2005年12月11日

自分という文脈を生きる。(その1)

湯川さんのブログに反応した私がいた。
>ただ一度世の中に流れるだけでも、害を及ぼす情報もある。少年犯罪の実名がそうだ。

これなども、社会の一員ということを考えるならば、情報と無関係に個は存在できないのであって、情報と人格が寄り添って生きていれば、実名で報道されたとしても克服できる。そして、そのような魂であることが社会の構成員としての資格。
ボケたらつっこむ。つっこまれたら切り返す。そういう吉本新喜劇的なことができれければ、舞台からの退場を余儀なくされるのだ。

人間が考える葦であるといったのは、一本の葦のようなちっぽけな存在である意味ではなく、一本の葦のように、風がふいても、しなやかにたわんで、やり過ごすことができる。…そういうこと。

イランの自爆テロの犯人たちの中に少年たちが少なからず存在することを考えると、こどもといえども無垢で罪がないといえるのかと考えさせられる。重要なことは、すべての魂にたおやかさの源泉となる確かなる自己が確立されることだと思われる。

sponta0325 at 09:11│Comments(0)TrackBack(0)

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