2005年12月16日

自分という文脈を生きる。(その2)

ネットは新聞を殺すのかブログの湯川氏は、「参加型Jの薄気味悪さ」と書いているが、それは人間が本来他者が持っている薄気味悪さ(悪意やマイナスのエネルギー)を見ないふりをして生きていることを気づかせているに過ぎない。

我が妻は霊感の強いのだが、かつて彼女から、「沢山人の想念を感じるから満員電車に乗ってられない」と嘆かれたことがある。 私などは、まったくの鈍感だから、満員電車も平気のへいだが、人を知るということは本来そういう薄気味の悪いものだろう。

だが、見方を変えるとどうだろう。自分はこういう人だ。こういう思いで生きている。そのように自己紹介をする。それが悪いことだろうか。他人のことをあれこれ詮索することは、マイナスのエネルギーに属することかもしれないが、自分のことを他人に知ってもらいたいことは、プラスのエネルギー。人々を不愉快にはしない。勿論、自己顕示欲が嫌味になることもあるかもしれない。けれど、インターネットで継続的に自らを露出することは、浅薄な自己肯定などは不可能と思われる。また、自己を露出することによって自己も磨かれるし、マイナスのエネルギーから逃れることもできる。勿論、自己を露出する段階で、自らのマイナスエネルギーを放散する人もでてくるだろうが、それが社会に知らされるのだから、社会の側の対応も期待できるというものだ。

「わたし、きょうプライベートでお買い物に行ったの」と、娘との間で笑い話をしている。無名氏の素人である娘にも、私にも、パブリックな部分がないのだから、プライベートもない。だから、ジョークにもなる。

そう考えてくると、パブリックジャーナリズムに参加するものたちの、心根が見えてくる。

無名氏の素人が記事をあげることによってパブリックな存在になれる。そういう意志が記事をあげる人たちに共通してあるような気がする。

勿論、それは原罪とでもいうもので、すべてのパブリックな個性が有するものであり、すべてのパブリックな個性が克服しなければならないものである。



sponta0325 at 08:54│Comments(0)TrackBack(1)

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1. ニート  [ ニート女が男を釣る ]   2005年12月16日 09:34
色々実験中、獲物募集(W

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