2005年07月21日

「ネットは新聞を殺すのか」の湯川さんと会った。

ネットは新聞を殺すのかの湯川さんと会った。

私はまず、「湯川さんのブログにたくさんの書き込みをしていますが、嵐と感じていないですか」と謝罪した。
すると、「いやぁ、あなたの書き込みには沢山反論が書き込まれますよねぇ」と苦笑した。そして、「どうしてライブドアって、あんなに叩かれるのかなぁ」と続けた。

私はカミサンから、「あなたは聞き役にまわりなさい」と、忠告を受けていた。だが、一歳年長で聞き手のプロである湯川氏の前では、素直に答えていかざるをえなかった。
私が反論される理由、ライブドアが叩かれる理由、わたしなりの説明を試みた。

2時間以上話した後、市民ジャーナリズム、市民記者の将来の展望について話題にすると、驚くほどふたりの意見が一致していたことが分かり、固く握手した。
私の思いが入り混じっていることを恐れずに書くと次のようになる。

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私はいま、参加型ジャーナリズムという形でとりあげているが、それは記者というよりも、ジャーナリズムという言葉の方が、書きたい人たちの意欲をかきたてるだろうという理由からだ。

インターネットのなかった時代では、マスコミにしか情報発信ができなかった。だが今、ブログや掲示板をつかって、誰でも情報発信ができる。
そのような時代にあっては、アクティビズムとジャーナリズムの垣根はなくなると思う。
今後は、NPOやNGO、そしてブログに身辺雑記を書き留めているような人たちが、積極的に情報発信していく時代になることを期待したい。

いままでは、既存の報道機関が跋扈していたので、ジャーナリズムにアクティビストたちは入っていけなかったが、インターネットの発達とともに、今後はアクティビストもジャーナリスティックな活動をするようになるだろう。(湯川氏の話を、スポンタ的に解釈)

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ジャーナリズムとアクティビズムという話をはじめて湯川さんから聞いた。
一方、私にとって重要なのは、表現者であり実践者であること。
湯川さんのアクティビズムという言葉と、私の実践者であることの意味は非常に近いと感じられた。

私は、失礼を承知で次のように質問してみた。
ジャーナリズムが持つべき取材対象との客観性・中立性は、ジャーナリストに冷酷さを強いるのではないか…。
すると彼は、「私はジャーナリストである前に、一人の人間でありたい」と明解に答えた。
長年のジャーナリストとしての経験が、ジャーナリストという概念に縛られない確固たる個を醸成している。理論や思想が現場において鍛えられるとは、こういうことなのだろう。

初対面にも関わらず2時間以上も歓談できたことを奇跡のように思いながら、私は築地のビルを後にした。

sponta0325 at 01:18│Comments(0)TrackBack(0)スポンタ発 

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