2005年08月03日
日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(11)_根本的に、市民記者はニュースを配信できないのだが…。
湯川氏、団藤氏のやりとりを見ている。すでに彼らは六本木系市民参加型ジャーナリズムに関心がないばかりか、同類のメディアに関しても興味の対象ではなくなっているようだ。
さて、8/3のエントリーでは、ジャーナリズムにおけるエリート意識。そのあたりについては、私はすでに鈴木大拙の「妙好人」を引き合いにだしているので、プロのジャーナリストたちの議論に加わるつもりはない。
それよりも思うのは、「市民はニュースを提供できるのか」という問題である。
ジャーナリズムが扱う情報を、社会構成員にとっての有価値情報と定義しつつも、それだけではニュースにはならない。何もよりも新しいことが、ニュースである重要な資格である。
だが、実際はどうだろうか。
情報提供者である市民記者が匿名にしたり、ハンドルネームで特定されないようなことをしても、記事の当事者が読めば、内容からそれが自分をとりあげていることが分かってしまう。そうなれば、市民記者と記事の当事者である取材対象との良好なコミュニケーションの継続は難しくなるのが実情だ。
例えば、子供を学校に通わせている親が教育問題に直面したとしよう。
だが子供を学校に通わせている限り、学校の批判記事は書けない。いくら社会正義を貫いたと胸を張っても、娘が自分の帰属する社会から異分子としての扱いを受けるのなら、メリットはない。書けるのは、娘が退学してからである。
市民にとってニュースを書くことはとても難しいのだ。何年か経って、自分に損害が及ばない頃にはじめてニュースをリリースすることができる。何年か経ったとき、その記事がニュースバリューを持っているかどうか。時間を経過しても価値がある情報というのは、かなり限られると思うのです。
ただ、時間が経過しても、過去の情報が魅力を失わない場合がある。それは、個人という文脈で情報がリリースされる場合である。
たしかにニュースという意味では価値が薄くなっているのかもしれないが、個人というエッセンスを加えれば数ヵ月後、数年後の情報であったとしても、ニュースバリューはありつづけると思うのです。
さて、8/3のエントリーでは、ジャーナリズムにおけるエリート意識。そのあたりについては、私はすでに鈴木大拙の「妙好人」を引き合いにだしているので、プロのジャーナリストたちの議論に加わるつもりはない。
それよりも思うのは、「市民はニュースを提供できるのか」という問題である。
ジャーナリズムが扱う情報を、社会構成員にとっての有価値情報と定義しつつも、それだけではニュースにはならない。何もよりも新しいことが、ニュースである重要な資格である。
だが、実際はどうだろうか。
情報提供者である市民記者が匿名にしたり、ハンドルネームで特定されないようなことをしても、記事の当事者が読めば、内容からそれが自分をとりあげていることが分かってしまう。そうなれば、市民記者と記事の当事者である取材対象との良好なコミュニケーションの継続は難しくなるのが実情だ。
例えば、子供を学校に通わせている親が教育問題に直面したとしよう。
だが子供を学校に通わせている限り、学校の批判記事は書けない。いくら社会正義を貫いたと胸を張っても、娘が自分の帰属する社会から異分子としての扱いを受けるのなら、メリットはない。書けるのは、娘が退学してからである。
市民にとってニュースを書くことはとても難しいのだ。何年か経って、自分に損害が及ばない頃にはじめてニュースをリリースすることができる。何年か経ったとき、その記事がニュースバリューを持っているかどうか。時間を経過しても価値がある情報というのは、かなり限られると思うのです。
ただ、時間が経過しても、過去の情報が魅力を失わない場合がある。それは、個人という文脈で情報がリリースされる場合である。
たしかにニュースという意味では価値が薄くなっているのかもしれないが、個人というエッセンスを加えれば数ヵ月後、数年後の情報であったとしても、ニュースバリューはありつづけると思うのです。
トラックバックURL
この記事へのコメント
1. Posted by かれんの私生活公開ブログ 2005年08月11日 14:55
これってどう思う??
2. Posted by ヨン様の秘密 2005年08月17日 13:56
世の中なにがあるかわかりません。。。
いかがなもんなんですかね。。。
いかがなもんなんですかね。。。