2005年07月27日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(6)_市民記者は妙好人
鈴木大拙の「妙好人」などを例にあげて、訳が分からないという人もいるだろう。妙好人とは、念仏を唱えることが生活の中の一部となっている市井の人たちとでもいうのだろうか。大拙氏は、経を読み、長年修行した位の高い僧よりも、妙好人の方が仏教の本質を理解していて、魂のグレードも高いことがあると紹介した。
私が市民参加型ジャーナリズムに求めているのは、魚屋のご主人が魚屋の記事を書くこと。
ただ、ここが微妙な話なのだが、魚屋のご主人がジャーナリストになるのではない。魚屋のご主人が魚屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。
勿論、魚屋のご主人が魚屋の商いの傍ら記事を書くのだから、商いに支障がでないとも限らない。市民参加型ジャーナリズム媒体は、魚屋のご主人が安心して書けるようなシステムを構築すべきである。間違っても、「実名でなければ真実の報道はありえない」などと乱暴に主張してはならない。
なぜなら、私たちは雪印という日本の大企業が瓦解した事件を経験している。社会悪ともいえる一企業の悪事を暴いたのは、西宮冷蔵という独立した倉庫業者の主だった。彼は自分の倉庫で悪事が行われていることを許せなかった。だから勇気を持ってマスコミに顧客の事件を告発した。だが、そのことは、大阪の商い道徳からいえば、違和感があったのだろう。彼の会社は営業がいきづまり、彼の人生は大きく挫折した。
このようなことが頻発するならば、社会正義を貫く人は居なくなり、社会には不正があふれるようになるばかりだ。たしかに西宮冷蔵の主は短慮ではあった。だが、彼の勇断をつかって大企業の社会悪を糾弾し、あるべき状態に導いていったマスコミや行政が、彼を見殺しにするのは非情すぎると思う。
せめて市民社会は、彼の勇気を讃えることをすべきではないか。
このケースなども、市民参加型ジャーナリズム媒体が知恵を出し合い、工夫することによって、告発者の被害を最小限に留めることができるのではないか。告発者が英雄になることを望まないならば、それほど難しいことではないと考える。
私が市民参加型ジャーナリズムに求めているのは、魚屋のご主人が魚屋の記事を書くこと。
ただ、ここが微妙な話なのだが、魚屋のご主人がジャーナリストになるのではない。魚屋のご主人が魚屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。
勿論、魚屋のご主人が魚屋の商いの傍ら記事を書くのだから、商いに支障がでないとも限らない。市民参加型ジャーナリズム媒体は、魚屋のご主人が安心して書けるようなシステムを構築すべきである。間違っても、「実名でなければ真実の報道はありえない」などと乱暴に主張してはならない。
なぜなら、私たちは雪印という日本の大企業が瓦解した事件を経験している。社会悪ともいえる一企業の悪事を暴いたのは、西宮冷蔵という独立した倉庫業者の主だった。彼は自分の倉庫で悪事が行われていることを許せなかった。だから勇気を持ってマスコミに顧客の事件を告発した。だが、そのことは、大阪の商い道徳からいえば、違和感があったのだろう。彼の会社は営業がいきづまり、彼の人生は大きく挫折した。
このようなことが頻発するならば、社会正義を貫く人は居なくなり、社会には不正があふれるようになるばかりだ。たしかに西宮冷蔵の主は短慮ではあった。だが、彼の勇断をつかって大企業の社会悪を糾弾し、あるべき状態に導いていったマスコミや行政が、彼を見殺しにするのは非情すぎると思う。
せめて市民社会は、彼の勇気を讃えることをすべきではないか。
このケースなども、市民参加型ジャーナリズム媒体が知恵を出し合い、工夫することによって、告発者の被害を最小限に留めることができるのではないか。告発者が英雄になることを望まないならば、それほど難しいことではないと考える。