2005年12月05日
日本の市民参加型ジャーナリズムが失敗している理由
プロ集団が参画しなかったから、日本の市民参加型ジャーナリズムは失敗しているという書き込みが湯川氏のブログにあったが、私はそうは思わない。
問題は、日本の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが、既存のジャーナリズムにこだわっていることだ。
私は、社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾する暇があったら、まず市民の声に耳をそばだるべきだと思う。
市民の声を集めることでしか市民参加型ジャーナリズムは成立しない。
書きたい市民だけ書けばいいというような運営方針では、クレーマーに近いような偏った市民・不平市民が市民記者の多くを占めるのは当然だ。
物を言ったとたん、ある意味、市民は市民ではなくなる。問題は、物を言って尚、市民でいることだ。主義や主張に押し流されず、いつまでも市民でいること。一人の消費者でいること。そのことがとても難しい。
☆
…。
自分が感じている社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾するために、市民の声を聞いているふりをしている。市民を巻き込んでいるふりをしている。その構図を外野から眺めていると、私はジャーナリズムという言葉に魅かれたもの同士の近親憎悪に思えてくる。私のようなジャーナリズムに興味のない人間には、その構図に入り込む余地などない。
☆
あるべきは、まず市民の声に耳を傾け、その言葉の中から社会の歪みや報道の不備を感じること。
☆
個人が個人として堂々と意見を述べる。それを世の中が市民参加型ジャーナリズムと呼ぶだけのことであって、当事者たちが、ジャーナリストになって意見を述べることではない。ましてや、既存のジャーナリズムから弾き出された人間たちが市民参加型ジャーナリズムに合流することで何かが生まれるはずもない。
これは、非ジャーナリストであり、情報の消費者でしかない私の感想である。
問題は、日本の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが、既存のジャーナリズムにこだわっていることだ。
私は、社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾する暇があったら、まず市民の声に耳をそばだるべきだと思う。
市民の声を集めることでしか市民参加型ジャーナリズムは成立しない。
書きたい市民だけ書けばいいというような運営方針では、クレーマーに近いような偏った市民・不平市民が市民記者の多くを占めるのは当然だ。
物を言ったとたん、ある意味、市民は市民ではなくなる。問題は、物を言って尚、市民でいることだ。主義や主張に押し流されず、いつまでも市民でいること。一人の消費者でいること。そのことがとても難しい。
☆
…。
自分が感じている社会の歪みやマスコミの腐敗を糾弾するために、市民の声を聞いているふりをしている。市民を巻き込んでいるふりをしている。その構図を外野から眺めていると、私はジャーナリズムという言葉に魅かれたもの同士の近親憎悪に思えてくる。私のようなジャーナリズムに興味のない人間には、その構図に入り込む余地などない。
☆
あるべきは、まず市民の声に耳を傾け、その言葉の中から社会の歪みや報道の不備を感じること。
☆
個人が個人として堂々と意見を述べる。それを世の中が市民参加型ジャーナリズムと呼ぶだけのことであって、当事者たちが、ジャーナリストになって意見を述べることではない。ましてや、既存のジャーナリズムから弾き出された人間たちが市民参加型ジャーナリズムに合流することで何かが生まれるはずもない。
これは、非ジャーナリストであり、情報の消費者でしかない私の感想である。
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この記事へのコメント
1. Posted by 湯川 2005年12月06日 11:31
やっぱスポンタさんの意見はおもしろい。「ジャーナリズムという言葉に魅かれたもの同士の近親憎悪」って表現いいですね。もらいっ(笑)。PJに参加する人は「ジャーナリズムという言葉に魅かれた者」だと思っていたんですけど、スポンタさんは違うのですか。誤解していたかも。
スポンタさんはPJを拡声器として使ったようなことをおっしゃってたけど、別にその必要ないんじゃないのかなあ。優れたコンテンツを出し続けていれば、主張は届くようになると思うのだけど・・・。
スポンタさんはPJを拡声器として使ったようなことをおっしゃってたけど、別にその必要ないんじゃないのかなあ。優れたコンテンツを出し続けていれば、主張は届くようになると思うのだけど・・・。
2. Posted by sponta 2005年12月06日 23:15
幼いときにはジャーナリズムに憧れもあったと思うのですが、ドラマなるものに目覚めたとき、事実と真実の違いに気がついた。以来、事実なんてどうでもいい。そう思っている。
ある番組をつくっているとき、記者と一緒に映像取材に行った。私は記者にビデオに出てもらいコメントして欲しかったのだが、断られた。それって、記者が自己規制をして、表現を閉じていると感じられた。
これは彼らの本分である記事においてもそうで、記事の中から自分の主観を排そうという職業意識がある。
ニーチェがいっていたのだと思うが、芸術を作る行為は、自分が作品に関与したという手がかりを消していく作業だというんだけど、前述の記者の姿勢っていうのを私は卑怯って感じた。
な、感じです。
湯川さんがご立腹でないことを知り、安心しました。とはいえ、湯川さんのブログの読者が立腹するかもしれないので、今回はTBにしました。
ある番組をつくっているとき、記者と一緒に映像取材に行った。私は記者にビデオに出てもらいコメントして欲しかったのだが、断られた。それって、記者が自己規制をして、表現を閉じていると感じられた。
これは彼らの本分である記事においてもそうで、記事の中から自分の主観を排そうという職業意識がある。
ニーチェがいっていたのだと思うが、芸術を作る行為は、自分が作品に関与したという手がかりを消していく作業だというんだけど、前述の記者の姿勢っていうのを私は卑怯って感じた。
な、感じです。
湯川さんがご立腹でないことを知り、安心しました。とはいえ、湯川さんのブログの読者が立腹するかもしれないので、今回はTBにしました。
3. Posted by mimimi 2005年12月11日 21:13
プロと市民記者の違いはナンでしょうか?それで食べている人をプロと呼んで他の仕事の合間に無給でやっている人がアマ(市民記者)でしょうか。
だんだんその差がなくなるのでしょうか。
だんだんその差がなくなるのでしょうか。
4. Posted by sponta 2005年12月12日 09:55
これはすべての職業人についていえるのだが、職業人の前に市民であること。
いまのマスコミは、昔は街のラーメン屋でいい味出していたのに、チェーン店にして、借金をたくさん抱えたら、味が落ちた。そんな感じ。
うまいラーメンをつりたいからラーメン屋をはじめる。それが普通で、ラーメン屋をやると儲かるからってはじめる人は少ない。儲かりたかったら、株屋にでもなればいい。
いまのマスコミの腐敗は、表面的なかっこよさ(反体制をきどること)や高報酬につられてマスコミ人になった人が多いことの現われです。
いまのマスコミは、昔は街のラーメン屋でいい味出していたのに、チェーン店にして、借金をたくさん抱えたら、味が落ちた。そんな感じ。
うまいラーメンをつりたいからラーメン屋をはじめる。それが普通で、ラーメン屋をやると儲かるからってはじめる人は少ない。儲かりたかったら、株屋にでもなればいい。
いまのマスコミの腐敗は、表面的なかっこよさ(反体制をきどること)や高報酬につられてマスコミ人になった人が多いことの現われです。
5. Posted by sponta 2005年12月12日 10:04
>プロと市民記者の違いはナンでしょうか?それで食べている人をプロと呼んで他の仕事の合間に無給でやっている人がアマ(市民記者)でしょうか。
ジョイ伊藤氏は、利益を求めてインターネットに関わるのは頓挫する。だが、あとでご褒美がもらえる。と、いうようなことを言っている。
所属団体の利害で書くことを記者の弊害であるとするなら、記者活動時間をどうして捻出したかでプロかプロでないかが別れるだけ。
最近のソフトのタイトルでは、民生用の最高級バージョンがプロらしい。それって現実なんだよね。プロって業務用の下なんだ。そして、業務用って、ユーザー数が少ないから、民生の最高級バージョンより使い勝手が悪い。
ジョイ伊藤氏は、利益を求めてインターネットに関わるのは頓挫する。だが、あとでご褒美がもらえる。と、いうようなことを言っている。
所属団体の利害で書くことを記者の弊害であるとするなら、記者活動時間をどうして捻出したかでプロかプロでないかが別れるだけ。
最近のソフトのタイトルでは、民生用の最高級バージョンがプロらしい。それって現実なんだよね。プロって業務用の下なんだ。そして、業務用って、ユーザー数が少ないから、民生の最高級バージョンより使い勝手が悪い。