2005年08月04日

日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(12)_根本的に、市民記者は客観的になれないのだが…。

〔但書〕クレームのメイルが来ました。曰く、中立ではなく、独立とのこと。私は固有名詞で記事を書いていないから、本来であれば、訂正する必要はないが、議論を避けるために、その部分を抹消する。私にとっては、本質的な部分ではないので、議論もしない。また、訂正したことが、私が対象を特定したことにはならない。あくまでもクレームがあったので、訂正したにすぎない。

いま、私にとって重要なのは、「PJ記者同士の情報交換の場がないこと」「PJの編集方針が明確化されていないこと」。これらについてPJ仲間たちと一緒に意見交換の場をつくっていこうと思う。

以下は、問題箇所を削除した文章である。
尚、市民は利害関係のある問題に関しては書けないから、独自性はあらかじめ確保されている。したがって、後半部分は修正していません。

/////

ジャーナリズムには、中立性・客観性をそなえることが必須条件であるという。
だが、人間が神でないかぎり、真実を知ることはできないのだし、自分の口から出た言葉を主観でないと言い切るのは、神をかたることにもなりかねない。

さて、市民記者にとって、中立性・客観性はどういう意味を持つのだろうか。私は自分のふるまいに対して、誠実で内省的であれば、それでよいと思っている。市民記者の記事そのものがインテグレートされたものである必要はないと思う。市民記者の書く記事は、その個の持つバイアスを元に提出される。それをインテグレートするのは読み手であったり、それを編集・掲載する側だと思う。

市民参加型ジャーナリズムの記事に質を求めるという議論があるが、質の中身について定義をせぬままに論をすすめるのは、私は浅薄だと思う。
私が市民記者の記事に求めるのは、旬の記事、鮮度の高い記事である。それは、対象との時間的な距離、心理的な距離の両方においてだ。
もし、市民記者が、その質を高めるために、平行取材や資料集めなどを始めてしまったら、記事としての新鮮さは失われてしまうのは勿論、市民記者が市民であることやめ、出来の悪いジャーナリストになるだけ。それこそ、その記事の質が問われてしまう。

市民記者が紡ぐべきは、ローデータとしての輝きのある記事である。
市民が市民のまま記事を書くことが、市民参加型ジャーナリズムであって、市民がジャーナリストになることではない。そのためのシステムが市民参加型ジャーナリズムのメディアの側にないのが現状である。

市民は、自らに謙虚に、自分に起きたことを正直に誠実に語るべきだ。
情報を発信する市民は、嘘を書かないということさえ守れれば主観でいい。それを扱うメディアが中立や客観をめざせばいいのだ。

市民記者の書く記事は、落語・目黒のさんまのようであってはならないのである。

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この記事へのコメント

1. Posted by かれんの私生活公開ブログ   2005年08月11日 14:55
これってどう思う??
2. Posted by ヨン様の秘密   2005年08月17日 13:56
世の中なにがあるかわかりません。。。
いかがなもんなんですかね。。。

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