2006年05月16日

個にとってのサーバー&クライアント。サーバーであることの誇り。

ハイティーンの若者たちが引きこもったり・逆ギレする原因は、サービスする側(サーバー)になることに耐えられない自尊心が原因だと思っている。生まれたとき、人間は一方的にサービスされる側(クライアント)である。

だが、物心がついていくと、「自分のことは自分でやりなさい」としつけられる。この言葉の表面にあるのは自立という概念だが、その実体は、自分がクライアントではない。という屈辱を幼い心に刻み付けることでもある。

だが、次第に、「新聞を取ってきてくれ」「御茶碗を洗ってね」と両親から言われ、いつしかサービスする側になっていく。

私が「新聞を持ってきて」と命令するとは、娘は玄関の外に出て、新聞を持ってきてくれる。その様子を見ていると、けっして不機嫌ではないことを感じる。自分がサービスする側なのだけれど、そのことを楽しんでいる。父親に喜ばれることに満足している。「リアルままごと」のようなものだが、サービスすることの喜びを知っているに違いない。

だが、食事のあと、カミサンが「御茶碗を洗ってね」と言うと、へそを曲げる。けっして洗おうとしない。冷たい水で食器を洗っていた昔とは違い、いまはお湯で洗うのだからまったく苦痛ではない。ましてや、水遊びが好きだった娘である。

私には食器洗いをがんとして行おうとしない、彼女の気持ちが分からないでいた。だが、サーバーということを考えれば分かりやすい。彼女は自分がサーバーであることに抵抗しているのだ。そんなことに屈辱を感じないで、楽しんでやっちゃえばいいじゃないか。47歳の私は、そう素直に考えることができる。だが、この私も10代の頃は、サーバーである屈辱感を感じていたのであろうか、たまにしか自分の茶碗を洗うことをしなかった。

いまは、自分がサーバーであることに屈辱感はないし、サーバーであることに誇りを持っている。それが親というものだろう。

さて、職業人であることはサーバーとしての誇りを持つことである。

料理人はサーバーだから、自分がつくった料理を客が満足することで、満足する。それが真っ当。だから、自分の料理を不味いと言う客を認めない料理人はクライアントであり、本質的には職業人ではない。

客を罵倒するなどもっての他。客として相手を認めないならば、今後の出入りを禁止すべきことであって、サーバーとクライアントの関係が続いている状況では、その関係に縛られなければ、職業人としての見識が疑われる。また、自分と同じ立場の客が罵倒されている状況を他の客も見ているのだから、明日は我が身との心理になる。そこから、店の評判が落ち、客離れがはじまったとしても、仕方のないことだ。

私は、自尊心を持たぬことに自尊心を持つ。などと、理屈っぽいことを書いたが、私をそのような考えに至らせた理由は単純だ。私の助監督(AD)としての経験である。

作品のためなら何でもする。奴隷にでもなる。そういうストイシズムが、薄給の助監督の誇りである。

女優が冷たい池に入るシーンの撮影では、まず助監督が冷たい池に入って見本を見せる。そんなことは当たり前だ。

今村昌平監督の代表作「日本昆虫記」には、北村和夫演ずる農夫が肥料(糞尿)の具合を調べるために舐めてみるシーンがあったという。豊作のためには何でもする。そういう農民の真剣さ・切実さを表現するには、素晴らしいシーンだと思う。

私がもし、今村昌平監督の現場に助監督としてつく名誉があったならば、役者に先んじて糞尿の味を確かめ、演技者の北村氏に、「ちょっとしょっからいけど、大丈夫です。本番いきましょう」と報告し、大きな笑顔をつくったに違いないのだ。

そのように、私はスタッフであることに誇りを持っている。私の文章から一般ピープル蔑視を読み取った人がいるが、それは私の本意ではない。イベントや撮影の現場において、私はつねにサーブする側を意識している。だから、私がなりたかったものはスタッフ(サーバー)。スポットライトを浴びるキャストではなく、あくまでスタッフなのです。

そして蛇足をあえて言うなら、キャストが自らがサーバーであることを忘れてしまったら、その価値はない。

私は、素晴らしい演技やパフォーマンスのためなら、奴隷にでもなるが、出来上がる作品に価値がないと悟ったら、そうそうと立ち去る。そのようにして、さまざまな制作の場を彷徨ってきた。

あの夜、私に「アウェーの気分なの」と言った若い女性の言語感覚は目を見張る。だが私は、ホームでもアウェーでもなかった。言い換えれば、サーバーでもクライアントでもなかった。

私は、ブロガーでもある有名人とそこに集ったブロガーたちのオフ会に接して、自らが模索する市民参加型ジャーナリズムへヒントを得ようとしていた。だから、ある意味、報道陣だったのだといえる。

もの言わぬ観客に代わって報道陣が語ることはよくあること。そんなことだったと私は述懐する。

ラジオの公開録音のような構成がオフ会にふさわしいものであるはずもなし…。

私が構築をめざす市民参加型ジャーナリズムの中で、私がどういう立場を目指すかといえば、あくまでサーバーであって、コンテンツメーカーではない。そこに、私がメタ議論を繰り返すという批判が当然でてくる。私はそういう批判と辛抱づよく対応しなければならないのだ。

マイクロソフトはコンテンツには手を出さない。だから、ニュースサイト構築において、毎日新聞と提携した。私の野望も、それに同じといえば、イメージできるかもしれない。



sponta0325 at 07:50
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