2005年08月14日

日本に市民参加型ジャーナリズムが根付かない理由はない。(14)_市民記者は、巨悪から取り組むことはできない。

東京地検の凄腕検事だった堀田力氏が、「まず、巨悪から手をつける」と述懐していたのを覚えている。

世の中に不正や腐敗は数知れずあるから、何をあつかってもいいのかもしれない。
だが、東京地検というパブリックな立場では、易きところから手をつけるのでは、悪事をはたらいている側からいえば不公平になる。そこで、より大きな不正や腐敗から手をつけることによって、公平さを保とうということだろう。



一方、市民記者は生活者であるから、世の中の巨悪から手をつけるなどということは不可能だ。だから、自分の身近な出来事で、自分の手に追える範囲の内容を扱うことしかできないくても、仕方のないことだと思う。

自分の身近な問題を扱う。そのことが市民記者活動の根本だと思う。逆に言えば、自分の専門外のことは扱わない勇気を持つことも大事だと思う。イノセントなどといえば体裁はつくが、自分の専門外のことに首をつっこみ、取材対象の意見を鵜呑みにし、結果として読者を惑わしてしまう可能性もあるのだ。

もっとも、市民記者がイノセントで読者を惑わしてしまう場合は仕方がない。だが、市民記者媒体がイノセントという訳にはいかぬ。だから、誤った時点で、訂正や謝罪を行うのが適切な処置だし、そういうことを通じて、市民記者媒体の信頼性・誠実性が築かれていくのだと思う。



報酬と取材費を得た記者の記事ばかり掲載されるのでは市民記者メディアとして失格。かといってプロフェッショナルなプレスといえるのかどうか…。
市民記者メディアならば、身近な問題を取り上げるべきであり、プロのプレスならば、巨悪から取り組むべきであろう。

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