2005年12月14日

自分の名前は特別なものではない。(その1)

自分にとっては自分は特別なものだけど、社会にとっては特別なものじゃない。それを知れば一丁前。

京都の進学塾講師は、その乖離に耐え切れずにして、小学生の女の子を刺殺することで特別な存在になった。自らの塾教師としての不適応など、刺殺の対価としては取るにならないことだというのが、犯行を犯すまで分からなかった。

マスコミ人が実名報道が規制されることに抵抗している。私はそれを報道する側のご都合主義と考える。私は報道される側がもっとしなやかにしたたかになればよいと思っている。

実名報道、匿名報道などというけれど、名前は名前でしかないのだ。十五年前、三浦カズヨシの名を聞いたときに、ロス疑惑のことを思って妙な感じがしたが、いまトヨタカップクラブ選手権に出場する三浦知良選手を見ると、名前などたいした問題ではないと思えてならない。

彼の過去を振り返るとき、岡田監督の「カズ、三浦カズ」というフランスワールドカップに連れて行かない宣言の映像がかならず流される。何故、岡田氏はカズ、三浦カズと2度繰り返したのか。何故、三浦知良選手と一言ですまさなかったのか。故障したカズを外すことに冷徹でいられなかった岡田氏の弱さが見て取れる。このビビリがフランスでの3連敗に結びついた。

名前など所詮文字列であり、音声でしかない。誰も同姓同名だと文句を言うことはできないし、名前が同じだからといって個性を特定したことにもならない。そういう虚妄に多くの人が捉われている。虚妄を越える実。いま、そこにあること。そのことを腹にすえて生きていくべきだ。名前なんて古くなったら脱ぎ捨てればいい。そんなものかもしれない。

このあいだ香取慎吾の番組で、ハマコーが黙して語らなかった過去を吐露していた。巷間の罵詈雑言に耐えた彼のダンディズムが眩しい。最近、平蔵大臣が資料を調べていて、アクアラインがトンネルと橋が建設業者のことを考えてちょうど半分どうしの建設費でできていることに感動したそうな。

周囲の罵詈雑言に自らを失わない。そういう胆力とでもいえるものが人の価値を決定するのではないだろうか。

名を惜しむことも必要。だが、名を虚しくすることのほうが尊いに違いない。



sponta0325 at 11:46│Comments(0)TrackBack(0)

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