2005年07月28日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(7)_市民記者はスーパーマンだ。
私が市民参加型ジャーナリズムに求めているのは、八百屋屋のご主人が八百屋の記事を書くこと。
ただ、ここが微妙な話なのだが、八百屋屋のご主人がジャーナリストになるのではない。八百屋屋のご主人が八百屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。と、前々回に書いた。
世田谷区にはオンブズマン活動に熱心なパン屋さんがいる。彼は、熱心なあまり、パン屋さんでありながら地方議員になってしまった。たしかにパン屋のご主人のまま物を言う市民になったといえるのだが、彼のお店は、物を言うパン屋さんになってしまって、もう市井の市民ではなくなってしまったと思える。いうなればパン屋さんの地方議員。彼の市民オンブズマン活動を尊敬する人たちもいるが、市井の市民感覚とは、距離感ができてしまっているとも思える。
☆
私がイメージするのは、サラリーマンのクラーク・ケント氏が背広を脱ぐとスーパーマンに変身すること。
さえないクラーク氏を知る人は、仰ぎ見るスーパーマンを彼だと思う人はいない。彼の彼女だけ「おやっ」と首をかしげる。そんな世界だ。そして、クラーク氏本人も有名になること、英雄になることを良しとしない。
アメリカ人の人生の目標は英雄になることだというが、スーパーマンのストーリーを見る限り、そう単純ではないと思えてくる。
市民が社会悪と戦う場合、その戦いは人生の長い時間から比べればほんの一瞬の出来事だと思う。その一瞬のために、告発者や情報提供者が自分の人生でこつこつと積み上げてきたすべてを失うのだとしたら、それは避けるべきである。また、そういうシステムが構築されない限り、市民参加型ジャーナリズムは隆盛しないと考える。
思えば、ウルトラマンは3分しか戦わないし、科学特捜隊のハヤタ隊員もさえない若手隊員といった位置づけだった。ただ、クラーク氏もハヤタ氏も、悪と戦う勇気を心に秘めていた。
そういう勇気の受け皿が市民参加型ジャーナリズム媒体だと考えている。
ただ、ここが微妙な話なのだが、八百屋屋のご主人がジャーナリストになるのではない。八百屋屋のご主人が八百屋のご主人のまま記事を書くことが重要なのだ。と、前々回に書いた。
世田谷区にはオンブズマン活動に熱心なパン屋さんがいる。彼は、熱心なあまり、パン屋さんでありながら地方議員になってしまった。たしかにパン屋のご主人のまま物を言う市民になったといえるのだが、彼のお店は、物を言うパン屋さんになってしまって、もう市井の市民ではなくなってしまったと思える。いうなればパン屋さんの地方議員。彼の市民オンブズマン活動を尊敬する人たちもいるが、市井の市民感覚とは、距離感ができてしまっているとも思える。
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私がイメージするのは、サラリーマンのクラーク・ケント氏が背広を脱ぐとスーパーマンに変身すること。
さえないクラーク氏を知る人は、仰ぎ見るスーパーマンを彼だと思う人はいない。彼の彼女だけ「おやっ」と首をかしげる。そんな世界だ。そして、クラーク氏本人も有名になること、英雄になることを良しとしない。
アメリカ人の人生の目標は英雄になることだというが、スーパーマンのストーリーを見る限り、そう単純ではないと思えてくる。
市民が社会悪と戦う場合、その戦いは人生の長い時間から比べればほんの一瞬の出来事だと思う。その一瞬のために、告発者や情報提供者が自分の人生でこつこつと積み上げてきたすべてを失うのだとしたら、それは避けるべきである。また、そういうシステムが構築されない限り、市民参加型ジャーナリズムは隆盛しないと考える。
思えば、ウルトラマンは3分しか戦わないし、科学特捜隊のハヤタ隊員もさえない若手隊員といった位置づけだった。ただ、クラーク氏もハヤタ氏も、悪と戦う勇気を心に秘めていた。
そういう勇気の受け皿が市民参加型ジャーナリズム媒体だと考えている。
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この記事へのコメント
1. Posted by カフェマスター 2005年07月28日 19:44
コメント有難うございました。受け皿は必要ですね、ドンキホーテでは余りにも可愛そうな気がするな。アンマリ難しく考えない方が良いと思うのです。昔の日本のように、地域の人々が回りに気を付けながら住む世界。日本にも残ってますよね、山村とか離島なんかに。地域のお年寄りが子供達を世話をするような事が沖縄では自然に行われています。
金、金、金と世知辛い世の中で、少欲知足の精神で生きていきたい。
金、金、金と世知辛い世の中で、少欲知足の精神で生きていきたい。