2005年07月30日

日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(8)

私が考える市民参加型ジャーナリズムの記事の一般的なタイプは、ニュースショーなどでスタジオと回線からつながれたテレビでの現場からのレポートだ。現場のレポーターは、客観的な立場から現場をリポートするが、最終的にはスタジオのアンカーマンから感想を聞かれ、自分の意見を述べる。そういう按配が標準であって、新聞の三面記事のような記者の視点はおろか、記者が存在さえしないような記事は興ざめだと思う。
そして、記者の中には、木村太郎氏や田原総一朗氏のように自分の意見を大々的に述べる記者もいるだろう。

たんなる感想でも記事としては成立するのだろうが、私は感想だけの記事は書かない。そう読んでもらえなければ自分の筆力を反省するしかないのだが、たとえテレビ番組を取り上げる場合でも、問題点を指摘し、現状の改善を求める取り上げ方をしてきた。テレビ番組の社会的な影響力を考えれば、問題を指摘することは意味があると考える。
私は、そうした記事の有用性こそ、市民が重い腰をあげて参加する新しいメディアの意義だと思う。
もし、市民記者が自分の感想を述べることだけで終わってしまうのならば、それは有名になりたいという自分の欲望に他者を巻き込むことにしかならない。そういうものも全否定はしないが、そういうものが横溢するようなメディアの有用性は低いと思う。
日本人は四季とともに生活しているから、花鳥風月を記事にすることもいいだろう。また、そういうものは新人市民記者がはじめて記事をあげるには格好の題材だと思う。でも、だからといって、そういうものばかりでメディアを埋め尽くしていこうという姿勢には納得がいかないのである。

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この記事へのコメント

1. Posted by かれんの私生活公開ブログ   2005年08月11日 14:55
これってどう思う??
2. Posted by ヨン様の秘密   2005年08月17日 13:56
世の中なにがあるかわかりません。。。
いかがなもんなんですかね。。。

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