自分がサービスする側なのだけれど、そのことを楽しんでいる。父親に喜ばれることに満足している。「リアルままごと」のようなものだが、サービスすることの喜びを知っているに違いない。
だが、食事のあと、カミサンが「御茶碗を洗ってね」と言うと、へそを曲げる。けっして洗おうとしない。冷たい水で食器を洗っていた昔とは違い、いまはお湯で洗うのだからまったく苦痛ではない。ましてや、水遊びが好きだった娘である。
私には食器洗いをがんとして行おうとしない、彼女の気持ちが分からないでいた。だが、サーバーということを考えれば分かりやすい。彼女は自分がサーバーであることに抵抗しているのだ。そんなことに屈辱を感じないで、楽しんでやっちゃえばいいじゃないか。47歳の私は、そう素直に考えることができる。だが、この私も10代の頃は、サーバーである屈辱感を感じていたのであろうか、たまにしか自分の茶碗を洗うことをしなかった。
いまは、自分がサーバーであることに屈辱感はないし、サーバーであることに誇りを持っている。それが親というものだろう。
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さて、職業人であることはサーバーとしての誇りを持つことである。
料理人はサーバーだから、自分がつくった料理を客が満足することで、満足する。それが真っ当。だから、自分の料理を不味いと言う客を認めない料理人はクライアントであり、本質的には職業人ではない。
客を罵倒するなどもっての他。客として相手を認めないならば、今後の出入りを禁止すべきことであって、サーバーとクライアントの関係が続いている状況では、その関係に縛られなければ、職業人としての見識が疑われる。また、自分と同じ立場の客が罵倒されている状況を他の客も見ているのだから、明日は我が身との心理になる。そこから、店の評判が落ち、客離れがはじまったとしても、仕方のないことだ。
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私は、自尊心を持たぬことに自尊心を持つ。などと、理屈っぽいことを書いたが、私をそのような考えに至らせた理由は単純だ。私の助監督(AD)としての経験である。
作品のためなら何でもする。奴隷にでもなる。そういうストイシズムが、薄給の助監督の誇りである。
女優が冷たい池に入るシーンの撮影では、まず助監督が冷たい池に入って見本を見せる。そんなことは当たり前だ。
今村昌平監督の代表作「日本昆虫記」には、北村和夫演ずる農夫が肥料(糞尿)の具合を調べるために舐めてみるシーンがあったという。豊作のためには何でもする。そういう農民の真剣さ・切実さを表現するには、素晴らしいシーンだと思う。
私がもし、今村昌平監督の現場に助監督としてつく名誉があったならば、役者に先んじて糞尿の味を確かめ、演技者の北村氏に、「ちょっとしょっからいけど、大丈夫です。本番いきましょう」と報告し、大きな笑顔をつくったに違いないのだ。
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そのように、私はスタッフであることに誇りを持っている。私の文章から一般ピープル蔑視を読み取った人がいるが、それは私の本意ではない。イベントや撮影の現場において、私はつねにサーブする側を意識している。だから、私がなりたかったものはスタッフ(サーバー)。スポットライトを浴びるキャストではなく、あくまでスタッフなのです。
そして蛇足をあえて言うなら、キャストが自らがサーバーであることを忘れてしまったら、その価値はない。
私は、素晴らしい演技やパフォーマンスのためなら、奴隷にでもなるが、出来上がる作品に価値がないと悟ったら、そうそうと立ち去る。そのようにして、さまざまな制作の場を彷徨ってきた。
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あの夜、私に「アウェーの気分なの」と言った若い女性の言語感覚は目を見張る。だが私は、ホームでもアウェーでもなかった。言い換えれば、サーバーでもクライアントでもなかった。
私は、ブロガーでもある有名人とそこに集ったブロガーたちのオフ会に接して、自らが模索する市民参加型ジャーナリズムへヒントを得ようとしていた。だから、ある意味、報道陣だったのだといえる。
もの言わぬ観客に代わって報道陣が語ることはよくあること。そんなことだったと私は述懐する。
ラジオの公開録音のような構成がオフ会にふさわしいものであるはずもなし…。
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私が構築をめざす市民参加型ジャーナリズムの中で、私がどういう立場を目指すかといえば、あくまでサーバーであって、コンテンツメーカーではない。そこに、私がメタ議論を繰り返すという批判が当然でてくる。私はそういう批判と辛抱づよく対応しなければならないのだ。
マイクロソフトはコンテンツには手を出さない。だから、ニュースサイト構築において、毎日新聞と提携した。私の野望も、それに同じといえば、イメージできるかもしれない。